Ossan's Oblige "オッサンズ・オブリージュ"

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

日本の男尊女卑の起源は江戸時代にある【かわいいや大和撫子は美の領域にまで昇華された差別思想】

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日本には平等を重視する伝統があるのに、どうして女性を下に見る傾向があるのか?
男女差別傾向の起源について考えた結果、江戸時代に作られた平等政策に行き着きました。


男性にとって、女性は欠かかすことのできない存在です。

人間の3大欲求は、食欲、睡眠欲、そして性欲であり、欠乏の極地には死が待っています。
だから人間は、飢餓に陥らないように努力し競争し、限られた資源にありつこうとします。

しかし、資源の数は限られているので、全員が資源にありつけるわけではありません。

例外なのは睡眠欲で、場所さえあれば、誰でも満たすことができる欲求です。

すべてを失ったようなインドの最下層民ですら、路上で睡眠を耽っています。

しかし、食欲と性欲に関しては、その限りではありません。

食べ物は無尽蔵に存在するわけではないので、人類全体が飽食を貪るわけにはいきません。
性欲も女性の合意がなければ犯罪として裁かれます。

こうした欲求を満たすための供給は、社会の構成員が抱える需要よりも少ない量しか提供されないのです。
したがって、椅子取りゲームが行われ、闘いに破れあぶれる人が出てきます。

つまり、食欲と性欲を巡る闘いは、人々の間に格差を生じせしめます。

特に性欲の場合、男性は常に女性に対して劣勢です。

なぜなら、生物的に出産という重い負担が割り振られている分、恋愛の主導権は女性に与えられることになるからです。

男性は、常に求愛し、女性に選ばれなければ、資源からあぶれた負け犬の烙印を押されます。


実際、自由恋愛が主流の今の日本でも、若者の恋愛離れが社会問題となっています。

芸能メディアの浸透とともに異性に求める水準も高くなり、小泉改革を機に年収の二極化も進みました。
女性の需要を満たせる水準を下回り、女性資源を得損ることができない男が続出している証左です。

それでも、暴動や革命現象が起きないのは、食べ物が社会にあふれているからでしょう。

日本で仕事をすれば、世界上位レベルのお金が手に入ります。

物価も安いので、飢餓状態に陥ることはまずありません。

性欲の不満も、食欲で補うこともできますし、なんならお金を払って一時的に満たすこともできるので飢餓には至りません。


いっぽう日本と違って最貧国の国々(格差が大きい)には、一触即発を予感させるような重々しい雰囲気が社会に漂っています。

そういった国に多い若者たちは、仕事を頑張っても満足なお金が手に入らないので、欲求すら満足に解消することができないでいるのです。

こうした国は、政変や自然災害が起こると、人々がスーパーマーケットを襲撃します。

治安の悪い自国が乱れても、食料配布などの保護が受けられないという確信があるため、飢餓状態に陥らないように自衛のための武力行使に走らざるを得ないのです。


それでも、産業の発達が著しい今はまだましでしょう。

世界が貧しかった20世紀のころは、庶民の欲求不満は、暴動や共産主義革命に容易に転化しました。

それ以前の時代ならば、さらに科学の進歩が弱かったため、食糧供給を巡る状態はし烈を極めました。

この時代の歴史書を紐解くと、「えげつない行為」が頻発していたことを伝えています。


もちろん仏教国でおとなしい、平等的な日本であっても、人々は長引く欲求不満状態に黙ってはいませんでした。

たとえば、太平の時代といわれた江戸時代でも、小規模暴動がおきた例は探せばあちこちに転がっています。

その中で大規模でもよく知られている「大塩平八郎の乱」では、平八郎率いる反乱軍が、打ち続く飢饉に対する無策の政府に怒りの声を上げました。

食料分配が政策的になされないなら、暴力でもぎ取ってやろうという論理です。

貴族階級の裕福な暮らしを横目に、窮乏に耐え続けるのは我慢の限界。

社会主義革命や貧困国に起こる暴動が、小規模ながら発生したのは、当時の日本に社会の成員の欲求を十分に満たせるだけの国力に欠けていたからです。

とはいえ、江戸時代の日本は後世の人々に「太平の時代」と称されるほど、平穏な時代を過ごしていたようです。

なにせ3世紀という長期の間、数えられるほどしか暴動が起きないという世界史に希な時代を実現したのです。

その背後には、暴動回避のための、何らかの政策が存在したのではないでしょうか?


日本人は、平等を実現するために女性の我慢を強いた

いつの時代に起こる暴動や革命も、背後にあるのは開きすぎた格差です。

少数の貴族階級が資源の大半を独占し、残りの僅かな資源を大多数の人民が奪い合うという構造が限界に行き詰まったとき、窮乏した人民は武器を持って立ち上がりました。

為政者にとって、革命はもっとも恐怖すべきシナリオの1つであり、未然に回避策を打たなければなりません。

回避策は、国や地域ごとにさまざまです。

大陸の国では、弱い国を武力占領し、劫掠を実践させる、敵国の人民を強制移住させて、最下層階級に据えるといったガス抜きの方法が実践されてきました。

あるいは、国民を宗教や民族で分断し、互いに争わせることで不満の矛先を自分たち以外に向けさせるという手法も用いられました。

島国日本の場合、敵国がいないので、他国の軍事占領は選択肢から外れます。

したがって、為政者の課題は、民の不満そのものに向き合い、暴力を生みだす欲求不満を解消させることでした。

3大欲求のうち、飢餓に陥りやすく危険なのは、食欲と性欲です。

このうち、食欲は、生産力に限りのある時代ゆえ、平等的に充足させることは不可能です。

しかし、性欲の場合は、なんとかなりそうです。
男女のつがいを作れば、好きなだけ耽ることができるからです。

問題は、受け入れる側の女性の抵抗感です。

女性は、優れた子孫を残す本能が男性に増して強いため、すべての男性を受け入れる挙動は示しません。

それを破るとすれば、何らかの社会的強制が必要です。

つまり、自然状態において恋愛の主導権を握るはずの女性に対して、社会的な抑圧、差別を科し、制度的に男性側の優位を確立させたのではないでしょうか?

男性優位の状態ができれば、つがいの成約率が向上し、欲求不満状態を打破することが期待できます。

欲求には、1つの欲求を満たしている間、他の欲求不満は忘れられるという特徴があるので、全ての欲求を満たさなくとも、1つを徹底的に充足させてやれば、他の欲求の不足はごまかすことができます。

こうした女性への強制、男性優位の文化基盤といった条件は、家制度やお見合い制度として社会の表舞台に登場していくこととなります。

実際、鎌倉時代には貴族の間でしか行われていなかったお見合い婚が、民衆に開放されたのは江戸時代からです。

語り継がれる夜這いなどの大らかな性風習も、制度的に流布されたことが考えられます。

自然流行によるものであっても、弾圧されなかったのは、統治者の利益に適う(ガス抜きができる)現象だったからでしょう。

このように、食糧供給の貧しい時代に265年もの間、(平八郎など少数の例外を除き)暴動や革命と無縁でいられたのは、性的大らかさが大いに寄与していたことが考えられます。


とはいえ種の構造として、常に男性に対して優位なはずの女性に性配分の平等を訴えるには、女性の抑圧が必要です。

これが、「男性が女性を下の存在としてコントロール下に置こうとする、またそれが正しい」と考える男尊女卑の始まりだったのではないでしょうか?

夫の欲求におとなしく従い、召使のように仕える女性のことを、日本人は「大和撫子」として賞賛してきました。

あるいは、そうした女性の前兆である「一歩下がる女性」は「かわいい」という日本的美の象徴として称えられます。

男性に対する従順性は美の領域にまで昇華され、社会的平等の実現と暴動回避の策として、日本文明の進展に貢献してきたのです。

外国人観光客には空港で検疫を!

アメリカ映画でよくある「今あなたたちに危険が迫っています」というセリフがふさわしいのではないだろうか。

梅毒の感染が増えている。
梅毒の症状は、約10年かけて4段階の症状を辿って進行し、最終的には死に至る。先天性での発症も起こる。
とはいえ現在の発達した医学では、有効な治療法が確立されており、症状の3段階以降には進行しにくいとされる。
しかし恐ろしいのは、梅毒感染がHIVの感染率が高めることである。梅毒によって作られた炎症や潰瘍がHIVウイルスの侵入経路になるためだそうだ。

つまり梅毒は、それ自体は治療方法が確立されているが、治療方法の未確立なHIVの2次感染を引き起こす恐れがある危険な性感染症だ。
治療できるからといって安心してはいけない。

したがって、いますぐ梅毒感染の拡大に歯止めをかけて、HIVの蔓延を防がなければならない。
もし国内にHIVが蔓延すれば、国家運営のすべてにマイナスに作用することは明らかである。
国家イメージの毀損、企業の経営悪化、少子化の加速、人材流出の加速、訪日外国人の減少、死亡率の増加は避けられないだろう。

では、近年の梅毒感染者の増加はどのような背景の下で起きているのだろうか?

次のグラフは、BuzzFeedNEWSの記事『梅毒が大流行、42年ぶりの感染拡大 20代女性で急増、厚労省は「危機的な状況」』(https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/baidoku-kyuzo?utm_term=.fd8rob0RP#.kkO6pBeL2)
から引用した1972年以降の梅毒感染者の推移を示すグラフである。

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このグラフを見ると、日本の梅毒感染は1972年から2010年頃まで下降の傾向にあり、1972年には5500件近くあった感染報告は、1990年代には1000件以下にまで減少。以降2010年までほぼ横ばいで推移してきたことがわかる。
ところが2010年以降、突然、梅毒感染報告の増加率が激しくなっており、2016年には1970年代と同じ4000件代まで復帰している。

一体なぜだろうか。
BuzzFeed Newsの記事によると、厚労省結核感染症課の担当者は、同サイトの取材に対し「原因はわからないが、危機的な流行だ」と答えているという。

しかし、梅毒感染者の急増は2010年以降、とくに2012年以降顕著である。
この急増には、必ず理由が存在するはずであり、蔓延から6年以上経つ現在に至っても原因が特定されていないのはおかしいのではないか。

1990年代から2010年までの20年間にかけて、1000件以下で推移していた数値が、2010年以降のたった6年間で4倍以上に膨らんだのである。
これは「日本人の性が乱れた」という説明だけでは説明しきれない。日本人の性は、インターネットの開放後、AV産業の興隆とともに乱れる傾向にあった。
しかし、梅毒感染者が急増するような事態には繋がっていない。

断言しよう、急増した梅毒感染は外から持ち込まれたものだ。それも、2012年以降の安倍政権による外国人観光客の呼び込みがもたらした結果である。
安倍政権の方針によって急増した中国人観光客たちの母国では、梅毒が蔓延しているのである。
梅毒感染者の急増の開始年は、2012年と安倍政権の発足と一致しているし、日本に訪れた中国人観光客の「爆買い」には性風俗店でのサービスが含まれていることも事実だ。もはや疑う余地はない。そんなことは誰でも予測出来ると思うのだが、国家の保健を司る機関が、仮設すら出さずに「原因は分かりません」としらばっくれることに私は理解が及ばない。
日本に梅毒とHIVを蔓延させる意図でもあるのだろうか。それとも口封じでもされているのだろうか?

厚労省は国民に原因分析に努める代わりに、真剣さのかけらもないポスターを作ってヘラヘラしているようだ。
セーラムーンと梅毒に何の関係があるの。

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これまで梅毒感染の傾向が低かった日本人よりも先に啓蒙と検査を実施すべき対象がいるだろう。

ぞれはさておき、梅毒感染のルートが中国由来だと分かれば、まずは対策を打たねばならない。
政府統計などによると、1950年代の日本には最大12万の患者がいたそうだが、当時はHIVという病が存在しなかった。
HIVのない時代なら、いくら感染が広まっても治療を施せば治る。
しかしHIVに対する有効な治療法が確率していない以上、HIVをもたらす梅毒は根絶を指さなければならない。
梅毒の感染を放置することは、HIVの蔓延を放置することに等しい。

ではどうしたらいいか。
梅毒は治療法の確立された病なので、早期発見できれば治療できる。
その意味では、梅毒検査をよびかける厚労省は正しい。

しかし足りないのは、感染源の遮断である。
梅毒の蔓延国からの訪日客が増えているのに、なぜこの層を疑わないのか。
彼らは空港から入ってくるのだから、空港で訪日中国人全員に検疫を施せばいい。黒なら即入国拒否だ。
彼らは、梅毒の蔓延地帯からやってくるのだから、感染を疑われるなら検査するの普通だだろう。

このような施策をとらないと、いずれHIVの増加報告も聞こえ始めるだろう。
厚生労働省エイズ動向委員会によると、2015年のHIVの新規報告件数は1006件。
2008年の1126件をピークとして、年間1000件水準でほぼ横ばいに推移しているらしい。
まだHIVの蔓延は起きていないということだ。(未報告なだけかもしれないが)

今すぐ梅毒感染に歯止めをかければ、HIVの蔓延は防げるかもしれない。

いますぐに空港に検疫を設置するべきです。

金取引の利益にかかる税金は2種類。保有年数によっても異なる。

税金は、あらゆる取引で留意しなければならない問題です。

結論からいうと、金は特定の条件を満たせば、税負担を大きく減らすことのできる投資家に優しい資産だといえます。

本記事が、これから金投資を始めるか悩んでいる人の判断の助けになれば幸いです。

1. 金取引の利益に課される税金について

ここでは、金取引に関わる税金の種類、またそれぞれの種類に応じた税率について説明します。

金取引の利益に課される税率は大きく2種類

金取引の利益に対して課される税金は2種類あります。

・総合課税
・分離課税

総合課税は、給与所得と合算して所得税として税率が決まります。

分離課税は、一律20.315%です。

金取引の税率は、取引の形態によって決まる

金取引の利益に2種類の税率のどちらが課されるかは、取引の形態によって変わります。

・金現物を売買→総合課税(譲渡所得となり給与所得等と合算した所得税)
・証券会社の口座などを通して売買→分離課税

金現物を扱う場合の利益は、譲渡所得と見なされます。
この場合、最終的な税額は、給与所得、不動産などの譲渡所得といった所得と合算されて求められ、所得水準に応じた累進課税の適用を受けることになります。

一方、証券会社の口座を通してなされた取引の利益は、金融取引による利益とみなされ、分離課税の適用を受けます。
この場合、税計算は、証券会社に源泉徴収の義務として課されます。
したがって、取引の主体が確定申告をする必要はありません。
取引の後、証券会社の口座に税金分(20.315%)が差し引かれた数値が反映されます。

2. 譲渡所得の場合、金の所有年数によって所得額の計算が変わる

金現物を売買する場合、生じた利益は譲渡所得として扱われます。

この場合、譲渡所得の金額は、金現物の保有期間(5年)を基準に変化します。

保有年数が5年を超える場合、所得額に1/2の節税メリットを受けることができます。

保有年数が5年に満たない場合、この節税メリットを享受することはできません。

とはいえ、利益から差し引ける特別控除50万円の枠は、保有年数に関係なく受け取ることができます。


○ 金の保有期間が5年以内の場合
譲渡所得 = 金の売却代金-(取得額+売却手数料+特別控除50万円)


○ 金の保有期間が5年以上の場合
譲渡所得 = 金の売却代金-(取得額+売却手数料+特別控除50万円)×1/2


金の保有年数が5年を超えている場合、年数に関係なく適用できる特別控除50万円に加えて、譲渡所得の算定に1/2のボーナスがつきます。

1,000万円の利益を500万円に縮小できれば、手取りの金額は大きく変わってきます。

なお、同じ譲渡所得でも、営利目的で取引された所得は、事業所得とみなされます。
その場合は、税額の算定方法も変わってくるので注意してください。

3. 金取引の税金をシミュレーションしてみましょう

実際にシミュレーションしてみましょう。

ケース1 金現物を扱う場合

金現物を扱うケースを想定します。

1g3000円で購入した金現物1kg(300万円)を5年後に1g5000円の時点(500万円)で売却した場合、最終的な課税額はいくらになるのでしょうか?

まず、計算に必要な条件を整理します。

・ 取引の形態 : 現物取引 → 譲渡所得
・ 保有年数 : 5年 → 所得に1/2ボーナス
・ 最終利益 : 198万円3800円(売却代金500万円-{取得額300万円+手数料16,200円)
・特別控除 : 50万円

(田中貴金属工業株式会社の取引手数料の早見表)
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※1kgの金現物でも500gバーを2回に分けて売却すれば手数料0で済みます


計算します。
最終利益198.38万円 - 特別控除50万円 = 148.38万円
さらに、保有年数5年超の1/2ボーナスを受けて、最終的な譲渡所得益74.19万円が算定されます。

[500万 - (300万 + 1.62万) -特別控除50万円] * 1/2 = 74.19万円

このケースの場合、金現物の取引なので、所得は総合所得に合算されます。
その他、給与所得などの所得とあわせて所得が決定し、所得の水準に応じた税率が適用されます。

(所得税の累進課税)
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最終的な所得税の計算は、個人の状況によって異なるので、詳しくは省略します。

・最低税率 → 所得195万円以下の5%
・最高税率 → 所得4,000万円超の45%

譲渡所得は、他の所得と合算されるため、純粋に金へ課される税額を割り出すことはできません。

ここでは便宜的に金以外の所得を無視して計算します。

・所得税率5%の場合の手取り ・・税金3.71万円
→ 手取り196.29万円

・所得税率45%の場合の手取り・・税金33.39万円
→ 手取り166.61万円

あくまで便宜的な計算ですが、同じ200万円の利益に対する税額に30万円の開きが出ることが分かります。

現物取引は、その他の所得の合計額の大きさに左右されることが分かります。

また保有年数が5年以下であれば、所得の1/2ボーナスを得ることができず、さらに税負担が重くなることにも留意が必要です。

ケース2 金の信用取引を行う場合

証券会社を通してインターネット上の口座で金の信用取引を行う場合を考えます。

金は現物を扱わなければいけないわけではありません。
証券会社により金価格と連動して動く銘柄が用意されており、一般の株式と同様に売買することでオンライン上でトレードすることができます。

1g3000円の時に購入した1kg分の金ETF(300万円)を5年後に1g5000円の時点(500万円)で売却した場合、最終的な課税額はいくらになるのでしょうか?

基本的な条件は以下の通りです。

・ 取引の形態 : 金融取引 → 分離所得
・ 保有年数 : 5年 → 関係なし
・ 最終利益 : 200万円(売却代金500万円-{取得額300万円+手数料0円)
・特別控除 : なし

取引の形態は、金融取引です。
したがって、保有年数の長さは問われず譲渡所得のような特別控除もありません。

手数料は0で取引できる証券口座を選ぶとして0円。

このような条件下では、最終所得200万円に対する分離課税20.315%を差し引いて残った金額が手取りとして計算されます。

税金 → 200万円 × 0.2315 = 40.63万円
手取り → 200万円 - 40.63万円 = 159.37万円

金融取引のため保有年数ボーナス(5年以上)や特別控除が適用されないことが、譲渡益の場合に比べて、手取りを小さなものにしています。

オンライン上で簡単に安全に決済できる反面、税制のメリットを受けられないまま一律に20.315%が差し引かれることになります。

所得の合計4000万円超の富裕者階級にとっては、手取りの金額は多く残せる一方、庶民にとっては税制メリットのない不利な投資形態といえるでしょう。

4. 金取引に関わる税金のまとめ

金の現物を扱う取引では、保有期間5年超の節税ボーナス(利益1/2)、特別控除(50万円)といった税制メリットが用意され、その他の所得との合算で累進課税により課税額が変わります。

一方、証券会社を通した金融取引の場合、利益を縮小する税制優遇はなく分離課税として一律20.315%が課されます。

どちらがメリットが大きいかは、個人の状況によって変わります。

所得が4000万円を超えるほど大きい人は、分離課税を使える証券取引が有利でしょう。

それ以外の所得の人は、現物を所有して5年後に売却すれば特別控除50万円と利益1/2の優遇措置を受けることができ、最も手取りを大きくできます。

この辺りは所得に応じて人それぞれですし、また金の現物は盗難リスクもあり保管が難しいといった事情もありますので、個々人の判断に委ねられます。

本記事が参考になれば幸いです。

インドのマイソールで南京虫と出会った日の記録

記憶というものは写真や文章で記録しないと次々と失われていくようです。
まだ20代の私にもそれは起きていて、数年前に滞在したインドなのに思い出せないことが結構あります。
せっかく残しておいた写真たちは思い出の詰まったスマホごと某国のスラム街で盗まれてしまいました。

だから完全に記憶が失われる前に記しておきたいと思います。

私の南京虫の話が誰かの役に立つかは分かりません。
しかしながら、記憶喪失を防ぐという個人的な目的において必要なのです。

情報提供にも留意しつつ、南京虫と出会ったインド・マイソールでの出来事について記します。


インドの古都マイソールは、別名「インドのシリコンバレー」バンガロールと同じカルナータカ州に属する都市。
バンガロールから約150kmの距離にあります。
ここへのアクセスは鉄道、バス、タクシーなどありますが、一番安上がりなのがバスでしょう。
マイソールは、マイソール王国が栄えた都市で昔ながらの建築物が多く残っているとのこと。

インド留学の開始まで1ヶ月ほどを残していた私は、昔ながらのインドを見るべくマイソールに向かいました。この都市で南京虫地獄に放り込まれることになります。

バンガロールのブリゲードロードを下り坂の方向に抜けると大きな交差点があるので、そこでリキシャを拾い、バスターミナルへ向かいます。
ほとんどの場合、外国人にとってリキシャマンは詐欺師と同義なのですが、詐欺を防ぐ方法は、現地人と同行することです。
現地の友人と一緒に乗り込むか、あるいは現地人に交渉を代行してもらえば、適正価格で運行してくれます。

昔のことなので、バスターミナルの様子は覚えていません。ただ周囲に漂う真っ黒なバスの排ガスは、白い服を着た人なら数時間で灰色に変色してしまうのではないか、と思わざるをえないほど酷かったです。おまけに地面のアスファルトからの熱気もあり、1時間とい続けることはできません。
多くの現地女性がハンカチで口を覆い、排ガスの吸引を避けているのを目にしました。

バンガロールからマイソールへは、約5時間程度(曖昧)。
乗り合いの安バスですが、隣り合わせた現地の方々が話しかけてくれ、たくさんの笑顔をくれました。

インドの車道には、一定区間ごとに段差が設置されていて、道路の端から端まで伸びているため、車はこれを避けることができません。
そして段差が高い。段差にぶつかる度に車体が大きく揺れ、バス内で睡眠をとろうとする試みは、必ず妨害されます。
これはおそらく一向に速度制限を守ろうとしない現地民を抑えるための措置なのでしょう。
しかし、やり方が強引すぎて、外国人には辛いものがあります。
しかし、インドのリキシャが、客そっちのけで突然、隣のリキシャとレースを始めたりするカオスのことを思えば、まあ納得できます。
自己中が横行するインドでは、致し方ない行政措置なのでしょう。
(しかし、劣化した車体だと故障しかねないくらいの衝撃が走るので、逆に事故を引き起こしそうな気もする)
なお、このタイプの道路はフィリピンにも見られました。

正午頃に出発してマイソールに到着すると、外はもう暗くなっていました。

マイソールは、14世紀から19世紀までマイソール王国の首都が置かれていた都市で、歴代の王朝が文化保護に努めたため、文化が大きく栄えました。
歴史ごとにヒンドゥー、ムスリム、イギリスとバックグラウンドが変わったため、街の雰囲気はこれらが混在しています。
郵便や銀行などの西洋由来の施設はイギリス式、またお城の建築もイギリス的なのですが、どことなくムスリム的な雰囲気も混じっており、城のてっぺんにはイスラム様式のドームが置かれてます。ミナレットはなかったように記憶していますが、雰囲気的にはイスタンブルが近いかもしれません。そんな城の外にある庭の周囲を悠々と像が歩いている光景。

しかしイギリスの影響が及んだ地域なだけあって、格差は激しいようでした。
いったん城のある中心街から離れると、そこには悪臭のする貧困地域が広がっています。
とはいえ、見た目はみすぼらしくとも明るく快活な人が多く、バンガロールのいたるところにいるような詐欺師に遭遇することはありませんでした。
さすが多くの文化が交わった都市だけあり、外国人に対しても寛容で、仲良くなると住民は街の案内をしてくれ、ガイド料も請求されませんでした。


さて、前置きが長くなりましたが、
それまで南京虫の存在なんて考えもしなかった私が南京虫の襲撃を受けたのは、そんな王都マイソールの安宿です。

当時の写真はもう手元になく、場所の特定はできないのですが、西洋建築の郵便局や警察、銀行といった施設が集中した交差点から東西南北4方向に伸びた道を郵便局側から進むと、大通りの左右にローカルの店舗が並んでいます。その大通りから右手に一本外れると辺りにはローカル向けの食料品店などが多く並んだエリアに入ります。その中には安宿も多いです。

このエリアの安宿で南京虫に襲撃されたのです。


ホテルは太陽の当たらない薄暗い場所の一画にあり、エントランスからロビーに入るとムスリム風の無口そうな男性がフロントを務めていました。
案内にある一泊200ルピーの文字を見ると、インドに来た実感が湧いてきます。
200ルピーといえば当時のレートで約400円、1ヶ月滞在でも12000円で収まる額。さすがに信じられず、フロント男性に本当かと聞くと、本当だと返すので、何も疑わずに部屋に向かいました。
だいたい4泊くらいしたと記憶していますが、1600円程で済むはずのこの部屋が15万ルピー(当時のレートで約30万円)規模の出費を強いることになります。

安宿に安かれ良かれと飛びついた私ですが、これが想像もしない事態を招くことになります。



部屋に入った私は、かねてより「沈没」というものに憧れていたので、すぐさまベットに飛び込み、Mac Book Airを取り出しネットサーフィンを始めました。
周囲にいるのは見知らぬインド人なので、私を監視したり止めたりするものは誰もいない。そして物価は、日本の1/3ほどという環境。
どこか罪悪感を感じながらも、まるで自分が貴族階級になったような気分で、沈没の雰囲気にどっぷり浸かります。

途中、カメムシのような米粒ほどの大きさの四角形の虫がベットの上を通り過ぎましたが、私に気づいて必死に逃げる姿がかわいそうに思えて放置しました。

しばらくすると小腹がすいてきたので、
部屋の脇にある古ぼけたドレッサーの上のメニューをとり、横のボロボロの電話でフロントまで連絡を取ります。
メニューの料理はスープで120ルピー程度。
フランチャイズ店と提携しているらしく、決して安くありません。
とはいえ日本の物価からすると普通なので、美味しそうに見えた料理を3点ほど選び、フロントに伝えます。

30分ほど待つとノックの音が聞こえたのでドアを開けると、料理の入った青いビニール袋をさげたホテルクラークが立っていました。
ビニールを受け取ってチップを渡すと、クラークはサンキューと返した後に一言二言何か喋って出て行きます。
期待しながらビニールから料理を取り出すと、熱いスープはすぐに溶けそうな薄い透明のビニール袋に包まれており、チャーハンは白色のカップの中に敷き詰められていました。カップの作りは悪くないですが、急いで作ったのかカップの取っ手のまわりに脂が漏れ出していてベタついています。
スープはけっこうな熱さだったので、おそらくビニールが溶けてスープにダイオキシン的な成分が溶け込んでいたはずです。
東南アジアあるあるです。
そんなインドクオリティに首をかしげながらも、せっかくなので全部平らげます。
なんというか、手作り感がやばい。俺でも作れる感全開です。

とはいえ、結構な量のローカルフードを口にして一定の満足感を得た私は、徐々に瞼が重くなり、インドに慣れつつある満足感と共に意識を失いました。


何時間たったか分かりませんが、違和感とともに目を覚まします。

体に違和感があるので、その部位を触ると腫れている。

それはどうやら胴体のあちこちに起きているらしく、服を脱いで体を確かめると、あちこちに赤い発疹ができています。
不衛生なインドにあって、発疹ができたということはウイルス感染の可能性しか思い浮かびません。
とりあえず最初は風土病だと思ったので、とりあえず新しい料理を頼んで、自然治癒力を高めることに専念しました。
免疫力を活性させようと肉と野菜の入った料理をふんだんに注文し、たいらげて、また寝る努力をします。

目覚めると、さらに赤い発疹が増えている。

また同じことを繰り返し、また発疹が増えている。


この宿に宿泊して2日目にして胴体と足回りは赤い発疹で覆われていました。
さらに、この頃になると初期にできた発疹が激しい痒みを発し始め、普段はもちろん、ご飯を食べていても、人と話をしていても、道を歩いていても、患部を掻かずに入られないほどの痒み。よく見ると発疹にはNARUTOの写輪眼のような綺麗な三角形の斑点が残っていて、疫病にしてはおかしな痕だと違和感を感じたことを覚えています。

しかし当時は打つ手も見当たらず、風邪のように放っておけば治るだろうと楽観していましたが、徐々に「俺は異国の地で風土病で死ぬのか」という不安が頭をもたげてきました。

ベットを行き来するカメムシ状の虫は、どこか「可愛い」雰囲気があったので、通り過ぎる虫の数が増えても、ひたすら放置していました。
とはいえ、初めて見たときよりも体の色が赤っぽく、膨らみを帯びていることに気づきます。

まさか?と思い、すまないと思いながらも試しに一匹潰してみると、赤い鮮血が飛び散りました。それも結構な量です。
モスキート(蚊)を潰した時、予想以上に血を吸われていたことが分かってイラッとすることは誰もが経験あると思います。あの瞬間も手に血痕が広がりますが、南京虫を潰した時の血の量と衝撃は、その5倍はあったでしょう。

とはいえ、この虫に怒りを感じると同時に、発疹の原因が分かったスッキリ感、また疫病でないと気づいた安心感なども同時に去来し、当時の心情がとても複雑だったことは確かです。
もしかすると死の恐怖を乗り越えた安心感が一番強かったかもしれません。

虫を排除すれば更なる発心は避けられる。

そうと分かったら掃討作戦に入るだけです。
結構な数の虫がベット状にいたので、真顔で一匹ずつ潰していきます。
セルジュニアのように大慌てで逃げる個体もいましたが、サイコパス的な眼差しで処刑。

体にできた発疹には大きなものから小さなものまであり、成虫以前の小さな虫でも血を吸うことを示していました。
だから、目に見える成虫を全滅させたからといって、安心はできません。
とりあえず今日は我慢して、明日一番にこの部屋を出ることを決意します。
小汚ない部屋から離れればもう虫はいないのだから、血を吸われることはない。

このような楽観はすぐに裏切られることになります。

翌日、鋭い眼光で睨みをきかせながらホテルマンに鍵を返し、無言でホテルを後にしました。
ホテルマンは後ろめたそうだったので確信犯だったのでしょう。
安宿の恐怖が理解できたので、これからは害虫のリスクを嫌って一泊1000ルピー以上のホテルに宿泊することに決めます。
また、宿を出ると同時に、古いのか整備されていないのかよく分からないマイソールに対する苛立ちが湧いてきたので、観光をやめてバンガロールまで戻り、留学の開始に備えることに決めました。バスに乗って再びバンガロールに向かいます。


ちなみに、200ルピーの部屋に泊まったのはあの1回きりで、それ以降は1000ルピー程度の宿を使うようにしました。
しかし、そこはインドクオリティ発動。
1000ルピーを越える価格帯の宿でも南京虫が出る宿にたくさんで会いました。



さて、200ルピー宿の反動でバンガロールのちょっと高めの宿をとった私は、そこで3泊しました。
南京虫が確実にいない空間で過ごしたかったのです。
蚊のいない空間で蚊に食われることはないように、南京虫のいない空間で南京虫に噛まれることはない。
マイソールという危険地帯を離れ、かつ価格帯の高いホテルにいるのだから、自分はもう安全です。

しかし、2泊目に目が覚めると、前日に噛み跡がなかった箇所に新しく赤い発疹ができています。
混乱した私は、インターネットの助けを借りることにしました。
ホテルのWIFIは繋がらなかったので、ホテルから出て、通信サービス会社の赤色の看板を掲げた店に向かい、通信容量切れのSIMカードに容量をチャージします。(フィリピンではロードという)

調査の結果、あの害虫は南京虫、別名トコジラミと呼ばれる吸血性の害虫で不衛生な環境に生息するとのこと。
また、自身は移動能力を持たないので、宿主とした人間や動物の機動力を利用して、生存権を拡大していくことも分かりました。
また人の荷物に産卵し、その子供同士が近親交配することで爆発的に繁殖することもあるのだとか。
ここで荷物への付着に気づいた私ですが、当時は荷物を買い換える勇気も金銭的な余裕もなかったので、とりあえず洗えるものは全部洗い、捨てて問題ないものは全部捨てて、様子を見ることにしました。

その後、金銭的な目処がついてから荷物を全部捨てて、新しいものと交換するなどの処置を何度か行いました。
しかし駆除に成功したように見えた後、別のホテルでまた貰うの繰り返しで、堂々巡りの様相を呈していきます。


インドに潜む南京虫の危険性については、もっと焦点が当てられてもよいし、
何より高度外国人の呼び込みに必死なインド政府の方針にとってマイナスどころか、人材流出のリスクにもつながりかねないでしょう。
モディ首相には対策を急いでいただきたいところです。
少なくとも、私はもうインドには行きません。南京虫に遭遇したバリ島も避けたいです。

インドの安宿に憧れている旅人気質の方の参考になると嬉しいです。行くこと自体は止めませんが、覚悟と対策をお忘れのないように。

大谷選手やダルビッシュ選手の肉体改造に思う事

・大谷はダルビッシュ型ではない

ダルビッシュ選手の勧めで、大谷選手は肉体改造に取り組みました。
その結果、球速の伸びに及ぼした影響は大きいらしく、ダルビッシュ選手は最高球速を159キロまで伸ばし、
指導を受けた大谷選手も球速165キロを計測し、自身が持つ日本記録を更新しています。

ダルビッシュ投手は、肉体改造によって、「ストレートで三振を奪った割合」もトレーニング前の22%から39%に上昇するなど、「自分が求めていた」投球ができるようになったと語ります。
肉体改造によって理想の投球に近づいたのですから、ダルビッシュ選手が「筋力トレ必要論」も語るのも納得です。
若い大谷選手にトレー二ング方法を教えるのも、善意からくるアドバイスなのでしょう。

しかし私は、ダルビッシュ選手と大谷選手の立場の違いについて、もう少し注意が払われるべきだと考えます。


・二刀流での出場を通して大谷の疲労は限界のはず

大谷選手は、投手だけでなく、打者も兼任しています。
投手の場合と同様、野手としての実力も一流で、2016年には打率.322、本塁打22本、67打点という成績。
タイトル獲得こそならなかったものの、打者と投手でのベストナインの同時獲得という離れ技をやってのけました。
つまり、打者としてもチームに欠かせない戦力であり、それだけ出番を求められるのです。2016年の出塁率は.416と高く、もはや上位打線での起用が定着しています。
上位打線での起用は、下位打線での起用に比べて打席数が回って来やすく、また出塁することが求められるので、内野ゴロが転がれば全力ダッシュを要求されます。それだけ体への負荷は大きくなります。

投手でも野手でも、怪我なく1シーズン通して活躍するのは、至難の技です。
それにもかかわらず、投手と野手のダブルワークを体の未成熟な大谷選手に求めるのは、今は結果が出ていても、いずれ無理が出るでしょう。
そんな無理にも関わらず、周囲の期待を上回る貢献を果たす大谷選手は、まさに天才です。
しかし彼も人間。無理をすれば壊れます。
私たちは、大谷選手に無理を課していることに気づくべきだし、今は才能でカバーできても、これから20年近い彼の選手生命を通して同じ起用法が通用するとは考えない方が無難でしょう。


・体重が増えると身体への負担が増える

物質にかかる重力は質量に比例して増加します。そのため、体重を増やせば体にかかる負荷は大きくなります。
したがってウエイトトレーニングで体重増加を増やすと、怪我につながるリスクも増大します。

実際に、増量によって故障が増えた選手は少なくありません。
日本時代から大きな欠場のなかった松井秀喜選手は、大幅な体重増加(103kg→110kg)に踏み切った2004年の2年後から慢性的な怪我に苦しみ始めました。
怪我でメジャーでは満足にプレーできなかった和田毅投手は、渡米前にメジャー式の肉体改造を実践しています。
(https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20101130-708315.html)
一時は18勝を記録した松坂投手も、体重を増やし始めた2010年頃から故障の傾向が見え始めます。


・体重変化の小さいイチローが見せる安定感

ちなみに、ダルビッシュ選手のウエイト必須論に真っ向から反対するのが、イチロー選手です。


イチロー選手といえば、メジャーリーグに移籍してから12年連続で150試合以上の出場を続け、渡米から10年連続で打率3割をクリアした一流選手。
30手前での渡米以降に500盗塁を積み重ねるなど、スピードも売りで、メジャー屈指のリードオフマンとして世界に名を轟かせました。
イチロー選手は、生まれ持った体のバランスを崩さない事を重視し、身体の肥大化を否定します。

そんなイチロー選手は、他の日本人メジャー選手と違って、日本時代から体型の変化はほとんどありません。
現在の体重は77~79kg前後、日本時代は71kg~だったようです。体重は増えていますが、体型は細身で一定です。
結果的に、イチロー選手は43歳に至る今日まで現役を継続しており、最近は年齢からくる衰えもありますが、体型の落ち着きに比例して安定的な数字を残してきました。


・大谷選手はどちらの方向に進むべきか

現状、メジャー式のウエイトトレーニングを巡る議論には、2つの考えがあると言えるでしょう。
1つ目は、ダルビッシュ選手に見られるポジティブタイプ。
これは、瞬発力を引き出せるようになり、球速や打撃での飛距離の伸びに効果が期待できるが、その代償に故障リスクが高まり、実際に故障が慢性化した選手の例も少なくない。
2つ目は、イチロー選手に見られるネガティブタイプ。これは、肉体改造と反対に身体の軽量化を進めるタイプで、瞬発力の増大は期待できないが、スピードと微小なコントロールの向上に効果が期待できる。怪我のリスクも抑える事ができる。


もちろん、どちらを選択するかは選手次第です。
ダルビッシュ投手は、豪球型のピッチャーを目指していたため、ウエイトトレーニングが必要だった。その代償かトミージョン手術を受けていますが、本人が納得しているのならそれで問題ないのでしょう。
一方、イチロー選手は、スピードと単打で安打数の最大化を狙うタイプ。長距離砲を目指さないプレースタイルに軽量化が適合したのです。
松井秀喜選手も、日本時代は100kg以下と、体型の割には軽量型でした。それでも日本では50本を打てていたのです。しかし、メジャーで31本しか打てないと分かると、長距離型のアイデンティティを維持するためか、高負荷トレーニングを始めたようです。

さて、大谷選手は、どちらの方向性を採用するべきなのでしょうか。
もちろん、大谷選手がどのタイプなのかは本人が一番わかっているはずです。
それを決めるのは私でもダルビッシュ選手でもなく、本人です。

しかしあえて私が決めるなら、イチロー選手タイプの軽量型を勧めたい。

たしかに大谷選手は投手としては速球に優れ、本人も球速アップに期待している向きがある。
でも、大谷選手は一流の変化球も持っているので、制球の良い158kmでも十分活躍できるでしょう。
それに二刀流で身体に高負荷は相当ですから、選手生命を保つには、負荷の削減が必須です。
ただでさえ負担の重い二刀流の選手が重量化を採用すれば、今は良くても、必ず後々ツケを払う事になります。
すでに、大谷選手は、2017年の4月8日の試合で左太ももの肉離れを起こし、全治4週間の診断を受けています。
幸い治療は順調に進み、2017年8月28日現在は既に復帰しています。しかし、重量化によって重くなった上半身が怪我に与えた影響は無視できないと思います。
再発を防ぐためにも、大谷選手の今後を見守っていかねばなりません。

もし、これからも二刀流を貫くのであれば、身体への負担を減らすことは前提です。
そもそも、一刀流でも1シーズンを怪我なく過ごすのは難しい。二刀流という史上初の試みであればなおさらです。
それなのに、投手起用だけのダルビッシュ選手と同じ方針のトレーニングを課すことには、違和感を感じずにいられません。
輝かしい彼の選手生命に傷すらつけかないのではないでしょうか?

ちなみに、大谷選手は選手生命をすり減らしてまで筋肉をつけなくても十分活躍が見込めます。
復帰後の7月26日に放った3号ホームランは場外に消えました。大谷選手は体格の大小に関係なく飛ばします。
パワーが落ちても技術だけで場外まで飛ばすことを示した一発でした。安打製造機の傾向にも変化はなく、むしろ細かな動きが活発になり「イチロー選手的」な巧打が光っているように私は見ています。

大谷選手は、肉体改造による補正なしでも十分に活躍が期待できます。

光栄の「蒼き狼と白き牝鹿」シリーズをオススメする理由

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蒼き狼と白き牝鹿シリーズは、1985年に光栄(現・コーエーテクモゲームス)から第1作が発売された歴史シミュレーションゲームです。

12~14世紀のユーラシア大陸を舞台とし、プレイヤーは、モンゴル帝国を中心とする勢力での統一を目指します。

史実において、いかなる大帝国もユーラシア統一は果たせませんでした。

その困難性はゲームにも反映されており、相次ぐ地方政権の独立や内乱など、度重なる分裂の危機を乗り越えなければ、クリアできない仕様になっています。

では、この歴史シミュレーションゲームを遊ぶ事で、いったい何が得られるのでしょうか。


1. 歴史学習のモチベーションが向上する

受験科目の一角を占める世界史。
多くの受験生が、何のために覚えているのかわからない単調な単純暗記に苦戦します。
しかも、学校で強いられる単純暗記短期記憶の担当領域のため長期記憶に定着せず記憶効率に劣ります。
受験生なら誰しも、覚えたはずの知識が一定時間後に思い出せなくなって記憶力を疑った経験があるでしょう。
それは、記憶力の問題ではなく、単純記憶という記憶の仕方に原因があります。
蒼き狼と白き牝鹿シリーズを遊んで以後に入ってくる知識は、長期記憶に蓄積されるよいうになります。
なぜなら、面白さというエピソード記憶の源泉が手に入るからです。

領土拡大が主題なので、国力増大(育成)、戦争(戦略)、オルド(エロ)といった要素を備えています。
1つの要素が苦手でも、別の要素で楽しめる作りになっているのです。

さらに、登場人物は、実在の人物が基本です。

登場人物全員に、固有の顔グラフィックス能力値が実装されているので、どんな人物だったか?という雰囲気が、プロ野球選手の能力をパワプロのSABCDEFで連想するように自然と入ってきます。
歴史上の位置付けも把握できます。

「好きこそ物の上手なれ」というように、好きになることは攻略への第一歩です。

ゲームによって楽しみながら覚えた記憶は、脳の長期記憶の領域に達し、必ず定着してくれます。
それだけでなく「もっと知りたい」という好奇心すら生み出すでしょう。
この好奇心が起きれば、自発的な知識欲求が湧いてきます。

次のような自分の行動に驚くことになるでしょう。

気がついていたら苦手なはずの歴史情報を調べていた。

受動的な状態で学習すれば、単純暗記の泥沼に嵌まります。
苦痛ですし、短期記憶のため覚えたはずの情報が思い出せない(すぐ忘れてしまう)という無駄を繰り返すことになるでしょう。

もし心当たりがあるなら、受動的な学習を能動的な学習に切り替えなければ、重大な時間的損失を負うことは確実です。

幅広い分野を攻略しなければいけない受験戦争において、それは悪手です。

その意味で、ゲームの中に楽しさと学習効果が散りばめられた「蒼き狼と白き牝鹿シリーズ」は、格好の題材といえます。

生きる上でメリットを感じられない歴史学習に意義を見出せない人は、楽しんでしまえば問題ありません。

ゲームをプレーすれば確実に歴史への苦手意識を減らしてくれるでしょう。

他の科目に疲れた時の息抜きに使うゲームとしても十分なほどの楽しさを発揮してくれます。

2. 史実に即した作り込みのレベルが高い(国・国力の数値化)

モンゴル帝国は、世界帝国を築くために世界中の勢力と戦を重ねました。

そのため、登場国はユーラシア全域。
12世紀~13世紀当時のユーラシア情勢がマップの中に再現されています。

題材のモンゴル帝国はもちろん、登場する全ての国に史実の人材と能力値が割り振られています。
当然ながら、元寇を戦った鎌倉期の日本も登場します。

史実の人物は、「政治」「武力」「指揮」「魅力」「体力」「年齢」のパラメータに、AからEまでの5段階のランクが用意され、能力が再現されます。
(例 : チンギスハーン 
→ 政治 : C 武力 : A 指揮 : A 魅力 : B 体力 : 15)
国力の数値化も試みられ、国特有の「気候」「経済力」「特産物」「民度」の違いもデータに反映されているので、地勢的重要性の違いが明確です。(当時、ヨーロッパがイスラム勢力に脅かされる辺境の貧しい地域で、いっぽう東方の中国が超大国だったことが分かる)

プレイできる時代は、3~4種類が用意されています。
例えば、第2作「元朝秘史」の場合、「1185年」「1206年」「1274年」が用意されています。
「12〇〇年の時点におけるA国の君主がB」といった設定も緻密です。
登場する全ての国が史実を再現しているので当時の世界情勢を俯瞰できます。

例えば、「元朝の成立(1274年)」では、フランスの在野にトマス・アクィナスという人物が控えています。

この人物は、キリスト教に十字軍で獲得したアリストテレス哲学の要素を加え、スコラ学の方法論を大成した思想家です。
つまり、「元朝の成立」と「スコラ学の成立」が同時期のものだったことが理解できるのです。

この要領で、13世紀に起きた十字軍や、世界各地での王朝交代の動きを一手に把握することができます。

世界史科目の難点は、学んだ知識の単元が散発しやすいことであることです。

特定の年代・地域を扱って、また別の時代に移ります。
両者の結び付けがおろそかになりやすいのです。

そのくせテストでは、俯瞰的な見方ができないと解答できない問題が頻出します。

この難点も「蒼き狼と白き牝鹿シリーズ」によって解決を期待することができます。

主体性を持って吸収する知識は相互の繋がりを重視するからです。


2. 史実に即した作り込みのレベルが高い(当時の各国の文明水準)

いつの時代も国力を代弁するのは軍事力です。

ヨーロッパは 、産業革命の扉を開くことのできた唯一の文明です。
しかし、「蒼き狼と白き牝鹿」の舞台である13世紀の時点において、ユーラシア大陸辺境の弱小勢力にすぎませんでした。

大航海時代のキーとなった火薬、羅針盤、活版印刷からは程遠く、戦闘は騎士の腕力と勇気、そして装備力に任されていました。

後にパクス・ブリタニアを実現するイギリスも正直いって弱いです。(ヨーロッパ諸国で団結してイスラムへの十字軍遠征をしていたころ)

ヨーロッパの勢力が外の世界で戦うには、モンゴルやイスラムの騎馬兵、中国の火器、日本武士を傭兵として得なければ、まず太刀打ちできません


また、登場人物もいかにも騎士!といった格好の人が多く、時代性を反映しています。

一方、中国やイスラム圏の国は、地域に応じた騎馬隊だけでなく、投石機や初期の火器、歩兵など様々の部隊を駆使します。

火器や投石機は、正直実用レベルに達しておらず、騎馬隊が最強なのですが、それも13世紀の軍事技術を反映した結果と言えるでしょう。

鉄砲に取って代わられるまで世界最強の軍事部隊は騎馬兵だったことがゲームの中で如実に反映されています。

なお、中国の軍隊に見られる原初的な火器(爆発物)は、モンゴル遠征を通してロシアからヨーロッパにもたらされ、科学(キリスト教+ギリシャ哲学)の力によって改良を果たし、近代火器としての銃に革新されていくことになります。

3. 光栄の歴史三部作と言われた蒼き狼と白き牝鹿シリーズ

もう完全に忘れ去られている感がありますが、青き狼と白き牝鹿シリーズは、信長の野望、三国志に並ぶ、光栄の3大傑作に位置づけられています。
企業の生き残りのために、あのドラゴンボールでさえ掘り起こされて同人化されています。

おそらく光栄も、どこかで行き詰まった時点で「青き狼と白き牝鹿シリーズ」を復刻させる日が訪れるでしょう。

グローバルな時代性にも適合し流行る可能性も高いですから、ブームが始まる前に手をつけておいて損はありません。


4. さいごに

デュポンといえば、アメリカを代表するバイオ化学メーカーです。
フランス革命戦争期のフランス将校にデュポンという名の将校がいたことを教えてくれたのが光栄のランペルールでした。

調べていると、デュポン一族の祖先は、ナポレオン時代のフランス軍に所属していた軍人であり、後に一族の一人が海を渡りアメリカに礎を築いたようです。

そうした幅広い教養を潜ませてくれるのが、光栄のゲームの特徴です。

ゲーム的な面白さも比肩するものがないほど高く、ハマれます。

プレイしないのは人生の損、いや先人に対する無礼と言うことにします。

光栄の「蒼き狼と白き牝鹿」をプレーして一人でも多くの方が歴史を学ぶ喜びに目覚めてくれると嬉しいです。

海外旅行をした後の教訓

今回の旅を通して生まれた教訓を、以下8つにまとめておきます。
誰かにとって少しでも参考になれば幸いです。


1、空港の公共WIFIの使い方を事前に確認しておく

飛行機を降りると外は異国。
当然ながら日本のデータ通信は使えません。DOCOMO, auなどのキャリアであれば使用することができますが、高額な費用が掛かります。
しかしながら、国境を超えると関心事が1つか2つか湧くもの。

空港では公共WIFIが用意されているので、使いこなしたい。
ところが、空港の中には手続きが面倒なものもあり、初見では難しく感じる事があります。
当然、手続きを完了させるまでWIFIは使えないので、手続きでつまずくとWIFIは使えません。
そのため、日本にいる段階で空港WIFIの使い方をチェックしておくと、現地で困りません。

2、滞在する国のWIFI環境を調べておく
WIFIの利用環境は国によってまちまちであり、すべての国に日本クラスの水準を求めるのは間違いです。
国によっては、首都圏のあちこちにデータ通信が届かない地域が残っていたり、公共WIFI接続が安定せず頼れない事もあります。
「現地の公共WIFIに頼ればいい」と楽観して、現地の通信事情を調べずに入国すると、期待を裏切られるかもしれません。
例えば、フィリピンでは、1300ペソ(約3000円)以下のホテルでは、WIFIは使えないものと思っておいた方がよいです。接続を示すランプが点灯しても接続できません。
私は予めそれを知らなかったために、長時間ネットが使えない状況に陥りました。
日本にいるうちに、公共のWIFIは安定して使えるか、数ある現地キャリアのうちどれがよいか、など現地の通信事情を確認しておきましょう。

3、現地のホテルの仕組みを理解しておく。(何時からチェックイン可能か等)
日本のホテルだと、チェックアウトの時間は朝の10時のことが多いですが、この時間帯は、国や地域によってまちまちです。
チェックインから24時間後までにチェックアウトのインド、正午が期限のフィリピンなど、地域ごとに色々です。
日本式の朝10時で構えておけばまず問題ないでしょうが、例えばインドへ深夜に入国後、朝10時まで短いという理由で宿泊はもったいないと空港で過ごしたり、といった不必要に窮屈な思いをしかねません。チェックアウトの時間等はチェックしておいて損はありません。

また、宿泊料金の相場や、セキュリティのレベル、ホテルのWIFIが信用できるかといった事も重要です。


4、到着する空港から市街地までの距離、移動費を計算しておく。
エコノミークラスの飛行機は疲れます。おまけに時差ボケも助けて、入国後は、たいていホテルまで直行したい気分にかられるはずです。
その場合、ホテルから市街地までは、バスかタクシーの二択になりますが、タクシー運転手の中には、市街地まで急ぎたい旅行者の心境を見抜いて、ボッタクリ料金をふっかけてくる者が必ずいます。
そんなタクシー運転手を避けるためにも、タクシー料金の相場(○km何円)、空港から市街地までの距離を予め把握しておきましょう。旅行ブログやグーグルアースを使えば、すぐに計算できます。

5、ホテルからチェックアウトする時は貴重品がなくなっていないか確認する。
後進国では、ホテルマンが泥棒に豹変する事があります。
また、不注意による置き忘れなど、チェックイン時にはあった貴重品が手元から無くなっている事があります。
旅には移動がつきものですが、大移動した後で気づいたのでは、来た道を戻る必要が生じてしまいます。
それは運賃と労力の無駄になるので、チェックアウト時のチェックを欠かさないようにしましょう。


6、道に迷ったら見晴らしのよい高い場所に行く
土地勘のない海外を歩いていると、次々と興味深いものに出会ってウロウロし、結果的に道に迷ってしまうことが少なくありません。
道に迷っても、グーグルがあれば目的地までスムーズに移動できます。
しかし、スマホのバッテリー切れや通信容量の不足などでグーグルアースを使えない、万が一の事態に陥る事があります。
そんな時は見晴らしのよい高い場所から街を俯瞰してみましょう。街の構造がわかり、どこを目指せば良いか、どの方向に進めば良いか見えてくるはずです。
(人に道を聞けば一発ですが、人が信用できない土地もあります)

7、高所にある建物をに目印にすると迷わずにすむ。
小腹がすいて、コンビニなどを探す時、ともすれば来た道が分からなくなって、ホテルまで戻れなくなることがあります。
そんな時は、最初にホテル付近に、どの場所からも見えるような背の高い建物等を探しておきましょう。これを目印にしながら進めば、遠く離れてしまうことはありません。


8、ホテルを出る時は、必ずホテルのフロントで住所が書かれたカードをもらっておく。
土地勘のない海外を歩いていると、道に迷うことが多いです。
拠点となるホテルの場所が分からなくなることもしょっちゅうですが、
ホテルの所在地さえ掴んでおけば、道を聞いたり、タクシーを使うといった方法で戻ることができます。
フロントにはたいてい住所の書かれたカードが置いてあるので、チェックインの時にもらっておきましょう。
カードを置いていないホテルであれば、必ず紙に住所を書いてもらうようにしましょう。

フィリピンで貴重品の盗難を防いだ方法

フィリピン人の世帯には家族計画という概念のない人たちが多く、路上にはストリートチルドレンが溢れています。
インドもまたストリートチルドレンが溢れる国ですが、彼の国の子供達は愛想が悪く、小銭を恵んでも礼一つ口にしないことも珍しくありません。
それに比べたらフィリピンのストリートチルドレンは礼も欠かさず、食べ物の現物支給でも喜んでくれるので、まだ助けてあげたくなるものです。

そんな可愛いストリートチルドレンでも、空腹が限度を超えれば盗みを働くこともあります。

特にフィリピンは旅行者を狙った盗難件数が多く、貧困地域の中に入るのならば、防犯対策は欠かせません。
貧困街などでは、突然子供の群れが押し寄せてきて、去ったかと思うとポケットに入れていた財布がなくなっていた、といった事例が後を絶たないようです。

私も先日フィリピンを旅行しましたが、貧困地帯やスラムを何度も歩きながら、被害は0です。
私がとった盗難対策は以下の通りです。


1、腹回りにつけるポーチを購入
貴重品管理のために欠かせないのがポーチです。
これは財布やパスポートの管理のためにどうしても欠かせないので、ぜひとも事前に手に入れておきましょう。
100均でも売っていますが、貴重品をしまう重要なポーチなので、質の良いものを購入することをお勧めします。

財布やパスポート等の貴重品をポケット中に入れたのでは、膨らみやはみ出しで外からわかるので、泥棒から格好の的にされます。
またカバンやバッグに入れると、万が一置き引きに遭った時に、すべてを失い、立ち往生です。

しかし貴重品を腹回りのポーチに入れて上から服を着ておけば、外からは分かりづらく、それだけ狙われる危険性が減ります。
そうすれば仮にバック等の置き引きに遭遇しても、貴重品は無事なので、対策を打つ事ができます。

また、たいていポーチのチャックには先端の取っ手に穴が開いているので、そこに安全ピンを通して服と結んでおけば、スリに遭う危険性は極小に薄まるでしょう。
それでも強盗は防ぎきれませんが、こればかりは命に関わるので、あり金を全部渡すしかないようです。
強盗に反抗して殺された日本人の方もいるので、抵抗しないように気をつけたいところです。相手は銃を持っています。


2、100均のチェーンを購入しスマホとポーチを結ぶ
日本にいるうちに、このようなチェーンを購入しておきましょう。
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日本の100均で売っています。
このチェーンの一方をスマホと結んで、もう一方を安全ピンをつけたポーチの取っ手の穴に結んでおけば、
ひったくりがスマホを盗もうにも、体と連結しているので引き離すことができません。
チェーンは外部から見えるので、防犯対策してるぞ!と、泥棒に釘を刺すこともできます。

また、スリ対策のみならず置き忘れや紛失の防止にもなるのでオススメです。

フィリピン滞在中、夜中にマニラの危険地帯を歩くなどの危険行動もとりましたが、このような防犯対策をとったところ、一度も狙われることはありませんでした。
よければ参考にしてください。

浸水したMac Book Airが回復するまでの経過

本体の軽さはMac Book Airの売りですが、軽量化を進めると当然耐久性が弱くなります。
軽いパーツを使えば衝撃に弱くなるし、密度が小さくなって隙間が増えると、中枢までダメージが届きやすくなる。

私は2016年11月頃にMac Book Airにコップの水をひっくり返してしまい、一時破損が疑われるほどに起動に困難が生じる状況が生じました。
現在では元どおり回復しているのですが、同じ症状が出ている方に向けて、浸水から回復までの約9ヶ月の経過を記したいと思います。

経過は以下の通り。

1、新品同様のMac Book Airに水をぶっかける
2、Mac Book Airが充電を認識せず、真っ暗な画面から起動ボタンを押しても電源が起動しない状態
3、充電ケーブルをつないでいる間は起動するが、ケーブルが抜けると電源が落ちる状態
4、バッテリーを全て使い切ってからケーブルを繋ぐと充電を認識し、充電してくれる状態まで回復
5、どんな状態でも充電を認識してくれる、元の状態まで回復


1、新品同様のMac Book Airに水をぶっかける

ベットに寝っ転がりながらネットサーフィンをしていた時、ふとした拍子に飲んでいたペットボトルの水をMac Book Air本体にこぼしてしまいます。
浸水したのは購入後まだ2ヶ月の機体。当初は、浸水の量も少なく、Macの防水機能を信じていたため、楽観視し、電源を切ることもせずに使い続けていました。
本当なら、ここで電源を切り、ドライヤーで機体を乾かす必要があったようです。

すると、浸水から5分もしないうちに画面が真っ暗になり、電源が落ちます。
ここでダメージが意外と深刻なことを悟り、解決法をインターネットに求めました。
ネットの情報によると、Mac Book Airが浸水した場合はすぐに電源を切り、バッテリーを乾かす必要があるとのこと。

すぐさまこれに従い、本体の内部に溜まった水を排出するため、本体を開いたまま裏返しにして放置します。
しかし、1日経過してから電源ボタンを押しても起動しません。この時点では完全に故障を確信していました。



2、Mac Book Airが充電を認識せず、真っ暗な画面から起動ボタンを押しても電源が起動しない状態

その後、1週間経過した頃には、起動を再開し始めていましたが、起動したりしなかったりの繰り返しで、充電を認識する条件も掴めないままです。
浸水によるバッテリーの故障を疑い、交換も行いましたが、状況は好転せず、充電の認識をコントロールできない状態は変わりません。


3、充電ケーブルをつないでいる間は起動するが、ケーブルが抜けると電源が落ちる状態

浸水からだいたい4月経った頃には、充電ケーブルをつないでいる間は起動するものの、ケーブルが抜けると同時に電源が落ちる状態まで落ち着きます。
この頃は、ケーブルが抜けないように、本体とのつなぎ目をセロハンテープで固定して使っていました。



4、バッテリーを全て使い切ってからケーブルを繋ぐと充電を認識し、ちゃんと充電してくれる状態まで回復

浸水から7ヶ月頃になると、バッテリーが充電を再開するようになりました。メニューバー右側の充電の進捗度もカウントが進み、ケーブルが抜けても電源は起動したままです。
充電が0%になると電源が落ちますが、直後は充電を認識しないものの、バッテリーの電源を使い切ってからケーブルを繋ぐと、ケープルつなぎ目のランプが赤色に点灯し、電源を認識するようになります。

バッテリーが0%になってから内部の電源を使い切るまでのコツは、電源が落ちたらすぐにスマホと接続して充電用の電流が流れるように仕向けることです。
スマホを接続せずに、電源ボタンを連打するだけでも電源を使い切ることはできるのですが、時間がかかります。しかしスマホを接続すると、充電用に電流が多く使われる分、使い切るまでの時間も短い気がしました。

5、どんな状態でも充電を認識してくれる、元の状態まで回復
先日、浸水から9ヶ月経過しましたが、バッテリーに残量のある状態でケーブルを接続しても、ケーブルのランプが点灯し、充電を認識してくれるようになりました。
元どおりの状態まで回復したということです。
使用感も浸水以前と変わりがありません。電源が突然切れるようなこともなく、浸水する前と同じように使えています。)


以上の経過を通して、Mac Book Airを浸水させてしまった場合、以下を参考にしてください。
1、浸水したらすぐに電源を切り、ドライヤー等で乾かしたほうが被害は縮小できる
2、浸水によってMac Book Airが起動しなくなっても、元の状態まで回復する可能性はあるので諦めないこと
3、小回復後は、バッテリーを繋いでいる間は起動する状態、あるいはバッテリーを使いきれば充電を認識する状態のいずれか、あるいは2つを交互に繰り返す可能性があるので検討してみること


当然、浸水の量や本体の老朽化の度合いにより、経過は異なるでしょう。

しかしながら実体験は役に立つと思うので、私の経過を記録として残しておきたいと思います。

海外旅行に行く理由

海外に関心を持ち始めたのは、5年くらい前に始まった愛国ブームがきっかけでした。
当時は311の後遺症もあり、日本の衰退がやや大げさに伝えられていた時期。

その反動か「日本は素晴らしい」といった言葉がメディアのあちこちに散りばめられ、国民に愛国的なメッセージを植え付けました。
そんな中で、私を含む多くの愛国者が生まれます。

愛国者といっても様々であり、国家の経済問題を糾弾したり、歴史を追求したり、外国人排斥に走ったりとタイプは色々です。
私も色々なタイプを渡り歩いたのですが、結局は1番目の経済問題重視型に落ち着いています。

私の関心事は、どうすれば国家を衰退から救えるか、次世代を守れるかということでした。

ところで、私は「ドラゴンボール」と「イチロー」が好きです。
ドラゴンボールには地球をを命がけで守ろうとする悟空たちの姿が描かれています。ときたま、地球=日本と見立てたい作者の意図が見え隠れする時があります。
イチローは、メジャー3000本安打の偉業を達成した時、「安打を打つことが得意な一人の日本人がこの数字をクリアできたことを嬉しく思う。」という言葉を口にしました。
つまり、イチローは日本の未来を意識しながらプレーしています。

そうであれば、私たちは、一般人でも彼らの意思を継がなければなりません。

次世代のためによりよい日本を残すことが私たち現世代の使命です。


そのために何をするべきだろうか、それを突き止めるべく、まずは調査を行いました。


色々な調査の結果、国家の衰退に、3つの原因が見つかります。


1、重税と国家資本を蚕食する特権階級の存在
2、富の国外流出をもたらすパチンコの存在
3、グローバル競争において、日本は取り残されつつあること


1については、特別会計がその象徴的な存在です。
国会で審議される一般予算の数倍規模の予算が、特別会計として官僚の自由裁量に任されています。
彼らの巣食う特別会社や独立行政法人流れる金は、国民の血税なのですが、それだけでは飽き足らず国債発行まで行われる始末。
つまり官僚の生活保護のために我々は納税し、そればかりか彼らが膨張させた債務の履行まで求められているわけです。
重税のため我々は少子化を余儀なくされていますが、逐次的に実行されている増税も、彼らの特別会計が原因といっても過言ではありません。


2については、パチンコ店もメーカー側で雇用を生むなど好意的な面もあるのですが、オーナーのほとんどが外国人であり、税金逃れ、海外送金などの行動が激しいようです。
富の流出口であり、ここにお金を流すことは、国内企業の売り上げとなっていたはずの資金を、国外に捨てる行為に等しいでしょう。
まあマリンちゃんはかわいいんですけどね。

3、ガラパゴスに代表されるように、江戸時代から閉鎖的な環境にある日本では、英語の定着も進みませんでした。
また日本が理想的な住環境であることも助け、閉鎖性はますます強まり、日本企業からは日本人の需要に応える商品しか生まれない状況に陥っています。
日本製品は、車などの耐久性の高さが一般的なニーズである分野では、海外でも絶大な人気を誇っています。
しかし、デザインや機能性など、異文化や生活環境の異なる地域のニーズを満たすことに困難が生じている状況です。

世界は、インターネットやLCC(格安航空会社)の登場によって、統合されつつあります。
その中で先進国では日本だけが、この動きに取り残されつつあるといっても間違いではないでしょう。

平等が前提の日本にとって、移民受け入れは、富の大流出をもたらす禁じ手です。しかし何か手はあるはずです。


以上が私の発見した日本の課題ですが、
このうち、私が個人で影響を与えられるのは3だけです。
政府に対し革命を起こしても協力者が得られないだろうし、パチンコ店も焼き討ちしたいところですが、現行の法制度では逮捕されます。
しかし、グローバル化への適応を進めることは私でも可能です。むしろ、海外のパイをもぎ取ってきて、雇用も作ってやりたい。
それなら私でも可能です。

そのためには、まず海外に出ていき、外を知ることが求められます。

これが私が海外旅行に出向く理由です。

最新鋭の武器を使え

カールマルクスによると、生産手段の水準(社会の下部構造)が上昇すると、人々の間に生じる意識(思想、道徳、宗教に先立つ社会の上部構造)が揺らぎ、新しい価値体系が作られるとされます。要するにインターネット革命の時のように、イノベーションが社会の常識を覆すということでしょう。

実際に歴史を振り返ってもその傾向は明らかです。
大航海時代、またそのきっかけとなったオスマン帝国の拡大は、ともにモンゴル帝国との接触を通して得た「火器の獲得」が根底の条件でした。
航海術を獲得して新大陸にたどり着いても、肉弾戦で戦ったのでは数の優劣やで敗色が濃厚であり、植民地支配などできるはずもありません。
しかし火器の登場により、数の優劣をカバーできるほどの武力を獲得したことで、西洋諸国はアメリカ先住民を支配します。

ルネサンス宗教改革も「印刷術」の普及なくして起こりえませんでした。
教会に対する反抗を企てても、口伝では勢力拡大の段階でつまずいたはずです。

また信用経済がはじめて起こったのは、製紙法を最初に確立した中国でした。

そうであれば、現代においてインターネットやVRの登場によって、可能になった行動や思想は無数にあり、我々の社会は転換点を迎えつつあるといえるでしょう。
インターネットやVR登場以前の常識は、もはや通用しないといってよいはずです。

実際に、最近の私たちは読書もタブレットで行うようになり、新聞や書籍も活躍の場を失いつつあります。
ショッピングもAmazonなどのショッピングサイトが普及した結果、電子商取引きが浸透し、地域の消費を圧迫しています。
アマゾンは、インターネットという最新鋭の道具を使って年をおうごとに商圏を拡大し、世界中の富を貪っています。

世界中の流通を独占する勢いの彼らを批判する向きもありますが、ルールの上で戦っているのですから、「勝ち組」と認めざるをえないはずです。

勝ち組の彼らを批判して引きずり降ろそうとする努力は、確実に実らないとわかりきっているのですから、そうでなく、私たちが最新鋭のインターネットという武器を使って勝ち組に回るべきです。
世の中は、格差の二極化が叫ばれていますが、直近で世の中を変えたのは間違いなくインターネットです。
富と同義になりつつある証券の取引を拡大させたのもインターネットです。

したがって、現代の勝敗を分けるのは、インターネットの使用に対する抵抗感の有無であり、格差を分ける要因もまた同じでしょう。
そして今度はVRの普及が起きようとしている。

歴史を見ても、最新鋭の武器をいち早く使いこなした勢力が天下を奪っています。
織田信長、ナポレオン、オスマントルコ大航海時代アメリカ合衆国など、実例は枚挙に暇がありません。

批判するのは、変化に適応してからにしたいものです。

覇権国家としてのモンゴル帝国とアメリカ合衆国の共通点

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モンゴル帝国は、アメリカ帝国の先駆け

20世紀のアメリカ合衆国は軍拡主義の下に世界覇権を達成した。

ところが21世紀に入ると軍拡主義は陰りを見せ、日米欧の金融ネットワークを主軸とする金融支配へと転じた。

武力で資本主義を押し付けあらゆる文物に値札をつけさせれば、理論上は、無限大のお金を実体化することで地球全体を買い占めることができる。

このモデルチェンジはじつに合理的で、アメリカの覇権を段階的に飛躍させてきた。

しかし、計画的ともいえる合理的な米国の成功の影には、志半ばで倒れていった歴代の覇権大国の失敗が横たわっているに違いない。

モンゴル帝国といえば、アメリカがまだ存在しない13世紀の世界でユーラシア覇権を達成した帝国である。

そのシステムには、今日の米国覇権の原型ともいえる政策が確認できたので7つを紹介することにしたい。


1. 人材のグローバル化

中国を制したフビライ・ハンは、ヨーロッパ社会に強い関心を持った。

背景には、自身の母親がキリスト教徒であったこと、中東の衛星国イル・ハン国がキリスト教化したことに加え、ヨーロッパ側からの宣教の影響もあった。

ヨーロッパとの外交を樹立したいフビライは、ヨーロッパに向けてキリスト教宣教師の派遣を求める使節を送った。

当時のヨーロッパは、イスラム文明圏への十字軍遠征に明け暮れており、強大な援軍を欲していたことは東方のキリスト教国プレスタージョン伝説に見る通りである。

ワールシュタットの戦いをきっかけにモンゴルの脅威を知っていたヨーロッパへ到着した使節は暖かく迎え入れられ、返礼として中国へ向けた宣教師の遣使が決定した。

こうした東西の交渉が行われるなかで、ユーラシア大陸の横断に功績を持つプラノ・カルピニ、ルブルック、モンテ・コルヴィノといった宣教師たちが歴史に姿を現わすことになる。

さらに水面下では、ユーラシア大陸を股にかける商人、旅行者の移動も行われるようになる。
東方見聞録の著者マルコポーロもその一人であった。

西方からやってきた人々のなかには、中国に定着する者もあった。

フビライの宮廷には少なくない数のヨーロッパ人や中東人が仕えていたとされ、かつてない「人材のグローバル化」を物語っている。

では、こうしたグローバル化を切り開いた要因は、フビライの好奇心や、十字軍遠征の協力者を求めるヨーロッパ側の需要だけに求められるだろうか?

それも重要な要因だろうが、それだけではない。

グローバル化を実現せしめた要因は、モンゴル帝国による覇権と切り離すことができない。

もちろん、地域交流の歴史はモンゴル以前に遡ることができる。

中国の玄奘和尚によるインドのナーランダー大学留学などはその最たる例だろう。

しかし同じアジアに属する地域の交流に過ぎなかった。

ヨーロッパへ至るには、中間勢力が行く手を阻んでいたのである。

その障壁をなくしたのがモンゴルの覇権だった。

モンゴル帝国は、征服下にある広大な地域を1つの版図に収めた。

それにより、国内政策の範囲もそれまでの異文明地域にまで広がる。

道路の警備、民衆を襲う盗賊の駆除、アンダーグラウンド勢力の鎮圧といった治安維持活動をも国内統治の枠組みで手がけられるようになった。

帝国による治安維持活動に守られていたからこそ、人々はそれまで通過できなかった異民族地域にも安心して足を運ぶことができるようになったのである。

それは、紀元前1世紀に地中海覇権を達成したローマ帝国が、遠隔地貿易を妨げる海賊勢力を排除してインド洋貿易(交流)の道を開いたことに通じる歴史の必然だろう。


古くからユーラシア大の交流軸は、シルクロードや海の道を介して存在していた。

しかしそれは、商人ネットワークの間を行き来する商品の国際移動に過ぎなかった。
決して、ユーラシア大陸全域を人々が行き交ったわけではない。

13世紀にヨーロッパから中国まで直接足を運ぶ人々が現れ始めたのは、モンゴル帝国の覇権なしには説明できない。

今日の世界でも、社会主義を打倒した米国覇権の下、人々が世界を自由に行き交うようになっている。

この現象も武力を背景とする米国覇権と無縁ではない。

世界が資本主義で統一されたことにより、同一の規格のもと、交流がかつてない早さで進展しているのである。

2. 商業圏の拡大

モンゴル帝国は、治安維持と並行して道路の整備も行った。

広大なモンゴル支配地は共通の道路規格で接続され、別々のルールで動いていたはずの地域が統合するに至った。

「すべての道はローマに続く」

といえば、古代に覇権を成し遂げたローマ帝国を象徴する言葉である。

ローマ帝国においても、帝国全域がローマを中心としながら相互に接続されたのであった。

あらゆる帝国の行政は、交通網の整備から始まる。
なぜなら軍事、諜報、警察の基礎となる条件だからである。

13世紀のモンゴル帝国の場合、帝国全土に「ジャムチ」と呼ばれる駅が設置された。

ジャムチは20km~30kmごとに置かれ、千戸と呼ばれる軍隊が駐留して守護にあたった。

道路が軍隊によって守られるようになると、人々の移動を円滑に進められるようになる。

人の移動が促されると、経済活動も活性した。

なかでも商人にとって遠隔地貿易は、競合の多い狭い自国のレッドオーシャンから抜け出すチャンスである。

さらに帝国の自由貿易主義によって関税が撤廃されたことを受け、商人同士の交流も加速した。

こうした人・商人の移動が、旧来の障壁を崩し、帝国の統一を加速させていったのである。

栄華を誇ったモンゴル帝国も14世紀には崩壊を迎えることになり、代わって傘下の異民族地域が自立傾向を示し始めた。

中国の明朝、ロシアのモスクワ大公国、小アジアのオスマン帝国、中央アジアのティムール朝という14世紀に花開いた新興勢力に共通するのは、モンゴル帝国の4分統治の中心だったことである。

つまりモンゴル帝国は崩壊を迎えても、帝国が築き上げた貿易の基盤は失われず、後継国の繁栄の条件として貿易の富を提供し続けた。

3. 文化の伝播

商人ネットワークが媒介するのは、資本の移動だけではない。
商人が、文化や宗教、学問を伝達する側面も見逃せない。

それは次のような歴史的現象からも普遍性が確認される。

・仏教の中国伝播(陸路シルクロード)
・東南アジアのインド化・イスラム化(ローマとインドの季節風貿易~ムスリムの海上支配)
・世界各地へのキリスト教の伝播(大航海時代~)


この時期、ユーラシア大陸の西半分では、イスラム教団の拡大主義に対する抵抗として十字軍遠征が繰り広げられていた。

ヨーロッパと中東の間を多くの軍人や商人が行き来した結果、ヨーロッパにギリシャ哲学をはじめとする先進の学問が伝わった。

アリストテレスの自然哲学は、キリスト教の唯一神と結びつき、スコラ学を誕生させた。
これは、万物の運動法則(神)を求める自然科学の萌芽となった。

後に先進的な火器と、改良した中国文明の成果物(火器、羅針盤、活版印刷)を携えて世界の海に乗り出していくヨーロッパの基礎条件と言っても差し支えない。

同じく、モンゴル帝国の交通網でも文化的な伝播が発生した。
中国の絵画の技法が西アジアに伝わった結果、西アジアで細密画が誕生したことは代表的な例である。

さらに、中国へ天文学や世界最先端のイスラム科学が伝えられた。

皇帝の政治権威を重んじる中国では、外来の自然科学は排斥され、日の目を見ることはなかった。

しかし実用的な技術は導入され、14世紀の鄭和の大遠征に続く拡大主義の条件を整えた。

今日のアメリカ合衆国は、各国のエリートが集まる多民族環境の国である。

アメリカ合衆国で学問、技術の進歩がかつてない速度で進んでいることは、交流軸であることが切り離すことができない条件なのである。

4. 火器

覇権国アメリカが技術革新に心血を注ぐのは、最先端の武器の導入が勝敗の決め手になるということを身を以て知っているからである。

アジア世界からヨーロッパを守ってきたコンスタンティノープルの三重の城壁がオスマン帝国擁する大砲の前に陥落して以降、先端技術の導入が軍事の最重要テーマとな
この15世紀に花開く大砲(火器)技術を誕生させる上で不可欠の貢献を果たしたのもモンゴル帝国だった。

モンゴル帝国自身は、ヨーロッパの神的な問題意識にも欠如したため、高度火器の開発には至らなかった。

火器技術が未発達の中世という事情もあり、始めから終わりまで、中世最強の部隊である騎馬隊にこだわった。

そのようなモンゴル帝国の貢献は、技術の伝播に求められる。

火器の原初的な技術は、中国に芽生えたものだった。

しかし、花火のごとく、爆発によって敵を威嚇する程度の火薬道具に過ぎず、実戦兵器としての働きを期待できるようなものではなかった。

そんな中国火器が高度技術化のステップを踏んで洗練されていくのは、他でもないヨーロッパへもたらされて以降のことである。

(ヨーロッパは、神の探求という問題意識と打ち続く戦争という条件を備え、火器の改良を可能にした唯一の勢力だった。)

火器をヨーロッパへ伝える役目を果たしたのが、他でもないモンゴル帝国の大征服事業である。

ちなみに、火器と並ぶ3大発明の残り(羅針盤、活版印刷)も全て中国が発明の出所だったが、この時代にヨーロッパへもたらされ改良に始点を打っている。


西洋が生み出した火器は、軍隊の編成を様変わりさせ、世界の勢力図を一変した。

ヨーロッパへは、アメリカ大陸、大航海時代におけるアジア(ゴア、マラッカなど)の征服を可能にした。

火器がオスマンの手に渡った結果、ヨーロッパのアジアに対する防波堤を担ったコンスタンティノープルの三重の城壁は陥落を迎え、アジアの脅威がヨーロッパに及んだ。

東洋では、ポルトガル商人を介して日本や南ベトナムに鉄砲の製造技術が伝わり、ヨーロッパ技術師の手厚い技術支援によって現地勢力が自給化を達成した。

特に日本に伝わった火器は、戦国の内乱時代を収束させ、織田・豊臣・徳川による強力な官僚組織の成立を促した。

強力な中央集権制は、地域覇権国であった中国へも侵略の手を伸ばし、東洋のパワーバランスを逆転させた。

侵略される中国と、鉄砲を携帯して侵略した日本軍を分けたのは、先端武器の導入率の差であった。

このように世界の歴史を様変わりさせた火器も、ヨーロッパへ伝わる前は、戦闘で実用できる水準には達していなかった。
11世紀頃までに黒色火薬(硝石、硫黄、木炭を主成分)の製造技術は確立していたものの、単なる爆発物でしかなかった。

それがバトゥのヨーロッパ遠征を契機にヨーロッパへ伝えると、神的な世界観に基づいて改良が重ねられ、実戦兵器として歴史の表舞台に姿を現わすのである。

また、鉄砲の改良は、物理学の進歩を促した。

その集大成として、17世紀のニュートンによって万有引力の法則が導かれ、近代科学の重い扉が開かれることになる。

中世の終わりには諸説あるが、ルネサンスが花開いた15世紀というのが一般的な見方である。

いつの時代も、既得権益は新興の技術によって崩壊を迎える。


その意味でも、ヨーロッパへ世界各地の技術を伝え先進技術の開発を促したモンゴル帝国こそ、ヨーロッパ人が中世の幕引きを演じる上で欠かせなかった功労者と呼ぶにふさわしいのではないか。


5. 信用制度

モンゴル帝国は広大な支配地域へ、統一の社会規格を導入していった。

これにより、異文化で隔てられていた社会が、統合に向かって前進したことは既に述べたとおりである。

このときモンゴル帝国が導入した社会規格の中に、今日のアメリカ覇権に欠かすことのできないある技術が含まれていた。

それは、信用紙幣である。

信用、お金というと、ヨーロッパの発明品としてイメージしがちである。

実は信用紙幣(お札)は、三大発明と並んで、中国からヨーロッパへもたらされた技術のひとつであった。

もともと「信用取引(紙幣)」の原理は、モンゴル征服以前の金国で使用されていたシステムだった。

ところが現地の征服をきっかけにモンゴルの手に渡り、その後の征服事業を通して遠くヨーロッパに伝わることになる。

紙幣を発行する最初の銀行がイタリアのヴェネツィアに登場したのは、モンゴル帝国と同時代の13世紀である。

モンゴル支配はヴェネツィアには届かなかったものの、ヴェネツィアが東方とのレヴァント貿易を掌握していた関係から、東方の文物をいち早く入手できた。

元朝の領土で用いられた「交鈔」と呼ばれる信用紙幣が、分割国のイルハン国を通して伝わった可能性が高い。

この「交鈔」ついて、交鈔が用いられている様子を目撃したマルコポーロは次のように説明している。

以下は「東方見聞録」の交鈔に関する記述である。

ハーンは毎年この紙幣を巨額に発行し、その額は世界中のすべての財宝に匹敵するが、費用は少しもかからない。
この紙切れで大ハーンはすべての支払いをすまし、ひろく国内及び勢力範囲内に通用させている。受け取るのを拒めば死刑に処せられる。大ハーンの領土内ではどこでも、純金の貨幣と全く同様に、これで品物が売買できるし、非常に軽くて便利だ。
なお、インドなどの国から、金銀、宝石、真珠などをもってきた商人は、品物を大ハーン以外に売ることを禁じられている
彼はその評価に熟練した12人の者を任命し、彼らは品物を評価し、代金はこの紙切れで支払われる。
商人は大喜びだ。
第一、他へ持っていってもこれほどよい値段では買ってくれないし、第二に、すぐ支払ってくれるからだ。しかも紙切れは国内どこででも通用するし、軽くて携帯に便利だ。商人は1年に数回、40万ベザントとの品物を持ち運ぶが、大ハーンはこれらすべてを紙幣で支払う。したがって、毎年貴重品を買い込み、財宝は無限に増えるが、少しも金はかからない。さらに1年に数回、金銀、宝石、真珠を所持するものは、造幣局に持参すれば、よい値段で買い上げる、との布告が市内に回される。所持者は喜んでこの布告に従う。
これほどよい値段で買ってくれるものは、ほかにないからである。だいたいこうして国内の高価なものは、ほとんど全部大ハーンのものになってしまう。
(中略)以上が大ハーンが世界中で一番多くの財産をもつことができ、また持っている理由とその方法である。

ここには、帝国の信用を記した紙幣と引き換えに、手持ちの財宝を献上する商人たちの姿が描かれている。

当時の交鈔は開発初期の代物で、現代の紙幣のような芸術絵画が印刷されていたわけでもない。

見方によってはただの紙切れであり、価値の信用を拒否する者も少なくなかったはずだ。

そうした物の見方をする人間は、鞭打ちの刑で矯正(洗脳)された

モンゴル帝国の信用は、住民に信用紙幣の使用を強制する軍事力に裏打ちされたものだったのである。

帝国の軍事力を背景に、世界に紙幣の使用を認めさせ各地の富を一手に掌握するという手法は、紛れもなく現代のアメリカが用いる常套戦略である。

アメリカ合衆国の金融支配は、連邦準備制度の成立(1913年)が直接の萌芽であった。

しかしその600年ほど前に、モンゴル帝国がユーラシアの広域を舞台に信用制度の普及(資本主義)を試みていたことはあまり知られていない。

紙幣の誕生については、さらに中国の北宋時代まで遡ることができる。

しかし、北宋や金で試みられたのは自国の国境内部での普及に過ぎなかった。

それをアジアの異文明地域にまで拡大し、資源収奪という戦略的目的を伴わせたのは、他でもないモンゴル帝国の功績である。


武力を背景とする点も今日のアメリカ合衆国まで続く伝統である。

もはや、モンゴル帝国以外に信用制度のパイオニアと呼ぶにふさわしい存在はいない。

結局、モンゴルによる最初期の試みは、紙幣の乱発(インフレ)により崩壊を迎えた。

しかし、この教訓が後世の信用制度に重要な教訓を残したことに疑いはない。


6. 福祉制度

多民族環境における治安維持は困難を極める。

ユーラシアの広域を支配したモンゴル帝国が多民族問題に直面することは疑うまでもない。

反乱、独立を企てるものが後を絶たなかったと予測される。


犯罪者へは過酷な刑罰が実行された。
革袋に詰めて馬に踏みつぶさせたり、生きたまま釜茹でにする刑罰もあったらしい。

要するに、モンゴル帝国は、多民族環境の試練を恐怖によって制そうとしたのである。


しかし、マルコポーロの「東方見聞録」に目を通すと、支配地域において皇帝崇拝の動きがあったことが読み取れる。

残虐な死刑を厭わないにも関わらず、「貧民はハーンを神のように崇拝している」という。

民衆が残虐な統治者を支持する背景には何があったのだろうか?

モンゴル帝国の統治者は、救貧政策を行き届かせることも欠かさなかったのである。

モンゴル支配に従順な者、貧困家庭に対して、食糧供給、減税などの福祉措置で手厚く保護を与えたのである。

貧民は革命分子であり、20世紀には社会主義革命の主体として東欧諸国を牛耳るに至った。

この時代に、暴力革命に発展する労働者の不満を和らげる妥協策として社会福祉が歴史に姿を現すことになる。

モンゴル帝国は、福祉制度の誕生に600年ほど先んじて、救貧策の重要性を心得ていたのである。

犯罪者への厳格性と弱者への保護を兼ね合わせる「アメとムチの政策」は、今日のアメリカ合衆国においても見られる傾向である。

モンゴル帝国の崩壊にあたっては、乱発による信用システムの崩壊が重要な契機となった。

収益性のない福祉の拡大が、帝国の財政を逼迫したことは疑う余地もない。

そして、このモンゴル帝国の経験が、「偉大な失敗例」として、後世の信用政策に重要な教訓を与えたことは間違いない。


7. グローバルな同盟関係の構築

モンゴル帝国は、ヨーロッパ勢力と同盟を組んだ最初のアジア勢力だった。

アレクサンダー大王を失った後のギリシャ帝国がそうであったように、チンギスハンを失ったモンゴル帝国も分裂を免れなかった。

モンゴルには末子相続の伝統があるが、チンギス・ハンは性格の穏やかな3男オゴタイを後継者に指名してこの世を去った。

チンギス・ハンが設けた(正室との間に)4人の息子が王族の系統となり、以後はこの4王家から皇帝が選出されることになる。

しかし、1235年から1241年にかけて行われた東欧遠征の際に仲たがいが発生した。

1241年のワールシュタットの戦いでヨーロッパを震撼させた東欧遠征軍は、王族の連合軍で構成されていた。

この陣営の宴席で反目が生じたことが発端となり帝国の統一に亀裂が生じていく。

王族の対立構造が誰の目にも明らかになったのは、第二代皇帝オゴタイの死に際して、選出候補から漏れていたはずのグユグ(オゴタイ家)が母后ドレゲネの陰謀によってハーン位に選出された事件だった。

他王族の遠征中に仕掛けられた政治工作によって帝国の内部分裂は明かになる。

権勢を誇るオゴタイ家・チャガタイ家と、それを拒絶するジュチ家・トゥルイ家の対立構造によって分断された。

さらに、トゥルイ家のフラグが中東に進軍して1258年にアッバース朝を滅ぼすと、中東で自立しイル・ハン国を建てた。

この領土拡大に向けた軍中でも、親睦関係にあったトゥルイ家とジュチ家の間に反目が生じ、その後の領土問題(アゼルバイジャンの帰属)に発展した。

1261年には戦火を交えるほどの対立に至った。

さらに、トゥルイ家出身のモンケ・ハンの没後、モンケの兄弟であるフビライとアリクブケの間に皇位継承問題が紛糾する。

アリクブケは、オゴタイ家・チャガタイ家・ジュチ家の3王家を取り込んで正当性を主張するが、肥沃な中国を背景とするフビライの軍勢の前に敗北を喫した。

それでも、フビライを認めないオゴタイ家のカイドゥは、チャガタイ家とジュチ家を取り込んで対抗勢力を育て上げて抵抗の構えを見せた。

トゥルイ家のフビライ・アバカに対して残りの3王家が反旗を翻す情勢に至る。

中国・中東のトゥルイ家が、東欧・中央アジアのオゴタイ家・チャガタイ家・ジュチ家を包囲する形勢だったので、劣勢を強いられる3王家は帝国の外に同盟関係を模索するに至る。

ジュチ家のキプチャク・ハン国はイスラム教の連帯で北アフリカのマムルーク朝と結んだ。

これにより、イスラム連合のロシア・エジプトに挟まれたイル・ハン国は、キリスト教をテコに東欧の東ローマ帝国の後ろ楯を得て対抗した。

さらに、東ローマ帝国の権威を求めてそれぞれが政略結婚を実現させ、イル・ハン国とキプチャクハン国に、東ローマ皇帝ミカエル8世の庶子が嫁いでいる。

そして、この帝国の分裂を収拾したい皇帝フビライは、中央アジアへの包囲網を敷くべくヨーロッパとの同盟を模索したのである。

フビライがヨーロッパへ派遣した使節は、最低でも3回に及んだ。

「東方見聞録」のマルコポーロも、フビライの使節としてヨーロッパに派遣された一人である。(商人としてやってきた)

結局、フビライの死もありヨーロッパからの援軍は破談に終わった。
それでも、1301年のカラコルムの戦いで、フビライを継いだテムルが3王家のリーダーカイドゥを大敗に追いやったことで、元の勢力が磐石になった。

西方でも、1270年の戦いでチャガタイ・ハン国のバラクに勝利を納めたことでイル・ハン国の優位が確定した。

ヨーロッパの勢力に頼るまでもなく、敵対勢力を打倒したトゥルイ家の権勢が東西で磐石になったのである。


しかし、混乱が終息することがなく十字軍の対立軸と重なった場合、キリスト教連合軍(中国、ヨーロッパ、イラン)とイスラム教連合軍(エジプト、中央アジア、東欧)の対立にまとまり、十字軍遠征をユーラシア全域に延長する世界大戦に発展していた可能性も否定できない。

ヨーロッパの軍事同盟の候補に中国の勢力が浮上するという事態は、モンゴル帝国より前の時代にはあり得なかったことである。

航空機を駆使して世界じゅうの国々と国交を結んだ20世紀のアメリカにも通ずる、世界の統合を進めた勢力であったことは間違いない。


やはりモンゴル帝国は、アメリカ手国の先駆け

モンゴル帝国が実施した統治の特徴を挙げると次のようになる。

・拡大主義
・宗教・民族を超えた利害を軸に展開する外交
・強大な軍事力を背景とした警察機能
・福祉による貧困の削減
・自由貿易の推進
・信用制度

これらは今日の覇権大国であるアメリカ、またそれに代わろうと画策する中国の政策と遜色ない。

史上初の試みゆえに、その覇権は短命に終わった。ものの、今日の覇権大国を彷彿とさせる帝国運営を、13世紀の中世において展開したモンゴル帝国には敬服せずにはいられない。

さらに、モンゴル帝国のネットワークなくして、火器をはじめとする中国の技術はヨーロッパへ伝わらなかった。
モンゴルの伝えた火器なくして、大航海時代も、オスマン帝国の拡大も、日本戦国時代も成り立たなかったのだから、「世界を繋げた」モンゴル帝国の功績は、21世紀に西洋文明の果実を世界に伝えたインターネット革命にも匹敵すると見てよいのではないか。

個室ビデオ店のエアコン調整ができなくて困った時の対処法

安宿の少ない日本では、格安ホテルでも最低4000円程度の出費が求められます。
この出費を抑えたいと考えている人は多く、そんな人々の宿泊需要に応えているのがネットカフェです。

ネットカフェなら、12時間2000円で宿泊できる店もあり、おまけに漫画読み放題・ジュース飲み放題というサービス付き。
ところが、ネットカフェ最大の問題は寝つきが悪いことです。

ブース内の床の位置が地面に近いので、客の客が歩くだけで振動が伝わり、容易に睡眠が妨げられてしまいます。
たとえイビキをかいて寝ていても、翌日は疲労回復がうまくいっていないことがほとんど。

どうせお金出すなら、誰だって熟睡したいですよね。
そんな人にオススメなのがビデオ鑑賞室なのです。

このビデオ鑑賞室では、指定された個室空間で時間を過ごすことができます。
置いてあるビデオの95%以上はアダルトですが一般のビデオもあり、PC設置の部屋もあります。
漫画が置いてある部屋なら、ネットカフェのような使い方をすることもできます。

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なんといっても嬉しいのはビデオ鑑賞用の部屋というだけあって、個室を使えること、防音がきっちりなされていることです。
ブースの床も地面から離して設置してあるので、他の客がフロアを歩く音も気になりません。
ネットカフェで睡眠の妨げになる話し声も、聞こえることはほぼありません。

狭い部屋ですが、成人男性が一人で寝るには十分の幅と奥行きがあります。


しかしながら、先日このビデオ鑑賞室に入って使いづらさを感じたことがありました。
それは、部屋に冷房が効いていなかったり、逆に効きすぎていて寒いことです。
大抵の店では、エアコンが設置されていても制御するためのリモコンがなく、入店時点の空調を変更できない問題点を抱えています。
寒かったり、逆に暑かったりすると、長時間利用をする時にストレスになりますよね。

そんな時は、空調のファンに目を向けてください。入り口上部の天井付近にツマミがあります。
これを回すだけで温度調整ができます。
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もちろん、全店舗統一で同じ空調というわけではないでしょうが、自分の経験上、多くの店舗で共通していました。


【2021.05.19追記】
フロントに電話越しで希望の温度を伝えることでも、空調温度の変更は可能です。
天井のファンに加えて、簡単だと思う方を選択してください!

割高なフィリピンのホテルで宿泊中に気になったこと【コスパ低め】

ほとんどの場合エアコンが付いてない

フィリピンのホテルは他国に比べ割高。
その割には、全体的に設備上の不備が目立つような気がした。

安宿にエアコンはついていない場合が多く、電気で動く冷房ファンのようなものが主流らしい。
冷機の力ではエアコンと大差ないのでほとんど気にならない。
問題があるとすれば、冷機ファンの温度調節が手動のダイアル式なこと。
5~10段階程のレバーをまわしに、いちいちファンがある場所まで移動しなければならないのは地味に面倒だった。


浴室の不備はちょっと無視できない

浴室の発展途上国クオリティには首を傾げたくなる。

シャワー室では、温水が使えないのは普通で、ホテルによっては、シャワーから水すら出ないこともある。
この場合、蛇口から桶に水をためて、桶ですくいながら使うことになる。
現地の貧困層と同じレベルの非常に質素な造り。

でも、これで価格が安いなら何も問題ない。
旅費の節約にでもあるものなら喜んで受けよう。

しかし、このレベルの設備で価格は1,000ペソ(2.100円ほど)を請求された。
ベトナムのホーチミンなら、余裕で豪華な部屋に泊まれたなあ、なんて考えながらインドの宿みたいな浴室で身体を流す。

この価格不相応な設備は、セブでもマニラも一緒だった。

浴室と対照的にガンガン働く冷機ファンが塗れた身体を吹き上げるので寒い。

まあ我慢できないことはなかったが、ポットが用意してあれば、多少は快適な時間がすごせると思う。


WIFIの不備もちょっと無視できない

当然のことながら、部屋にWIFIは提供されていて、接続に成功することもあるのだけど安定しない。
WIFI接続を示す5段階の電波表示が全灯していても、実際は接続ができなかったり、突然停止したりする。
インドシナの覇者、タイ王国の宿でも似た感じだったので驚きはしなかったが、1,200ペソ(約2,500円)クラスの小綺麗なホテルでも起きたのにはビックリ。

繋がっていたインターネットが突然途切れるのは、結構ストレスフル。
作業中なら集中力が切れる。
チャート見てる最中なら、追えなくなる

ということで対策が必要。
やはり、自前で現地SIMを用意し、テザリングでパソコンに繋げてしまうのが、ベストだと思う。
フィリピンのレビュー記事の中には、フリーWIFIの普及が進んだ国と評価しているものもあったが、
自分が利用したホテルの大半では、使い物にならないクオリティのWiFiばかりだった。

だからインターネットを確保しなければならない場合は、現地SIMの購入が必須。
それでも、テザリングどころか、データ通信の電波すら受信できない酷いエリアがあるのは覚えておきたい。


また遭遇した南京虫の数は10日間の滞在で0。
もちろん被害も0だった。
エリアは、セブとマニラ。
フィリピンといえば、イスラム(キリスト化の前)に上書きされる前はインド化されていた国。
不衛生さとか、都市の佇まいにインドの面影は残っているのに南京虫は0だったのは感動的ですらあった。


一方で、多かった害虫はゴキブリ。これは蔓延していないエリアはないほど。
フィリピンの宿は老朽化しているものが多く、あちこちに隙間ができている。そこがゴキブリやアリの巣として好まれ、宿泊者が消費した食べ物のカスを察知すると、おこぼれを預かろうと姿を現してくる。
といっても、日本のゴキブリほど高速でもなく、むしろ格段に遅いので靴の裏でビンタしたら簡単に倒せてしまう。

片付けるのをためらって放置したままでいると、積もりに積もって、部屋がゴキブリの死骸だらけになるので要注意。(それくらい繁殖しているということ)

入国〜セブ島のコロンストリートまで

セブ島で治安の悪いことで有名なコロンストリートについて書いてみたい。

セブ空港に着いたのは深夜で外は真っ暗。フィリピンは治安の悪さで有名なので、犯罪を警戒して空港で朝まで過ごすことにした。
国際線の出口から空港のDomestic Depatureまで移動。そこにある休憩所で朝まで過ごし、明るくなったことを確認してからタクシーでセブ市内に向かう。
タクシーの窓から眺める。新しい国の景色は興味を引くものばかりだった。どうしたことか。ここはインドに似ている。インフラはほとんど一緒だ。じゃあ、ご飯は?サービスは?人は?
気になったことは多かったが、空港でのうたた寝で疲れが全く回復してなかったので、ダイレクトに安宿まで移動することにした。

ジュエルと語る陽気なおっさんに、安宿への移動を求める。

「マクタン島とセブ市内を結ぶ橋は日本の協力で作られたんだ。俺たちはみんな日本が大好きさ。」そんな会話をしていた記憶がある。
10分ほど経つと、なんだかニューヨークを老朽化させたようなマーケットに入った。
事前調査なしだったので後から知ることになるのだが、この地域は、セブでも最も治安の悪いコロンストリートだったのである。
後からインターネットを調べるとネット世論はたいてい「コロンストリートには足を踏み入れるな!」で一致している。
実際に被害にあった方は見当たらないのだが、なぜかヤバイという評価が定着している。

そんな普通の日本人旅行者なら避けるようなコロンエリアに、幸か不幸か入り込んでしまったである。泊まったのはストリートの脇にあるGOLDEN VALLEY HOTEL
あちこち陥没したボロボロの道を、薄汚い格好の人々が歩いていく。貧困層の街というのは事実かもしれない。
そんなストリートの道から小道に入ってしばらく進んだ先にそのホテルはあった。まるで貧困街の喧騒から身を隠すように立地しているそのホテルは随分立派で豪華に見えた。
ビジネスマンが宿泊しても恥ずかしくないだろう。

実際、ホテルに入ると、受付のお姉さんもガードマンもかなり愛想がよい。ボディーガードはにこやかでホテルクラークもフレンドリー。
受付のお姉さんの英語はとても綺麗で高級ホテル並みの待遇に感じた。
フィリピンには欧米統治時代があるせいか、ホテルマンには上品な人が多い。

一泊1400ペソの部屋でシャワーを浴び、正面のセブンイレブンで初のフィリピン飯を食べて、睡眠を取った。
フィリピン飯はなんというかパサパサしている。肉や魚はほとんど原型を保っており、それに塩やソースで味付けしただけのものが多い。それを(インドほどではないにせよ)パサパサしたご飯と一緒に食べる。食文化としては結構原始的(なのかな?)

目がさめると時刻は夕刻。現地調査として夜の街へと足を運んだ。

結論から言うと、このコロンストリートには、ネットに書かれているような危険な感じはしなかった。
インターネットでは、一人歩きは死を意味するだとか昼でも危険だとか散々な言われようである。果たしてこの評判は本当に正しいのか。自分は全てが正しいとは思わなかった。
たしかに付近には貧困者のスラムもあるので、貧困層の割合は多いのだろう。だから夜などに一部のエリアが危険地帯と化すのは分かる。クスリも蔓延しているらしく、巻き込まれる危険性まで考えると確かに危ない。金を持った外国人には、スリやタカリで金を奪いにくる者もいるだろう。
だからコロンストリートを危険視する人たちの意見を変えようとかいうつもりはない。
危険の感覚はひとそれぞれだし、それは不可侵なものだ。自分だってクスリは怖い。

とはいえ、昼間のコロンストリートまで「歩けないほど危ない」とするのは間違いだと思う。

昼間は現地の中流層の姿も見える。
街には、中流向けのモールもあるし、ストリートにはフランチャイズの店が多く並び、普通の人たちが働く風景が観察できる。
昼〜夕方には、学生の姿もある。それもヤンキーチックな底辺学校ではなく、どちらかというと中流層の子弟に見えた。
昼間のコロンストリートでは、中流層の波に押されて貧困層たちは脇のスラムに隠れているように見えた。夜中を過ぎるとこれが逆転してくるのだろう。

ということで昼間のコロンストリートは「歩けないほどではないよ」と私は思いました。
もちろん誰に対しても責任は取れません。コロンストリートへの立ち入りは自己責任でお願いします。