気になったことなど

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

モンゴル帝国が世界にもたらしたもの

・火器
火器はヨーロッパの新大陸征服においても、またオスマン帝国によるビザンツ帝国征服の時にも活躍した技術。
もし、当時のヨーロッパやオスマン帝国に火器が伝わっていなければ、歴史は違った方向に進んでいたかもしれない。
この火器も技術自体はすでに11世紀までに確立していたが、この頃は兵器として利用するほどの水準には達していなかった。
ところがモンゴル帝国の侵略によってヨーロッパ、中東地域に伝えられるようになると改良が重ねられていき、優れた近代兵器として世界史の表舞台に姿を現わすようになる。
この火砲の前には、騎馬戦中心の時代に鉄壁の防壁としてヨーロッパを守ってきたコンスタンティノープルの三重の城壁も耐え切れずに打撃を受け、陥落を迎えた。

火器の起源は中国で、11世紀頃までに硝石、硫黄、木炭を主成分とした黒色火薬が知られていた。
それが13世紀のモンゴル帝国のバトゥのヨーロッパ遠征によってヨーロッパに伝えられたとされる。


・国際交流の活発化
モンゴル帝国の継承国の中には、キリスト教を奉じたイル・ハン国などもあり、フビライ・ハンもキリスト教徒を母に持ったことからヨーロッパ社会に強い関心を持ち、ヨーロッパ諸国に向けて宣教師の派遣を求める使節を送っている。
モンゴル帝国の拡大にあわせてユーラシアを横断する使節・商人・旅行者の往来も激しくなり、プラノカルピニ、マルコポーロイブン・バットゥータなどの人物が歴史に登場していく。
古くからシルクロードを通してヨーロッパから中国までの交流軸は成立していた。しかし、それは各地の商人を介した物品の間接的な移動であり、ユーラシアの全域を人々が行き交ったわけではない。しかし、モンゴルの大征服の結果、ヨーロッパから中国まで直接行き交う人々の群れが現れ始めたのである。


・文化の伝播
この時代にユーラシアの西側で起きた十字軍運動でもそうであったように、モンゴル帝国の拡大は学術や技術の東西交流を促進させている。十字軍運動ではヨーロッパにイスラムからギリシア哲学が伝えられスコラ学の成立につながった。それと同じように、西アジアには中国から絵画の技法が伝わり細密画が発達した。中国には西アジアから天文学など世界最先端のイスラム科学が伝えられ、投石機などの優れた技術がもたらされた。


・商業圏の拡大
モンゴル帝国が築いた広大な領土では交通網が整備され、支配地はその広がりとともに互いに接続されていった。
かつて西ユーラシアに覇権を唱えたローマ帝国において、「すべての道はローマに続く」と語られたほど、支配地域の交通網の整備が重視された。
それと同じようにモンゴル帝国も交通網の整備に努めた。
交通網の確立は、軍事、諜報、治安維持の基礎だが、経済活動を円滑に進める上での欠かせない条件でもある。
モンゴル帝国の征服事業の結果、各地に設置された駅(ジャムチ)によって、諸地域の交流が盛んになると同時に経済活動もこれまでになく盛んになり、また関税を撤廃したことから支配地域全体で経済活動が大いに活性した。

後年、モンゴル帝国は崩壊し、勢力下では現地勢力が自立していくが、モンゴル帝国の築いた交易網は継承され、のちのロシア帝国ティムール朝等の繁栄に引き継がれていく。


・信用制度
金領の華北で成立していた信用取引の原理が、モンゴル帝国の拡大に乗って支配領域に広がった。
また支配領域に隣接する西ヨーロッパ世界にも影響を与えており、地中海世界ではモンゴル帝国の出現と同じ13世紀にヴェネツィアにヨーロッパで最初の銀行が出現している。
元朝では交鈔と呼ばれる紙幣が使われていた。当時の元朝で交鈔を目にしたマルコポーロの言葉が「東方見聞録」の中に残されている。

ハーンは毎年この紙幣を巨額に発行し、その額は世界中のすべての財宝に匹敵するが、費用は少しもかからない。
この紙切れで大ハーンはすべての支払いをすまし、ひろく国内及び勢力範囲内に通用させている。受け取るのを拒めば死刑に処せられる。大ハーンの領土内ではどこでも、純金の貨幣と全く同様に、これで品物が売買できるし、非常に軽くて便利だ。
なお、インドなどの国から、金銀、宝石、真珠などをもってきた商人は、品物を大ハーン以外に売ることを禁じられている
彼はその評価に熟練した12人の者を任命し、彼らは品物を評価し、代金はこの紙切れで支払われる。
商人は大喜びだ。
第一、他へ持っていってもこれほどよい値段では買ってくれないし、第二に、すぐ支払ってくれるからだ。しかも紙切れは国内どこででも通用するし、軽くて携帯に便利だ。商人は1年に数回、40万ベザントとの品物を持ち運ぶが、大ハーンはこれらすべてを紙幣で支払う。したがって、毎年貴重品を買い込み、財宝は無限に増えるが、少しも金はかからない。さらに1年に数回、金銀、宝石、真珠を所持するものは、造幣局に持参すれば、よい値段で買い上げる、との布告が市内に回される。所持者は喜んでこの布告に従う。
これほどよい値段で買ってくれるものは、ほかにないからである。だいたいこうして国内の高価なものは、ほとんど全部大ハーンのものになってしまう。
(中略)以上が大ハーンが世界中で一番多くの財産をもつことができ、また持っている理由とその方法である。

モンゴル帝国が担保する信用とは、言うまでもなく軍事力だった。
要するに今日のアメリカの連邦準備制度に先立つ13世紀に、すでにモンゴル帝国は軍事力を背景とした信用制度を確立させていたのである。
結局、この制度は紙幣の乱発による崩壊を迎えるが、後世に向けて重要な教訓を残したことに疑いはない。
信用制度の始まりとしては、11世紀中国の交子に起源が求められるが、
中国発の信用制度を異民族を包摂する広大な地域にまで拡大し、国家的な制度として定着させたのはモンゴル帝国が初めてである。


・福祉制度
モンゴル帝国では、違反行為に対しては過酷な刑罰が科せられ、革袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏みつぶしたり、生きたまま釜茹でにすることもあった。
多民族・多文化主義が常に宿す治安悪化の危険性を、モンゴル帝国は恐怖によって制しようとした。
しかし一方で、支配に対して従順な者への保護は手厚ったらしく、自然災害や疫病によって被害を受けた人々には免税で保護を与え、貧困家庭には小麦やパンを恵んでいたらしい。
マルコポーロは東方見聞録の中で、救貧措置の行き届いた状況を指して「貧民はハーンを神のように崇拝している」と語っている。
また、穀物が安い時期に大量に買い集めて穀物倉庫に蓄え、民間に少なくなると市場に解放し、同じ金額で4倍は買えるように物価安に誘導するなど、今日の為替操作のようなことも行っていたようだ。
このようなアメとムチの福祉政策によって、多民族国家の安定が保たれたのだろう。


・国際的な同盟関係の構築
チンギスハーンが没し領土が子息に分割されると後継者たちの間に争いが起きるようになる。
領土は、チンギスハーンの4人の子孫に相続された。

とはいえ、これは、広大な領土を一族で分割統治するための策である。本家のウルスを宗主国とし、分家のウルスはそれに従属する形式をとっていただけで、この時点でモンゴル帝国の統合が失われていたわけではない。
しかし、やがて分割されたウルスは次第に独自性を強め、互いに争うようになっていく。
イル・ハン国キプチャク・ハン国はモンゴル家本家の中国から遠く離れていたことも助け、キリスト教イスラム教を受容しはじめ、帝国の一体性は失われた。

当時、キリスト教徒とイスラム教徒は聖地回復を巡って闘争関係にあり、ヨーロッパからはしばしば十字軍が派遣される情勢にあった。
こうした情勢はモンゴル帝国の内紛にも影響を及ぼし、当時、アゼルバイジャンの領土を巡り対立関係にあったイル・ハン国とキプチャク・ハンは、それぞれの宗教に応じて国際的な同盟関係を模索していく。
すなわち、イスラム教を信奉するプチャクハン国は、キリスト教国であるイルハン国への対抗として、エジプトのイスラム国家、マムルーク朝と同盟関係を結び、ロシアとエジプトからイラン地方のイル・ハン国を挟撃する態勢をとった。
また当時、帝国の内情は不安定で、かねてよりフビライの王位継承に対し不満のあったハイドゥは、元の宗主権を否定してフビライと争っており、またチャガタイ・ハン国キプチャク・ハン国もハイドゥに同調したため、帝国を二分する争いに発展していた。

広大なモンゴル帝国の東西で大規模な2つの対立が発生していたのである。
中国のフビライ・ハンは、中央アジアからロシア地方を勢力下に置くハイドゥに対し、イルハン国との同盟を拡大し、これにヨーロッパのキリスト教諸国を加えることでハイドゥ陣営を包囲しようと考えた。
そのため、フビライは知られている限りにおいて、3回ヨーロッパに使節を派遣している。「東方見聞録」で有名なマルコポーロフビライの使節としてヨーロッパに派遣された遣使の一人である。
結局、ヨーロッパ諸国との同盟は実現しなかった。しかし、このフビライの試みが実現していれば、中国、ヨーロッパ、イランに及ぶフビライのキリスト軍と中央アジア、ロシア、エジプトに及ぶハイドゥのイスラム軍にまとまり、両勢力の衝突に発展していた可能性は否定できない。

歴史にたらればはありえないが、もしここでヨーロッパのキリスト教諸国がフビライの同盟要請に応じていたら、13世紀の時点にユーラシア全体を巻き込む世界初の世界大戦が勃発していたかもしれない。




以上。こうして挙げてみて驚くのは、モンゴル帝国の組織運営のアメリカ合衆国のそれとの類似性だった。
何もかも同じに見るのは稚拙なのだが、類似性は否定できないと思う。
宗教・民族を超えた共通の利害での団結を目指す外交方針、強大な軍事力を背景にしたアメとムチの内政政策、拡大主義、グローバル貿易に対する積極性、なんといっても信用制度の実施など、これらは今日の覇権大国であるアメリカ、またそれに代わろうと動いている中国が行っている政策と変わりがない。
史上初めての試みゆえにその覇権は短命だった。しかし、今日の覇権大国に近い帝国運営を13世紀の時点で実行したモンゴル帝国の統治センスには敬服せずにはいられない。

モンゴル帝国がヨーロッパに伝えた火器なくして、大航海時代も、オスマン帝国の拡大も、日本戦国時代も成り立たなかったのだから、「世界を繋げた」彼らの功績はインターネット革命に匹敵すると思うのである。

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