Ossan's Oblige "オッサンズ・オブリージュ"

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

インドのマイソールで南京虫と出会った日の記録

記憶というものは写真や文章で記録しないと次々と失われていくようです。
まだ20代の私にもそれは起きていて、数年前に滞在したインドなのに思い出せないことが結構あります。
せっかく残しておいた写真たちは思い出の詰まったスマホごと某国のスラム街で盗まれてしまいました。

だから完全に記憶が失われる前に記しておきたいと思います。

私の南京虫の話が誰かの役に立つかは分かりません。
しかしながら、記憶喪失を防ぐという個人的な目的において必要なのです。

情報提供にも留意しつつ、南京虫と出会ったインド・マイソールでの出来事について記します。


インドの古都マイソールは、別名「インドのシリコンバレー」バンガロールと同じカルナータカ州に属する都市。
バンガロールから約150kmの距離にあります。
ここへのアクセスは鉄道、バス、タクシーなどありますが、一番安上がりなのがバスでしょう。
マイソールは、マイソール王国が栄えた都市で昔ながらの建築物が多く残っているとのこと。

インド留学の開始まで1ヶ月ほどを残していた私は、昔ながらのインドを見るべくマイソールに向かいました。この都市で南京虫地獄に放り込まれることになります。

バンガロールのブリゲードロードを下り坂の方向に抜けると大きな交差点があるので、そこでリキシャを拾い、バスターミナルへ向かいます。
ほとんどの場合、外国人にとってリキシャマンは詐欺師と同義なのですが、詐欺を防ぐ方法は、現地人と同行することです。
現地の友人と一緒に乗り込むか、あるいは現地人に交渉を代行してもらえば、適正価格で運行してくれます。

昔のことなので、バスターミナルの様子は覚えていません。ただ周囲に漂う真っ黒なバスの排ガスは、白い服を着た人なら数時間で灰色に変色してしまうのではないか、と思わざるをえないほど酷かったです。おまけに地面のアスファルトからの熱気もあり、1時間とい続けることはできません。
多くの現地女性がハンカチで口を覆い、排ガスの吸引を避けているのを目にしました。

バンガロールからマイソールへは、約5時間程度(曖昧)。
乗り合いの安バスですが、隣り合わせた現地の方々が話しかけてくれ、たくさんの笑顔をくれました。

インドの車道には、一定区間ごとに段差が設置されていて、道路の端から端まで伸びているため、車はこれを避けることができません。
そして段差が高い。段差にぶつかる度に車体が大きく揺れ、バス内で睡眠をとろうとする試みは、必ず妨害されます。
これはおそらく一向に速度制限を守ろうとしない現地民を抑えるための措置なのでしょう。
しかし、やり方が強引すぎて、外国人には辛いものがあります。
しかし、インドのリキシャが、客そっちのけで突然、隣のリキシャとレースを始めたりするカオスのことを思えば、まあ納得できます。
自己中が横行するインドでは、致し方ない行政措置なのでしょう。
(しかし、劣化した車体だと故障しかねないくらいの衝撃が走るので、逆に事故を引き起こしそうな気もする)
なお、このタイプの道路はフィリピンにも見られました。

正午頃に出発してマイソールに到着すると、外はもう暗くなっていました。

マイソールは、14世紀から19世紀までマイソール王国の首都が置かれていた都市で、歴代の王朝が文化保護に努めたため、文化が大きく栄えました。
歴史ごとにヒンドゥー、ムスリム、イギリスとバックグラウンドが変わったため、街の雰囲気はこれらが混在しています。
郵便や銀行などの西洋由来の施設はイギリス式、またお城の建築もイギリス的なのですが、どことなくムスリム的な雰囲気も混じっており、城のてっぺんにはイスラム様式のドームが置かれてます。ミナレットはなかったように記憶していますが、雰囲気的にはイスタンブルが近いかもしれません。そんな城の外にある庭の周囲を悠々と像が歩いている光景。

しかしイギリスの影響が及んだ地域なだけあって、格差は激しいようでした。
いったん城のある中心街から離れると、そこには悪臭のする貧困地域が広がっています。
とはいえ、見た目はみすぼらしくとも明るく快活な人が多く、バンガロールのいたるところにいるような詐欺師に遭遇することはありませんでした。
さすが多くの文化が交わった都市だけあり、外国人に対しても寛容で、仲良くなると住民は街の案内をしてくれ、ガイド料も請求されませんでした。


さて、前置きが長くなりましたが、
それまで南京虫の存在なんて考えもしなかった私が南京虫の襲撃を受けたのは、そんな王都マイソールの安宿です。

当時の写真はもう手元になく、場所の特定はできないのですが、西洋建築の郵便局や警察、銀行といった施設が集中した交差点から東西南北4方向に伸びた道を郵便局側から進むと、大通りの左右にローカルの店舗が並んでいます。その大通りから右手に一本外れると辺りにはローカル向けの食料品店などが多く並んだエリアに入ります。その中には安宿も多いです。

このエリアの安宿で南京虫に襲撃されたのです。


ホテルは太陽の当たらない薄暗い場所の一画にあり、エントランスからロビーに入るとムスリム風の無口そうな男性がフロントを務めていました。
案内にある一泊200ルピーの文字を見ると、インドに来た実感が湧いてきます。
200ルピーといえば当時のレートで約400円、1ヶ月滞在でも12000円で収まる額。さすがに信じられず、フロント男性に本当かと聞くと、本当だと返すので、何も疑わずに部屋に向かいました。
だいたい4泊くらいしたと記憶していますが、1600円程で済むはずのこの部屋が15万ルピー(当時のレートで約30万円)規模の出費を強いることになります。

安宿に安かれ良かれと飛びついた私ですが、これが想像もしない事態を招くことになります。



部屋に入った私は、かねてより「沈没」というものに憧れていたので、すぐさまベットに飛び込み、Mac Book Airを取り出しネットサーフィンを始めました。
周囲にいるのは見知らぬインド人なので、私を監視したり止めたりするものは誰もいない。そして物価は、日本の1/3ほどという環境。
どこか罪悪感を感じながらも、まるで自分が貴族階級になったような気分で、沈没の雰囲気にどっぷり浸かります。

途中、カメムシのような米粒ほどの大きさの四角形の虫がベットの上を通り過ぎましたが、私に気づいて必死に逃げる姿がかわいそうに思えて放置しました。

しばらくすると小腹がすいてきたので、
部屋の脇にある古ぼけたドレッサーの上のメニューをとり、横のボロボロの電話でフロントまで連絡を取ります。
メニューの料理はスープで120ルピー程度。
フランチャイズ店と提携しているらしく、決して安くありません。
とはいえ日本の物価からすると普通なので、美味しそうに見えた料理を3点ほど選び、フロントに伝えます。

30分ほど待つとノックの音が聞こえたのでドアを開けると、料理の入った青いビニール袋をさげたホテルクラークが立っていました。
ビニールを受け取ってチップを渡すと、クラークはサンキューと返した後に一言二言何か喋って出て行きます。
期待しながらビニールから料理を取り出すと、熱いスープはすぐに溶けそうな薄い透明のビニール袋に包まれており、チャーハンは白色のカップの中に敷き詰められていました。カップの作りは悪くないですが、急いで作ったのかカップの取っ手のまわりに脂が漏れ出していてベタついています。
スープはけっこうな熱さだったので、おそらくビニールが溶けてスープにダイオキシン的な成分が溶け込んでいたはずです。
東南アジアあるあるです。
そんなインドクオリティに首をかしげながらも、せっかくなので全部平らげます。
なんというか、手作り感がやばい。俺でも作れる感全開です。

とはいえ、結構な量のローカルフードを口にして一定の満足感を得た私は、徐々に瞼が重くなり、インドに慣れつつある満足感と共に意識を失いました。


何時間たったか分かりませんが、違和感とともに目を覚まします。

体に違和感があるので、その部位を触ると腫れている。

それはどうやら胴体のあちこちに起きているらしく、服を脱いで体を確かめると、あちこちに赤い発疹ができています。
不衛生なインドにあって、発疹ができたということはウイルス感染の可能性しか思い浮かびません。
とりあえず最初は風土病だと思ったので、とりあえず新しい料理を頼んで、自然治癒力を高めることに専念しました。
免疫力を活性させようと肉と野菜の入った料理をふんだんに注文し、たいらげて、また寝る努力をします。

目覚めると、さらに赤い発疹が増えている。

また同じことを繰り返し、また発疹が増えている。


この宿に宿泊して2日目にして胴体と足回りは赤い発疹で覆われていました。
さらに、この頃になると初期にできた発疹が激しい痒みを発し始め、普段はもちろん、ご飯を食べていても、人と話をしていても、道を歩いていても、患部を掻かずに入られないほどの痒み。よく見ると発疹にはNARUTOの写輪眼のような綺麗な三角形の斑点が残っていて、疫病にしてはおかしな痕だと違和感を感じたことを覚えています。

しかし当時は打つ手も見当たらず、風邪のように放っておけば治るだろうと楽観していましたが、徐々に「俺は異国の地で風土病で死ぬのか」という不安が頭をもたげてきました。

ベットを行き来するカメムシ状の虫は、どこか「可愛い」雰囲気があったので、通り過ぎる虫の数が増えても、ひたすら放置していました。
とはいえ、初めて見たときよりも体の色が赤っぽく、膨らみを帯びていることに気づきます。

まさか?と思い、すまないと思いながらも試しに一匹潰してみると、赤い鮮血が飛び散りました。それも結構な量です。
モスキート(蚊)を潰した時、予想以上に血を吸われていたことが分かってイラッとすることは誰もが経験あると思います。あの瞬間も手に血痕が広がりますが、南京虫を潰した時の血の量と衝撃は、その5倍はあったでしょう。

とはいえ、この虫に怒りを感じると同時に、発疹の原因が分かったスッキリ感、また疫病でないと気づいた安心感なども同時に去来し、当時の心情がとても複雑だったことは確かです。
もしかすると死の恐怖を乗り越えた安心感が一番強かったかもしれません。

虫を排除すれば更なる発心は避けられる。

そうと分かったら掃討作戦に入るだけです。
結構な数の虫がベット状にいたので、真顔で一匹ずつ潰していきます。
セルジュニアのように大慌てで逃げる個体もいましたが、サイコパス的な眼差しで処刑。

体にできた発疹には大きなものから小さなものまであり、成虫以前の小さな虫でも血を吸うことを示していました。
だから、目に見える成虫を全滅させたからといって、安心はできません。
とりあえず今日は我慢して、明日一番にこの部屋を出ることを決意します。
小汚ない部屋から離れればもう虫はいないのだから、血を吸われることはない。

このような楽観はすぐに裏切られることになります。

翌日、鋭い眼光で睨みをきかせながらホテルマンに鍵を返し、無言でホテルを後にしました。
ホテルマンは後ろめたそうだったので確信犯だったのでしょう。
安宿の恐怖が理解できたので、これからは害虫のリスクを嫌って一泊1000ルピー以上のホテルに宿泊することに決めます。
また、宿を出ると同時に、古いのか整備されていないのかよく分からないマイソールに対する苛立ちが湧いてきたので、観光をやめてバンガロールまで戻り、留学の開始に備えることに決めました。バスに乗って再びバンガロールに向かいます。


ちなみに、200ルピーの部屋に泊まったのはあの1回きりで、それ以降は1000ルピー程度の宿を使うようにしました。
しかし、そこはインドクオリティ発動。
1000ルピーを越える価格帯の宿でも南京虫が出る宿にたくさんで会いました。



さて、200ルピー宿の反動でバンガロールのちょっと高めの宿をとった私は、そこで3泊しました。
南京虫が確実にいない空間で過ごしたかったのです。
蚊のいない空間で蚊に食われることはないように、南京虫のいない空間で南京虫に噛まれることはない。
マイソールという危険地帯を離れ、かつ価格帯の高いホテルにいるのだから、自分はもう安全です。

しかし、2泊目に目が覚めると、前日に噛み跡がなかった箇所に新しく赤い発疹ができています。
混乱した私は、インターネットの助けを借りることにしました。
ホテルのWIFIは繋がらなかったので、ホテルから出て、通信サービス会社の赤色の看板を掲げた店に向かい、通信容量切れのSIMカードに容量をチャージします。(フィリピンではロードという)

調査の結果、あの害虫は南京虫、別名トコジラミと呼ばれる吸血性の害虫で不衛生な環境に生息するとのこと。
また、自身は移動能力を持たないので、宿主とした人間や動物の機動力を利用して、生存権を拡大していくことも分かりました。
また人の荷物に産卵し、その子供同士が近親交配することで爆発的に繁殖することもあるのだとか。
ここで荷物への付着に気づいた私ですが、当時は荷物を買い換える勇気も金銭的な余裕もなかったので、とりあえず洗えるものは全部洗い、捨てて問題ないものは全部捨てて、様子を見ることにしました。

その後、金銭的な目処がついてから荷物を全部捨てて、新しいものと交換するなどの処置を何度か行いました。
しかし駆除に成功したように見えた後、別のホテルでまた貰うの繰り返しで、堂々巡りの様相を呈していきます。


インドに潜む南京虫の危険性については、もっと焦点が当てられてもよいし、
何より高度外国人の呼び込みに必死なインド政府の方針にとってマイナスどころか、人材流出のリスクにもつながりかねないでしょう。
モディ首相には対策を急いでいただきたいところです。
少なくとも、私はもうインドには行きません。南京虫に遭遇したバリ島も避けたいです。

インドの安宿に憧れている旅人気質の方の参考になると嬉しいです。行くこと自体は止めませんが、覚悟と対策をお忘れのないように。