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人種差別と民族主義を区別すべきだと思う

1 人種差別と民族主義は別物

人種差別は、否定されています。当然です。

本人の言動によることなく、人種的な特徴を持ち出して侮辱を与えることに、何の合理性も正当性もありません。
これを許せば、すぐさま社会運営に支障をきたし、社会的安定が失われるでしょう。

しかしながら、定義不足に陥りがちな民族性が災いし、人種差別と民族主義の区別がついていない人が多いのではないかと最近思いました。

確かに人種主義と民族主義は見かけ上大変よくに似ており、互いに共通点を持つコンセプトです。

しかし、両者はまったく異なるものです。wikipediaでも区別されています。

中には、某国の経済侵略を指摘しただけで「差別だ」と批判してくる人も見られますが、

人種差別と民族主義を混同するのは間違いです。

自分にとってもはっきりせず、消化不良気味なので、これを機に捉え直してみたいと思いました。





2 人種差別と民族主義の違い

世の中は、人種問題と関連を持つ排斥行為で溢れています。

今でこそ安定的な日米関係ですが、かつては日本民族に対してアメリカ国民から猛バッシングを浴びせられた時代がありました。

例えば、戦前ならアメリカへの日本移民流入が相次いだ1920年代。

また、戦時なら太平洋戦争で対立した日本民族へのヘイト表現。

戦後には、1980年代の日米経済摩擦を反映して日本製品の打ち壊し、またヘイトクライムが続発しました。

こうした日本民族に対する差別運動は、すべて人種主義に基づいていたのでしょうか?

必ずしもそうではないと考えます。

人種での括りを持つため人種差別のように取れますが、私は民族主義を基本とする反対運動として捉えています。

民族主義は、他民族によって自民族の利益が侵害された場合に起こります。

この他民族とは、異なる言語・文化・宗教を持つ集団のことを指し、人種特有の形質を攻撃対象とする人種差別とは区別されています。


たしかに「排日移民法」成立の1920年代に大統領を務めたルーズベルト大統領も、強烈な日本バッシングを行いました。

しかし、当時1920年代は、第一次世界大戦の戦争特需で経済発展を遂げた日本が、まだ新興国だったアメリカと肩を並べて競争する勢いを示しており、アメリカの国益にとって大変目障りであったという経緯も踏まえるべきでしょう。

1853年の開国から急速な早さで近代化を果たした日本の動きを、彼が警戒していなかったはずがありません。

一概に排日移民法が「ルーズベルトが差別主義者だから」作られたとは言い切れない部分もあるのです。

つまり、1920年代に見られた日本移民排斥は、アメリカ労働者の保護のために行われたと見ることができます。

戦中の日本民族への差別表現も、敵対民族に対する憎悪を高めるための措置であり、アメリカはそれによって戦争を有利に進めようとしたのだと考えられます。

アメリカの対日赤字が問題視された1980年代にも、同様に自国製品保護を求めて日本に対するヘイトクライムが見られました。

こうした運動の共通点は、運動の時期に日本の成長によってアメリカの国益が脅かされていた点です。

言い換えれば、ヘイトクライムは、日本がアメリカの国益を奪う構えを見せた時に限り活発になっています。


その証拠に、日本人がすっかり大人しくなり脅威が消えた現在では、日本批判はすっかり影を潜めています。

そもそも、こうした運動がすべて人種差別によるものなら、アメリカの「移民国家」というアイデンティティはたちまち瓦解してしまうでしょう。


たしかに、戦時に行われたプロパガンダには、「メガネをかけた東条英機元首相を醜く描いた絵」に象徴されるとおり、人種差別の延長上にあったことは否定できません。

しかし、根底にあるのは、他国の脅威に対する自国民の保護、あるいは先んじた利益追求であり、防衛本能として見ることもできるでしょう。
 
つまり、一見人種差別と取れる運動でも、根底には防衛本能としての民族主義が流れている場合があるのです。


その理由は、人種差別の内包する形質差別が誰にでも伝わり、広がりを持ちやすいためでしょう。

同じ民族主義運動を掲げるにしても、政治的主張はその複雑さゆえに人々に伝わりにくいことが多い。

そんなとときに最も手っ取り早いのが、相手の形質や気質を持ち出して攻撃対象にすることなのだと考えます。

wikipediaにおける「人種差別」は、「人間を人種や民族、国籍、地域において、その特定の人々に対して嫌がらせ、いじめなどの行為や差別をすること」とまとめられています。

つまり、人種に対して特定のイメージを作りだし、個人と接触する以前から、そのステレオタイプを当てはめて判断しようとする心理傾向といえるでしょう。

この人種差別は社会運営の阻害要因であり、徹底して排除されています。

もちろん、民族ごとに違いがないなら、白人、黒人、黄人という区分けは存在しません。

むしろ各民族は、地理、気候、文化、宗教によって歴史的に形成されたそれぞれの特徴を持ち、相互に違いを有します。

だとすれば、その違いが好ましいと認識されることもあれば、忌み嫌われることもあるでしょう。

このように個人にも好き嫌いがあるため、博愛主義を持つ事は難しい。

しかしながら、私たちはお互いに協力して社会を発展させることを求められています。

自民族と他民族の違いを認めながらも個人の特性からお互いに連携したり、妥協点を見つけ出したりすることが求められているのです。

こうした人種差別に対する考えは、先進国であれば常識として社会に定着しています。



しかしながら、民族主義が発揮される時、普段は善良な市民だった人々が突然差別発言を口にし始めることがあるのはなぜでしょうか?

日本バッシング時に見られたアメリカ国民の行動は、典型的な例でしょう。


繰り返しになりますが、それは、日本の成長がアメリカの国益や既得権を脅かしていたからに他なりません。


民族主義は、政治的に人種差別を利用することがあるのです。

理由は、誰にでも分かるため支持を得やすく、広がりを持ちやすいためだと考えられます。


3、トランプ大統領の政策は典型的な民族主義

トランプ大統領が大企業に途上国からの撤退を促し自国民保護を掲げる理由は、有権者の支持を得るためです。
低賃金労働者を失えば、大企業の利益は失われます。そうなると巡り巡って打撃を受けるのは自国民だと冷静に考えれば分かるはずです。
しかし、それでも自国民優先主義を好むのが低賃金労働によって鬱屈した感情を抱える大勢の労働者たちです。
トランプのデタラメな主張が大衆の支持を得たことは、アメリカに開いた格差の大きさを物語っています。

この状況は、いつの時代かの独裁者を生み出した条件とよく似ています。
言うまでもなく、ヒトラーです。

ヒトラーの時代のドイツは、ユダヤ人銀行家によって科せられた第一次世界大戦の賠償金が莫大な額にまで達し、国家存亡の危機まで追い込まれていました。
そんな中登場したヒトラーは、巧みな話術と社会主義政策によって大衆の心を掴み、政権の座に登りつめます。

当時のドイツ社会では、国富の大半がユダヤ人銀行家や経営者によって牛耳られており、ヒトラーは攻撃の的をユダヤ人に定めました。

裕福なユダヤ人は資産を没収された上で強制移住地域に送られ、強制労働に従事させられたとされています。

大量虐殺されたという説もありますが、ユダヤ人口の大量減少といった確たる証拠もないため、考慮に含めません。

とにかく、ヒトラーもトランプ大統領も、民族主義を推進する上で、支持層と対立的な民族集団に攻撃の矛先を定めた点で共通しています。

ヒトラーは、経済を牛耳るユダヤ人を攻撃し、トランプは大衆が得るはずの富を「横取りしている」中国やメキシコの低賃金労働者に白刃の矢を立てました。(トランプは攻撃の矛先を向ける相手を間違えてる気もする)

国家規模で推進される民族主義ですら、一見人種差別と区別がつきにくいことがあるのです。


4、今の日本を見ても

韓国は、外需国家としての拡大の矛先を日本に定めています。
韓流や歌手のごり押しは、日本側に予測される抵抗の緩和措置であり、好感度操作であり、全ては日本の内需資源を狙ってのものです。

普通の人には、それくらい分かるはずなのですが、全く理解することをせず、韓流批判者を頭ごなしに批判する豚もいます。

そうした連中は韓国にお金を落とし、わざわざ韓国政府に反日の政策資金を提供しています。

そうした豚の主張によると、韓流批判はすべて人種差別に基づいた人種嫌悪的によるものなのだそうです。

もちろん韓流批判には人種差別的な表現を伴うことが多いため、誤解を生みやすいことは認めます。

しかし、彼らの根っこにあるのは、純粋な人種嫌悪ではなく、民族主義でしょう。

(中にはフーリガンっぽい人もいますが)

つまり、昔のアメリカ国民のように、日本民族の脅威を排除するため、あえて人種差別的表現を用いているのでしょう。

差別的表現や嫌悪感情には、「適切な距離をとる」という効果があることもまた否定できません。


繰り返しますが、韓国企業は日本の内需を狙っています。

日本は内需メインの国なのでこのセクターは死守しなければなりません。

その前提で考えると、昨今の反韓国運動は民族主義に基づく正当な防衛反応ということができるでしょう。

決して、その全てが人種差別と批判できるわけではありません。


5、日本人について

よく「日本人は政治に無関心」だとされますが、それに対する一つの見方は、政治と経済(労働)を分離した方が社会運営に効率的だったというものがあります。
たしかに、鎖国政策を推進して農業中心だった時代には、その方がうまく回っていたのでしょう。

それに開国に至るまでの展開を見ても、日本の為政者は優秀だったし、何より日本人の利益を第一に優先していた。


しかし今日の政治家は、日本の利益を重視すると故中川昭一氏のように抹殺されてしまいます。

つまり外国政府の介入により、日本の政界には特有の進化論が渦巻いているのです。

どういうことかというと、日本の利益を優先すると監視中のCIAに消され生存可能性を絶たれてしまう。

中川氏や特別会計に触ろうとした石井紘基氏は、格好の見せしめだったのです。

そうなると日本の政治家は反日の方向に進化するしかありません。

つまり、反日を競う集団と化してしまった政治家のことを、もう日本国民は頼ることができません。

そうであるなら、昔のように政治の全て政治家に委託するのではなく、民衆が知恵を付け、自分たちで考え、防衛していくしか方法は残されていないでしょう。

そんな風潮を理解すれば、韓流批判は当然のことだし、日本の内需資源を狙う韓国と距離を置くべきだとする主張の正当性も検討されるべきだと思います。

(もちろん、筆者は実際に韓国に渡ってネットを騒がせる韓国バッシングは、必ずしも全て正しいわけではないことを理解しています。社会の表側には真面目に仕事を行う人々で溢れている印象を受けました。人種差別の視点で韓国を叩いたり、また韓国人に対する人種差別を広めようとする意図はありません)

6、まとめ
話があっちいきこっちいきで分かりづらかったと思います。すみません。

とにかく、人種差別的に見える運動の全てが純粋な人種差別によるものではなく、多くは民族主義に基づくものだと見分ける、あるいは見分けようとする姿勢を持つべきだと考えます。

日本人は排他的と言われますが、それが差別主義によるものでないのは、私たちが一番よく知っていると思います。

社会や集団の安定が崩されるのを恐れているだけです。


イスラム系移民の溢れるEU圏でも、移民に対するヘイトクライムが湧き上がっています。

この動きに対する批判も根強いですが、仮に一切の反対運動をせず放置したのでは、移民問題が悪化するのは自明です。

反対運動の全てを悪と捉えるのではなく、運動者が何を恐れているのか、という根底の部分を捉えるべきではないかと考えます。

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