Ossan's Oblige "オッサンズ・オブリージュ"

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

ジャカルタの記憶

インドネシア人の民度やばくね

日本のネットには、インドに対する悪口が溢れている。
曰く、汚い、暴力的、詐欺的など。
確かに北インドにはそれが当てはまるのだろう。しかし少なくとも南インドの人々は平和的で穏健的だし、詐欺も嫌だと示せば止めてくれる。

むしろ、ネットにあるインド悪玉論のほとんどはインドネシア人に当てはまる特徴だと思う。
インフラ崩壊、詐欺の横行、表情の邪悪さ。
インドネシアと言えば、パプアニューギニアと隣接する地域があるが、ここではいまだ魔女狩りが横行している。
島によっては国境を接しており、同じ島の中に国境で2つに隔てられている状態だ。
つまり民族的には同祖なのであり、インドネシア人中にパプアニューギニア人的な特徴が認められることものがいることは疑いはない。

インドの風習サティは、未亡人に旦那の後追いをさせる風習だった。パプアニューギニア魔女狩りに比べればだいぶ穏健的だったが国際世論からの批判を受けて消滅した。
魔女狩りでは、「魔女的」な特徴の断定と思い込みから魔女認定された女性に対して、想像を絶する暴力が行使される。最終的には生きたまま焼かれる。
こんな野蛮な風習が、なぜ放置されたまま温存されるのか意味がわからない。
私がパプアニューギニア周辺に近づかないことに決めている決定的な要因である。


インドネシア人といっても多民族国家で人も様々なのだが、究極的に言えばパプアニューギニア的な粗暴な人と、穏やかで親切な人の2パターンに分かれていたと思う。
とくに都市区画ごとに人のタイプはよりけりで、クタのどうしようもない連中がいると思えば、クタのでっかい電光掲示板から数百メートル進んだ先には穏やかで親切な人々の集落が存在している。数百メートル離れただけでこんなに違うのかと驚いたものだ。


東南アジア随一の自然破壊

街には民間人のポイ捨てで魚の住めなくなったドブ川が流れ、その周囲にバラック同然の住居が林立している。
自然の豊かな土地にあって木々や河川の占める空間が大きいのだけど、誰も拾わないゴミが溜まりに溜まって豊かな自然を埋め尽くしてた。

インドの都市でも思ったことだが、自然を大事にできない連中というのは、いつかしっぺ返しを食らうだろう。
とくに河川と森林は歴史的に都市生活の中心であり、市民生活に不可欠な飲用水と燃料の薪を提供してきた。
世界の有名都市が、人種や宗教圏を超えて川の周辺に栄えたことを思えば、河川の重要性は一目瞭然である。
テムズ川のロンドン、ナイル川のエジプト、ドナウ川のウィーン、利根川の江戸などなど。
河川の豊かな都市は豊富な水源によって森林も開けていく。

にもかかわらずインドネシアジャカルタ)の街並みを見ると、まるでゴミ箱に捨てるかのように、市民は河川にゴミを投げ捨て、汚染することに抵抗がない。
河川の汚染著しい街にあって、生活用水が使い物にならないことは明らかだし、彼らの飲用水も対外依存が進んでいるのだろう。
今はまだ無視できるかもしれないが、水質の汚染が森林の削減〜山の崩壊として目の前にきっと現れるから今に見てろと言いたい。

しかしこれは、インドにもインドネシアにもフィリピンにも共通する問題点だった。

豊かな自然の助けを受けて生きてきた東南アジア人が、自然を粗末に扱うことが理解できない。

インドを見ても、自分はけっこう真剣に、BRICKsの一角としてのインドの発展は、土地の荒廃で頭打ちになると思っている。
今の所、インドには安いミネラルウォーターが流通し、市民の水需要は満たされているが、外的援助の手厚さが逆にインド人から自然破壊を見直すきっかけを奪っているように思える。

方向転換することもなしにこのままインド人が自然破壊に突き進めば、過大人口の消費活動によって、やがて森林の浄化作用が失われていくだろう。
そうなると、山の地面が保水能力を失ってぬかるみ、土砂崩れが頻発し、街がよどみ、元々の不衛生が災いして象の糞などを媒介に疫病が蔓延していくだろう。
彼らの躊躇ない自然破壊を見ていて自滅はそう遠くないもののように見えた。

かつて日本も発展の過程で公害を引き起こしたが、インドに比べると人口規模も小さく、何よりすぐに是正に取り組んだことが即座の問題解決につながった。
インドは、自分たちが人口13億の消費活動という異次元の世界線に突入しているにもかかわらず、自然の限界能力に無自覚で、滅びようとしている。(ように見えた)
インドネシアはインドほどの人口規模はない。しかし、2億6000万の人口は十分に大人口国の部類であり、向かっている方向性はインドと同じだと思う。


盛んなローカル店が面白い

これはインドネシアだけでなく、インドでもタイでもフィリピンでもマレーシアでもそうだったし韓国も同様だった。見方によっては日本も同じだろう。
では一体何かと言うと、ローカルのお店が残っているのである。

路上にはローカル向けのお店があちこちに点在していて、24時間通して必ずどこかが開いている。

それは都市景観の一部であり、扱う品の不統一さ、雑多さが都市の多様性を代表していて面白い。


インドネシア、君も世界経済に飲み込まれていくんだね。

しかし、日本に起きたことはこれから後進国に起こることだ。

日本は世界初の新興国だったと言える。「産業革命による生産技術の進展」のことを近代化といい、後進国は近代化によって先進国の仲間入りを果たすためだ。

したがって、世界初の新興国日本に起きたことは、後進国がこれから通過する未来だといえる。

日本の商店街は1990年代の大店法の改正によって、大企業との競争を強いられ廃業するか減収を余儀なくされるか、あるいは傘下に取り込まれていった。

それまで地域の商店街に分散していた売り上げも、少数の大企業に集約され、人々は下請けや従業員として大企業の下部構造に組み込まれていった。

そして、その企業グループを投資家である欧米資本が上から支配するという、世界的な業界の階級に組み込まれたのである。

この日本がたどったトレンドに、いずれは後進国も乗って行くことになるだろう。

ローカルの売り上げが盛んな地域も、いずれは日本の商店街同様に居場所を奪われ、下請けや従業員として大企業に組み込まれていくだろう。

そしてローカルマネーの集約を果たした大企業の膨張が起こるのである。

まだそんな気配はまだあまり感じられない牧歌的な時代のインドネシアを訪れることができたのは、よかったのではないかと思う。