Ossan's Oblige "オッサンズ・オブリージュ"

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

覇権国家としてのモンゴル帝国とアメリカ合衆国の共通点

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モンゴル帝国は、アメリカ帝国の先駆け

20世紀のアメリカ合衆国は軍拡主義の下に世界覇権を達成した。

ところが21世紀に入ると軍拡主義は陰りを見せ、日米欧の金融ネットワークを主軸とする金融支配へと転じた。

武力で資本主義を押し付けあらゆる文物に値札をつけさせれば、理論上は、無限大のお金を実体化することで地球全体を買い占めることができる。

このモデルチェンジはじつに合理的で、アメリカの覇権を段階的に飛躍させてきた。

しかし、計画的ともいえる合理的な米国の成功の影には、志半ばで倒れていった歴代の覇権大国の失敗が横たわっているに違いない。

モンゴル帝国といえば、アメリカがまだ存在しない13世紀の世界でユーラシア覇権を達成した帝国である。

そのシステムには、今日の米国覇権の原型ともいえる政策が確認できたので7つを紹介することにしたい。


1. 人材のグローバル化

中国を制したフビライ・ハンは、ヨーロッパ社会に強い関心を持った。

背景には、自身の母親がキリスト教徒であったこと、中東の衛星国イル・ハン国がキリスト教化したことに加え、ヨーロッパ側からの宣教の影響もあった。

ヨーロッパとの外交を樹立したいフビライは、ヨーロッパに向けてキリスト教宣教師の派遣を求める使節を送った。

当時のヨーロッパは、イスラム文明圏への十字軍遠征に明け暮れており、強大な援軍を欲していたことは東方のキリスト教国プレスタージョン伝説に見る通りである。

ワールシュタットの戦いをきっかけにモンゴルの脅威を知っていたヨーロッパへ到着した使節は暖かく迎え入れられ、返礼として中国へ向けた宣教師の遣使が決定した。

こうした東西の交渉が行われるなかで、ユーラシア大陸の横断に功績を持つプラノ・カルピニ、ルブルック、モンテ・コルヴィノといった宣教師たちが歴史に姿を現わすことになる。

さらに水面下では、ユーラシア大陸を股にかける商人、旅行者の移動も行われるようになる。
東方見聞録の著者マルコポーロもその一人であった。

西方からやってきた人々のなかには、中国に定着する者もあった。

フビライの宮廷には少なくない数のヨーロッパ人や中東人が仕えていたとされ、かつてない「人材のグローバル化」を物語っている。

では、こうしたグローバル化を切り開いた要因は、フビライの好奇心や、十字軍遠征の協力者を求めるヨーロッパ側の需要だけに求められるだろうか?

それも重要な要因だろうが、それだけではない。

グローバル化を実現せしめた要因は、モンゴル帝国による覇権と切り離すことができない。

もちろん、地域交流の歴史はモンゴル以前に遡ることができる。

中国の玄奘和尚によるインドのナーランダー大学留学などはその最たる例だろう。

しかし同じアジアに属する地域の交流に過ぎなかった。

ヨーロッパへ至るには、中間勢力が行く手を阻んでいたのである。

その障壁をなくしたのがモンゴルの覇権だった。

モンゴル帝国は、征服下にある広大な地域を1つの版図に収めた。

それにより、国内政策の範囲もそれまでの異文明地域にまで広がる。

道路の警備、民衆を襲う盗賊の駆除、アンダーグラウンド勢力の鎮圧といった治安維持活動をも国内統治の枠組みで手がけられるようになった。

帝国による治安維持活動に守られていたからこそ、人々はそれまで通過できなかった異民族地域にも安心して足を運ぶことができるようになったのである。

それは、紀元前1世紀に地中海覇権を達成したローマ帝国が、遠隔地貿易を妨げる海賊勢力を排除してインド洋貿易(交流)の道を開いたことに通じる歴史の必然だろう。


古くからユーラシア大の交流軸は、シルクロードや海の道を介して存在していた。

しかしそれは、商人ネットワークの間を行き来する商品の国際移動に過ぎなかった。
決して、ユーラシア大陸全域を人々が行き交ったわけではない。

13世紀にヨーロッパから中国まで直接足を運ぶ人々が現れ始めたのは、モンゴル帝国の覇権なしには説明できない。

今日の世界でも、社会主義を打倒した米国覇権の下、人々が世界を自由に行き交うようになっている。

この現象も武力を背景とする米国覇権と無縁ではない。

世界が資本主義で統一されたことにより、同一の規格のもと、交流がかつてない早さで進展しているのである。

2. 商業圏の拡大

モンゴル帝国は、治安維持と並行して道路の整備も行った。

広大なモンゴル支配地は共通の道路規格で接続され、別々のルールで動いていたはずの地域が統合するに至った。

「すべての道はローマに続く」

といえば、古代に覇権を成し遂げたローマ帝国を象徴する言葉である。

ローマ帝国においても、帝国全域がローマを中心としながら相互に接続されたのであった。

あらゆる帝国の行政は、交通網の整備から始まる。
なぜなら軍事、諜報、警察の基礎となる条件だからである。

13世紀のモンゴル帝国の場合、帝国全土に「ジャムチ」と呼ばれる駅が設置された。

ジャムチは20km~30kmごとに置かれ、千戸と呼ばれる軍隊が駐留して守護にあたった。

道路が軍隊によって守られるようになると、人々の移動を円滑に進められるようになる。

人の移動が促されると、経済活動も活性した。

なかでも商人にとって遠隔地貿易は、競合の多い狭い自国のレッドオーシャンから抜け出すチャンスである。

さらに帝国の自由貿易主義によって関税が撤廃されたことを受け、商人同士の交流も加速した。

こうした人・商人の移動が、旧来の障壁を崩し、帝国の統一を加速させていったのである。

栄華を誇ったモンゴル帝国も14世紀には崩壊を迎えることになり、代わって傘下の異民族地域が自立傾向を示し始めた。

中国の明朝、ロシアのモスクワ大公国、小アジアのオスマン帝国、中央アジアのティムール朝という14世紀に花開いた新興勢力に共通するのは、モンゴル帝国の4分統治の中心だったことである。

つまりモンゴル帝国は崩壊を迎えても、帝国が築き上げた貿易の基盤は失われず、後継国の繁栄の条件として貿易の富を提供し続けた。

3. 文化の伝播

商人ネットワークが媒介するのは、資本の移動だけではない。
商人が、文化や宗教、学問を伝達する側面も見逃せない。

それは次のような歴史的現象からも普遍性が確認される。

・仏教の中国伝播(陸路シルクロード)
・東南アジアのインド化・イスラム化(ローマとインドの季節風貿易~ムスリムの海上支配)
・世界各地へのキリスト教の伝播(大航海時代~)


この時期、ユーラシア大陸の西半分では、イスラム教団の拡大主義に対する抵抗として十字軍遠征が繰り広げられていた。

ヨーロッパと中東の間を多くの軍人や商人が行き来した結果、ヨーロッパにギリシャ哲学をはじめとする先進の学問が伝わった。

アリストテレスの自然哲学は、キリスト教の唯一神と結びつき、スコラ学を誕生させた。
これは、万物の運動法則(神)を求める自然科学の萌芽となった。

後に先進的な火器と、改良した中国文明の成果物(火器、羅針盤、活版印刷)を携えて世界の海に乗り出していくヨーロッパの基礎条件と言っても差し支えない。

同じく、モンゴル帝国の交通網でも文化的な伝播が発生した。
中国の絵画の技法が西アジアに伝わった結果、西アジアで細密画が誕生したことは代表的な例である。

さらに、中国へ天文学や世界最先端のイスラム科学が伝えられた。

皇帝の政治権威を重んじる中国では、外来の自然科学は排斥され、日の目を見ることはなかった。

しかし実用的な技術は導入され、14世紀の鄭和の大遠征に続く拡大主義の条件を整えた。

今日のアメリカ合衆国は、各国のエリートが集まる多民族環境の国である。

アメリカ合衆国で学問、技術の進歩がかつてない速度で進んでいることは、交流軸であることが切り離すことができない条件なのである。

4. 火器

覇権国アメリカが技術革新に心血を注ぐのは、最先端の武器の導入が勝敗の決め手になるということを身を以て知っているからである。

アジア世界からヨーロッパを守ってきたコンスタンティノープルの三重の城壁がオスマン帝国擁する大砲の前に陥落して以降、先端技術の導入が軍事の最重要テーマとな
この15世紀に花開く大砲(火器)技術を誕生させる上で不可欠の貢献を果たしたのもモンゴル帝国だった。

モンゴル帝国自身は、ヨーロッパの神的な問題意識にも欠如したため、高度火器の開発には至らなかった。

火器技術が未発達の中世という事情もあり、始めから終わりまで、中世最強の部隊である騎馬隊にこだわった。

そのようなモンゴル帝国の貢献は、技術の伝播に求められる。

火器の原初的な技術は、中国に芽生えたものだった。

しかし、花火のごとく、爆発によって敵を威嚇する程度の火薬道具に過ぎず、実戦兵器としての働きを期待できるようなものではなかった。

そんな中国火器が高度技術化のステップを踏んで洗練されていくのは、他でもないヨーロッパへもたらされて以降のことである。

(ヨーロッパは、神の探求という問題意識と打ち続く戦争という条件を備え、火器の改良を可能にした唯一の勢力だった。)

火器をヨーロッパへ伝える役目を果たしたのが、他でもないモンゴル帝国の大征服事業である。

ちなみに、火器と並ぶ3大発明の残り(羅針盤、活版印刷)も全て中国が発明の出所だったが、この時代にヨーロッパへもたらされ改良に始点を打っている。


西洋が生み出した火器は、軍隊の編成を様変わりさせ、世界の勢力図を一変した。

ヨーロッパへは、アメリカ大陸、大航海時代におけるアジア(ゴア、マラッカなど)の征服を可能にした。

火器がオスマンの手に渡った結果、ヨーロッパのアジアに対する防波堤を担ったコンスタンティノープルの三重の城壁は陥落を迎え、アジアの脅威がヨーロッパに及んだ。

東洋では、ポルトガル商人を介して日本や南ベトナムに鉄砲の製造技術が伝わり、ヨーロッパ技術師の手厚い技術支援によって現地勢力が自給化を達成した。

特に日本に伝わった火器は、戦国の内乱時代を収束させ、織田・豊臣・徳川による強力な官僚組織の成立を促した。

強力な中央集権制は、地域覇権国であった中国へも侵略の手を伸ばし、東洋のパワーバランスを逆転させた。

侵略される中国と、鉄砲を携帯して侵略した日本軍を分けたのは、先端武器の導入率の差であった。

このように世界の歴史を様変わりさせた火器も、ヨーロッパへ伝わる前は、戦闘で実用できる水準には達していなかった。
11世紀頃までに黒色火薬(硝石、硫黄、木炭を主成分)の製造技術は確立していたものの、単なる爆発物でしかなかった。

それがバトゥのヨーロッパ遠征を契機にヨーロッパへ伝えると、神的な世界観に基づいて改良が重ねられ、実戦兵器として歴史の表舞台に姿を現わすのである。

また、鉄砲の改良は、物理学の進歩を促した。

その集大成として、17世紀のニュートンによって万有引力の法則が導かれ、近代科学の重い扉が開かれることになる。

中世の終わりには諸説あるが、ルネサンスが花開いた15世紀というのが一般的な見方である。

いつの時代も、既得権益は新興の技術によって崩壊を迎える。


その意味でも、ヨーロッパへ世界各地の技術を伝え先進技術の開発を促したモンゴル帝国こそ、ヨーロッパ人が中世の幕引きを演じる上で欠かせなかった功労者と呼ぶにふさわしいのではないか。


5. 信用制度

モンゴル帝国は広大な支配地域へ、統一の社会規格を導入していった。

これにより、異文化で隔てられていた社会が、統合に向かって前進したことは既に述べたとおりである。

このときモンゴル帝国が導入した社会規格の中に、今日のアメリカ覇権に欠かすことのできないある技術が含まれていた。

それは、信用紙幣である。

信用、お金というと、ヨーロッパの発明品としてイメージしがちである。

実は信用紙幣(お札)は、三大発明と並んで、中国からヨーロッパへもたらされた技術のひとつであった。

もともと「信用取引(紙幣)」の原理は、モンゴル征服以前の金国で使用されていたシステムだった。

ところが現地の征服をきっかけにモンゴルの手に渡り、その後の征服事業を通して遠くヨーロッパに伝わることになる。

紙幣を発行する最初の銀行がイタリアのヴェネツィアに登場したのは、モンゴル帝国と同時代の13世紀である。

モンゴル支配はヴェネツィアには届かなかったものの、ヴェネツィアが東方とのレヴァント貿易を掌握していた関係から、東方の文物をいち早く入手できた。

元朝の領土で用いられた「交鈔」と呼ばれる信用紙幣が、分割国のイルハン国を通して伝わった可能性が高い。

この「交鈔」ついて、交鈔が用いられている様子を目撃したマルコポーロは次のように説明している。

以下は「東方見聞録」の交鈔に関する記述である。

ハーンは毎年この紙幣を巨額に発行し、その額は世界中のすべての財宝に匹敵するが、費用は少しもかからない。
この紙切れで大ハーンはすべての支払いをすまし、ひろく国内及び勢力範囲内に通用させている。受け取るのを拒めば死刑に処せられる。大ハーンの領土内ではどこでも、純金の貨幣と全く同様に、これで品物が売買できるし、非常に軽くて便利だ。
なお、インドなどの国から、金銀、宝石、真珠などをもってきた商人は、品物を大ハーン以外に売ることを禁じられている
彼はその評価に熟練した12人の者を任命し、彼らは品物を評価し、代金はこの紙切れで支払われる。
商人は大喜びだ。
第一、他へ持っていってもこれほどよい値段では買ってくれないし、第二に、すぐ支払ってくれるからだ。しかも紙切れは国内どこででも通用するし、軽くて携帯に便利だ。商人は1年に数回、40万ベザントとの品物を持ち運ぶが、大ハーンはこれらすべてを紙幣で支払う。したがって、毎年貴重品を買い込み、財宝は無限に増えるが、少しも金はかからない。さらに1年に数回、金銀、宝石、真珠を所持するものは、造幣局に持参すれば、よい値段で買い上げる、との布告が市内に回される。所持者は喜んでこの布告に従う。
これほどよい値段で買ってくれるものは、ほかにないからである。だいたいこうして国内の高価なものは、ほとんど全部大ハーンのものになってしまう。
(中略)以上が大ハーンが世界中で一番多くの財産をもつことができ、また持っている理由とその方法である。

ここには、帝国の信用を記した紙幣と引き換えに、手持ちの財宝を献上する商人たちの姿が描かれている。

当時の交鈔は開発初期の代物で、現代の紙幣のような芸術絵画が印刷されていたわけでもない。

見方によってはただの紙切れであり、価値の信用を拒否する者も少なくなかったはずだ。

そうした物の見方をする人間は、鞭打ちの刑で矯正(洗脳)された

モンゴル帝国の信用は、住民に信用紙幣の使用を強制する軍事力に裏打ちされたものだったのである。

帝国の軍事力を背景に、世界に紙幣の使用を認めさせ各地の富を一手に掌握するという手法は、紛れもなく現代のアメリカが用いる常套戦略である。

アメリカ合衆国の金融支配は、連邦準備制度の成立(1913年)が直接の萌芽であった。

しかしその600年ほど前に、モンゴル帝国がユーラシアの広域を舞台に信用制度の普及(資本主義)を試みていたことはあまり知られていない。

紙幣の誕生については、さらに中国の北宋時代まで遡ることができる。

しかし、北宋や金で試みられたのは自国の国境内部での普及に過ぎなかった。

それをアジアの異文明地域にまで拡大し、資源収奪という戦略的目的を伴わせたのは、他でもないモンゴル帝国の功績である。


武力を背景とする点も今日のアメリカ合衆国まで続く伝統である。

もはや、モンゴル帝国以外に信用制度のパイオニアと呼ぶにふさわしい存在はいない。

結局、モンゴルによる最初期の試みは、紙幣の乱発(インフレ)により崩壊を迎えた。

しかし、この教訓が後世の信用制度に重要な教訓を残したことに疑いはない。


6. 福祉制度

多民族環境における治安維持は困難を極める。

ユーラシアの広域を支配したモンゴル帝国が多民族問題に直面することは疑うまでもない。

反乱、独立を企てるものが後を絶たなかったと予測される。


犯罪者へは過酷な刑罰が実行された。
革袋に詰めて馬に踏みつぶさせたり、生きたまま釜茹でにする刑罰もあったらしい。

要するに、モンゴル帝国は、多民族環境の試練を恐怖によって制そうとしたのである。


しかし、マルコポーロの「東方見聞録」に目を通すと、支配地域において皇帝崇拝の動きがあったことが読み取れる。

残虐な死刑を厭わないにも関わらず、「貧民はハーンを神のように崇拝している」という。

民衆が残虐な統治者を支持する背景には何があったのだろうか?

モンゴル帝国の統治者は、救貧政策を行き届かせることも欠かさなかったのである。

モンゴル支配に従順な者、貧困家庭に対して、食糧供給、減税などの福祉措置で手厚く保護を与えたのである。

貧民は革命分子であり、20世紀には社会主義革命の主体として東欧諸国を牛耳るに至った。

この時代に、暴力革命に発展する労働者の不満を和らげる妥協策として社会福祉が歴史に姿を現すことになる。

モンゴル帝国は、福祉制度の誕生に600年ほど先んじて、救貧策の重要性を心得ていたのである。

犯罪者への厳格性と弱者への保護を兼ね合わせる「アメとムチの政策」は、今日のアメリカ合衆国においても見られる傾向である。

モンゴル帝国の崩壊にあたっては、乱発による信用システムの崩壊が重要な契機となった。

収益性のない福祉の拡大が、帝国の財政を逼迫したことは疑う余地もない。

そして、このモンゴル帝国の経験が、「偉大な失敗例」として、後世の信用政策に重要な教訓を与えたことは間違いない。


7. グローバルな同盟関係の構築

モンゴル帝国は、ヨーロッパ勢力と同盟を組んだ最初のアジア勢力だった。

アレクサンダー大王を失った後のギリシャ帝国がそうであったように、チンギスハンを失ったモンゴル帝国も分裂を免れなかった。

モンゴルには末子相続の伝統があるが、チンギス・ハンは性格の穏やかな3男オゴタイを後継者に指名してこの世を去った。

チンギス・ハンが設けた(正室との間に)4人の息子が王族の系統となり、以後はこの4王家から皇帝が選出されることになる。

しかし、1235年から1241年にかけて行われた東欧遠征の際に仲たがいが発生した。

1241年のワールシュタットの戦いでヨーロッパを震撼させた東欧遠征軍は、王族の連合軍で構成されていた。

この陣営の宴席で反目が生じたことが発端となり帝国の統一に亀裂が生じていく。

王族の対立構造が誰の目にも明らかになったのは、第二代皇帝オゴタイの死に際して、選出候補から漏れていたはずのグユグ(オゴタイ家)が母后ドレゲネの陰謀によってハーン位に選出された事件だった。

他王族の遠征中に仕掛けられた政治工作によって帝国の内部分裂は明かになる。

権勢を誇るオゴタイ家・チャガタイ家と、それを拒絶するジュチ家・トゥルイ家の対立構造によって分断された。

さらに、トゥルイ家のフラグが中東に進軍して1258年にアッバース朝を滅ぼすと、中東で自立しイル・ハン国を建てた。

この領土拡大に向けた軍中でも、親睦関係にあったトゥルイ家とジュチ家の間に反目が生じ、その後の領土問題(アゼルバイジャンの帰属)に発展した。

1261年には戦火を交えるほどの対立に至った。

さらに、トゥルイ家出身のモンケ・ハンの没後、モンケの兄弟であるフビライとアリクブケの間に皇位継承問題が紛糾する。

アリクブケは、オゴタイ家・チャガタイ家・ジュチ家の3王家を取り込んで正当性を主張するが、肥沃な中国を背景とするフビライの軍勢の前に敗北を喫した。

それでも、フビライを認めないオゴタイ家のカイドゥは、チャガタイ家とジュチ家を取り込んで対抗勢力を育て上げて抵抗の構えを見せた。

トゥルイ家のフビライ・アバカに対して残りの3王家が反旗を翻す情勢に至る。

中国・中東のトゥルイ家が、東欧・中央アジアのオゴタイ家・チャガタイ家・ジュチ家を包囲する形勢だったので、劣勢を強いられる3王家は帝国の外に同盟関係を模索するに至る。

ジュチ家のキプチャク・ハン国はイスラム教の連帯で北アフリカのマムルーク朝と結んだ。

これにより、イスラム連合のロシア・エジプトに挟まれたイル・ハン国は、キリスト教をテコに東欧の東ローマ帝国の後ろ楯を得て対抗した。

さらに、東ローマ帝国の権威を求めてそれぞれが政略結婚を実現させ、イル・ハン国とキプチャクハン国に、東ローマ皇帝ミカエル8世の庶子が嫁いでいる。

そして、この帝国の分裂を収拾したい皇帝フビライは、中央アジアへの包囲網を敷くべくヨーロッパとの同盟を模索したのである。

フビライがヨーロッパへ派遣した使節は、最低でも3回に及んだ。

「東方見聞録」のマルコポーロも、フビライの使節としてヨーロッパに派遣された一人である。(商人としてやってきた)

結局、フビライの死もありヨーロッパからの援軍は破談に終わった。
それでも、1301年のカラコルムの戦いで、フビライを継いだテムルが3王家のリーダーカイドゥを大敗に追いやったことで、元の勢力が磐石になった。

西方でも、1270年の戦いでチャガタイ・ハン国のバラクに勝利を納めたことでイル・ハン国の優位が確定した。

ヨーロッパの勢力に頼るまでもなく、敵対勢力を打倒したトゥルイ家の権勢が東西で磐石になったのである。


しかし、混乱が終息することがなく十字軍の対立軸と重なった場合、キリスト教連合軍(中国、ヨーロッパ、イラン)とイスラム教連合軍(エジプト、中央アジア、東欧)の対立にまとまり、十字軍遠征をユーラシア全域に延長する世界大戦に発展していた可能性も否定できない。

ヨーロッパの軍事同盟の候補に中国の勢力が浮上するという事態は、モンゴル帝国より前の時代にはあり得なかったことである。

航空機を駆使して世界じゅうの国々と国交を結んだ20世紀のアメリカにも通ずる、世界の統合を進めた勢力であったことは間違いない。


やはりモンゴル帝国は、アメリカ手国の先駆け

モンゴル帝国が実施した統治の特徴を挙げると次のようになる。

・拡大主義
・宗教・民族を超えた利害を軸に展開する外交
・強大な軍事力を背景とした警察機能
・福祉による貧困の削減
・自由貿易の推進
・信用制度

これらは今日の覇権大国であるアメリカ、またそれに代わろうと画策する中国の政策と遜色ない。

史上初の試みゆえに、その覇権は短命に終わった。ものの、今日の覇権大国を彷彿とさせる帝国運営を、13世紀の中世において展開したモンゴル帝国には敬服せずにはいられない。

さらに、モンゴル帝国のネットワークなくして、火器をはじめとする中国の技術はヨーロッパへ伝わらなかった。
モンゴルの伝えた火器なくして、大航海時代も、オスマン帝国の拡大も、日本戦国時代も成り立たなかったのだから、「世界を繋げた」モンゴル帝国の功績は、21世紀に西洋文明の果実を世界に伝えたインターネット革命にも匹敵すると見てよいのではないか。