気になったことなど

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

愛について考えてみる

NARUTOうちはイタチ曰く「人は誰もが己の知識や認識に頼り、縛られ生きている。・・しかし、その現実は幻かもしれない」

だとすれば、自分が誰かに対して持っている感情もまた思い込みかもしれない。愛もまた幻かもしれない。

思えば思考というのは、感情を表す「喜」、「怒」、「哀」、「楽」といった名詞を感情と慣習的に結びつけて認識しているだけの曖昧なものである。

誰かを愛していたはずなのに、本当は全く違うものを他人にぶつけていて、それに気づいたときに自分も相手も傷つけてしまうかもしれない。

そんなことを何度か繰り返してきたように思う。

だからこそ、一度愛について再定義しておきたいと思う。例え正解には至らずとも考える事、思考を開発すること、誤りを減らすこと、それ自体に価値を置きたい。





1、古代ギリシアの4つの愛
近代科学の先駆者といえば、キリスト教イスラムの実験主義を持ち込んだロジャー・ベーコンなのかもしれない。
あるいは、キリスト教ギリシア哲学を持ち込んだアルベルトゥス・マグナスやトマス・アクィナスかもしれない。(二人とも「蒼き狼と白き牝鹿」に出てくる。)
イスラム思想の原点もまたギリシア哲学であるため、近代思想の起源はギリシアという事がわかる。
このギリシア人たちは、さすが哲学の祖というだけあって、愛に関しても緻密な分析と分類を与えている。

しかしその後、西洋に受け入れられてから若干の定義変更が加えられたらしい。
とはいえ、歴史の精査を受けた洗練された思想である。愛を考える上で重要な手がかりとなることは疑いない。

ギリシア思想によると、愛は単純には次の4つに分類されるようだ。

エロス 男女の間に起こる本能的な愛情
フィリア 友人の間に起こる友情の念
アガペー 神が子なる人類に与える無償の愛
ストルゲー 親子や兄弟の間の家族愛

物質を4元素に分けたように、古代ギリシアも雑多な愛を4つに分類して区別したようだ。

では、日本はどうだろう?
日本の伝統的な愛とは、「相手をいとおしい、かわいい、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま、を意味した」(wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B#cite_note-oubunsyakogo-2)と、いささか定義の厳密さに欠けた説明になっている。
以前どこかで読んだが、日本が受容してきた中国文明には、知的性格として、「厳密な定義や突き詰めた議論を嫌い、最終的には色即是空で満足してしまう」傾向が見受けられるらしい。確かに中国文明は、火器技術の先鞭をつけておきながら、科学的思考の欠如のためにその効果的な改良を西洋文明に譲っている。
また、知識階級が科挙によって皇帝の管理下に置かれたため、研究成果はすべて皇帝に捧げられた。だから統治のための学問であって、「万物の根源とは何か?」といった普遍的な問いに到達することなく、19世紀のアヘン戦争まで到達してしまったらしい。(五行説のような古代ギリシャと同様の元素論は生まれていたが、統治の正当性のために使われるばかりでそれ以上に発達しなかったとされる)
つまり、中国文明の影響を受けてきた私たちの「愛」には分析が不十分な傾向が指摘できるのではないか?
感情を明確に定義し、区別し、使い分けることが不得意だとすれば、それは人間関係の取り方にも影響を及ぼしているに違いない。
つまり、分析の不足は、「余計なお世話」、「自他の未区分」、「勝手な断罪」といった(地方によくいる)日本人のマイナスな民族性を形成している要因の一つではないかと思うのだ。
こう考えて、愛について考え直すことの正当性に思い至ったわけだ。


2、ギリシアの愛に欠けている自己愛の分類
さて、とはいえ、自分も古代ギリシアの愛の4区分がすべて正しいとは思わない。

例えば、古代ギリシア思想は、自己愛を、おそらく意図的に、愛の対象として含めていない。
これは禁欲を説いた、のちのキリスト教徒による改竄なのかもしれない。
しかし、古代ギリシアの4つの愛は、すべて明確に他人との関係内で発生する愛もしくは利益を指している。

エロスは、男女の愛
フィリアは、隣人との愛
アガペーは、神が全人類に与える愛
ストルゲーは、親子や兄弟など肉親の愛

当事者はすべて他人である。

もっと内向的な、自分自身に向かう自己保存欲求は、確かに人間の中にあるにも関わらず、4分類のどこにも所属できない気がする。

自己愛は愛ではないのだろうか?

たしかに、ギリシア神話にはナルキッソスという青年が登場する。
この人物はナルシシズム(自己陶酔)の語源として使われることで有名だ。美しい容貌を備えていたが、彼に恋した精霊に冷淡にふるまったため、それを見て怒った女神から「自分の姿に恋焦がれる」という罰を受け、泉に映る自分の姿に見惚れながら痩せ衰えて死んでいったそうだ。
つまり、極端なうぬぼれと自己中心性を伴う自己愛を、古代ギリシアの思想家は嫌い、退けていたことが伺える。

実際、アリストテレス
「一人ぼっちの人間の人生はつらい。彼が彼自身でいつも全部行うのは簡単ではないのであるから。しかし他者との関係性の中と、その仲間の中では、それはもっと簡単である。」
と他人との関係性を欠いた人生の空虚さを述べ、隣人愛の重要性を説いている。

「人間はポリス的(社会的)動物である」とは、アリストテレスの有名な言葉である。
政治学」を上梓するなど、社会に対して強い関心を持っていた彼は、関係性を重視していたきらいがある。

おそらく、社会的影響力を持つ思想家として、自己愛に陥った状態が社会の運行にとってマイナスに働くことを説く必要があったためではないだろうか。



3、自分の考え
古代ギリシャの思想では、自己愛の居場所が無い。
ナルキッソスの寓話で説明されるように、自己愛は倒錯した愛の表現として、死と結びつけて考えれている向きがある。
そこでは愛は常に他者に向けられなければならず、内面に抱え込むことはできない。
こうした自己愛と他者愛の区別が、やや曖昧ながらついているところが、日本(中国思想)とギリシア思想の違いでは無いかと思う。

私も日本人なのでよく感情の扱い方や受け取り方を間違えたりする。
途上国では、貧困児童と接して考え付く限りの支援を与えてみたりしたが、今考えると、本気で愛情を注いでいると思って行った行為の裏には、優位性の確認という自己愛に根ざした歪んだ欲動が少なからず存在していたことを認めている。

考えてみれば、日本人から一見他者愛のように見える自己愛的愛情を受け取ったことも一度や二度ではない。
そうした愛情は当初は見分けがつかず、時間が経った後で「本当は自分は愛されてなかったんだな」と知り、落胆する。

こうした歪んだ愛情を他人に対して向けることがないように、また他人の自己愛に巻き込まれないようにするために、自分には考える必要があった。
「社会のため」というおきまりの形式をとったけど、愛について考える必要が自分にはあったのである。
その過程で古代ギリシアの4つの愛、日本古来の愛の形というものに出会うことができた。

そうして行き着いた答えは、次の通りである。

「力なき愛は自己愛である。」

愛は美辞麗句をともなわない。
よく愛情を表現する際に「愛している」とか「あなたのために」といった言葉が使われがちだけど愛はそうした単純な表現を嫌う。
むしろ、そうした言葉が用いるのは、自分の利益のために他人の行動を支配したい時。
つまり、自分勝手な自己愛に基づいているにも関わらず、要求を飲ませるために「あなたのために」と偽るのである。

愛の捉え方は人それぞれだけど、他者愛と自己愛を分ける分水嶺は、究極には、その人が力を行使してまで相手を助けようとする意思があるか?にかかっていると思う。

愛には救済が伴うべきだと思う。
日本語の「愛」も昔は「かなし」と読み、かわいい、いとおしい、守りたいと、まるで親子間を結ぶ愛情のような使われ方をしていた。

誰だって愛する=大事な相手に不幸や災難が襲うことを望んでないし、見たくないはずだ。
そしてそれが現実のものとなっていたり、なりそうなら、自分の力で取り除いてやりたいと思うはずだ。

だから愛は力を伴わなければならない。

私は、力なき愛は総じて自己愛であり、本人はともかく、他人からすれば取るに足らないものだと捉えている。

だから、他人の愛を判断する時は、その人が力を得ようとしているか?なんのために力を使おうとしているか?

という方向でみたらいいと思う。


またアリストテレスのいうように、愛は人を強くしてくれる。

怠惰や煩悩に直面した時に打ち勝つきっかけとなるのは、努力や意思であることは少ない。

他人の存在であることが多い。


人間に活力をもたらしてくれるのは、他人への愛であり、もし自分に力が足りないと思うなら、それは関係性の結びつきが弱いことを表しているのだと思う。

生物は、最低限の水さえあれば生命を維持することができる。しかし、食事がなければ活動的には生きられない。
それと同じように、愛の無い人生、他人との関係性を欠いた人生というのは、ただそこにいるだけで無価値といっても過言では無いのかもしれない。

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