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「マンダラ理論」を知れば、東南アジアが分かる?【東南アジアの国家理論の原型】

歴史には、地域特有の統治形式を表す概念が登場します。
例えば、ヨーロッパ中世の封建制度、中国の朝貢外交は、文明圏の性格や地政学的条件を反映した伝統的な統治方式です。

では、東南アジア地域における統治様式は、上記2パターンのどちらかで説明が効くでしょうか?
20世紀の歴史学者は「No」と考えました。
東南アジアにも、他の文化圏とは相容れない独特の統治方式(秩序の保ち方)が存在します。


歴史を知ることは、現在を見る目を養ってくれます。

日本の歴史を見ても、「御恩と奉公」と呼ばれる統治者と家来の間の主従関係が確認でき、その影響は現代の日本社会から失われていないことが分かります。

東南アジア史においても、歴史の中に共通して現れてきた統治のパターンについて知ることは、今日の東南アジア理解に重要なヒントを与えてくれるはずです。

東南アジア社会の「秩序の保ち方」には、いったいどのような特徴が認められるのでしょうか?


1. マンダラ理論とは

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「マンダラ理論」の発見

ヨーロッパの東南アジア研究が開始されたのは19世紀。
1858年にイギリス領インドの成立を完了させたイギリスは、視線を中国大陸に移し、中国の植民地化に着手します。
イギリスのライバルであるフランスも、慌てて1858年にインドシナへ出兵。
ベトナムのサイゴンに橋頭保を築き、フランス領であるインドシナを挟み込む形で、イギリス領のインドと中国の成立を迎えます。(中国は列強により分割)

この時期から、東南アジア史の研究がヨーロッパ人の関心として浮上することになります。

1860年には、フランス人のアンリ・ムーオがカンボジアのアンコール・ワットの壮麗を西洋に伝えます。

1918年には、フランス人のジョルジュ・セデスが碑文研究により「シュリーヴィジャヤ王国」を発見。

今日でこそ世界史に頻繁に登場する古代王国の存在も、フランス人研究者によって再発見されるまで、現地民からは完全に忘れ去られていたようです。

そして、東南アジアに関する研究がおおかた出揃った1982年、イギリスのオリバー・ウィリアム・ウォルターズが東南アジアの歴史について次のように総括します。

「諸々の記録から再現される古代東南アジアの国々は、古い時代に築かれた居留地のつなぎ合わせであり、しばしば互いの領土を重ねあったマンダラの形をしている。」

ウォルターズは、東南アジアの各所に点在する権力の中心から放射状に伸びる勢力圏が、しばしば互いに重なり合っていることを指摘したのです。

ヨーロッパや中国においては、権力の中心への都市の忠誠は常に一意です。

ある権力が同時に複数の権力の中心に忠誠を誓うことはありえず、もし行ったなら離反と見なされ討伐軍が派遣されます。

一方、東南アジアの権力構造は重複的で、都市の忠誠は単一の権力に制限されません。

さらには、ある権力に忠誠を誓っていた都市が占領を介さずして離反し忠誠の対象を別の権力に移す

といったことが頻繁に確認できるというのです。

ウォルターズの見解は同時代の学者の支持を受け、ヨーロッパの「封建制度」、中国の「朝貢制度」と並ぶ東南アジア特有の統治方式として「マンダラ理論」にお墨付きが与えられます。

「マンダラ理論」の概要

「マンダラ(曼荼羅)」は、サンスクリッド語で「円」を意味する言葉です。

仏教(ヒンドゥー教)では、真理に至るまでに通るべき筋道を模式的に表した図として用いられ、中心の真理を、同じように中心を持った複数の周辺がとり囲む構造をなしています。
身近な例では大谷翔平選手が習慣化してきたマンダラ表もこの類といえるでしょう。

この仏教(ヒンドゥー教)の世界観を、イギリスのオリバー・ウィリアム・ウォルターズが東南アジアの王国の権力構造の中に見出したことによって誕生したのが「マンダラ理論」です。

代表的な「マンダラ(権力の中心地)」は、古くは8〜11世紀のシュリーヴィジャヤ王国(スマトラ、ジャワから海上支配を確立)、11〜13世紀におけるカンボジアのクメール帝国、14世紀以降のタイにおけるアユタヤ王朝などが挙げられます。


マンダラ理論と他の統治理論との相容れない点

中世ヨーロッパの封建制度

マンダラ理論の権力構造は、中世ヨーロッパの封建制度における権力のような絶対性を持ちません。

中世ヨーロッパの封建制度は、次のような特徴を持ちます。

1領土線によって確定される勢力図
2都市の自治権の放棄、権力による内政干渉の容認
3主従関係の排他性(一度ある領主と結んだら他の領主と結ぶことは離反とみなされる)

ヨーロッパの権力構造において、権力の勢力圏は明確な領土線によって他と区別されます。

権力の内部でも、都市の統治には自治が認められず、中央が認可する諸侯(王族や国家成立時に大きな貢献した人物の一族)に任せられます。

かといって諸侯の統治も自由ではなく、王からの内政干渉に従わなければならない義務を負っていました。

そうした厳格性を伴う組織体では、当然、別の王に忠誠を誓うことなど認められません。

こうした義務を破った場合は、離反とみなされ、反乱軍を討つべく中央から追討軍が派遣されます。


いっぽう、東南アジアのマンダラ理論では、封建制度に比べて格段に「緩い」主従関係を基盤に持ちます。

都市には自治権が認められ、どの権力に忠誠を誓うかの決定権だけでなく、同時に複数の権力を忠誠の対象とすることも認められます。

中央権力との結びつきは、いつ離れてもおかしくないほどの脆弱です。

したがって、基本的には内政干渉も認められず、都市の自治にゆだねられます。

では、戦争のときはどうするか?というと、

仮に戦争の主体が忠誠を誓う都市同士であった場合は、自らの利益にもっとも叶う側をサポートしていたようです。

以上のように、ヨーロッパの厳格な封建制度から見ると、国家すら成立していないと思えるほどの「緩さ」を持つのが、マンダラ理論に基づく権力構造の特徴といえます。

中国皇帝による朝貢システム

中国の国内統治もヨーロッパのような厳格な統治システムを持ちます。
(違いがあるとすれば、科挙による能力重視の人材登用のため皇帝との血縁の繋がりが希薄で、都市の忠誠の維持が困難だった。)


中国の朝貢システム(国内統治ではなく外交方針)は、次のような特徴を持ちます。

1 主従関係ではなく、Win-Win関係に基づく形式的な上下関係
2主従関係ですらないので、内政干渉を行う権利はない


アジアを舞台とする中国の朝貢システムは、非中華圏の地域に「中国皇帝を中心とするアジア秩序」を認めさせるための外交方針です。

中国皇帝を中心とする世界秩序を保つために、周辺諸国から献上された貢物(朝貢)に対する数倍の返礼を行い、利益を与えることで異文明の王による侵攻を鎮静化させたのです。

周辺国にとっては、中国に豊かな中華帝国が君臨する限り、経済的なメリットの大きい朝貢貿易の恩恵を享受できます。

中国皇帝にとっては、貢物と返礼のやり取りを介すことで、軍事侵攻が及ばない地域との間にも、形式的な上限関係を作ることができます。

朝貢貿易が成立した時点で「家臣国家」として妥協が図られるので、中国皇帝は相手国にそれ以上の干渉を行いません。

当然ながら朝貢相手の国に向けて内政干渉を行う権利もありません。

このように中国皇帝を頂点とする朝貢システムは、アジア地域の紛争回避手段として機能し、中国皇帝による形式的なアジア覇権に実態を与えてきたのです。


近代化以前の統治システムは、今日の国民性に影響を与えている

これらは、地域特有の情勢や宗教などの要因が複雑に錯綜して形成されたシステムです。
地域安定のために作られたこれら概念は、今日のヨーロッパ人の契約主義、中国人の何でも奢って形式的な上下関係を作ろうとする民族性などに如実に反映されているといえるでしょう。

東南アジアの「マンダラ理論」においても、地域の秩序安定のために形成された独特の手続きが存在します。

東南アジア特有の統治理論「マンダラ理論」の特徴

「マンダラ理論」の特徴は下のように要約できます。

マンダラ理論の特徴1国境線の希薄さ
2中心(王)の威厳によって決定される勢力図
3都市の自治権
4都市は、複数のマンダラと忠誠を結ぶことができる
4王の個人的魅力の重視

東南アジアの「マンダラ理論」と封建主義、朝貢システムには、一定の類似性が確認できます。
それは、中央と都市の主従関係をベースとする点です。

しかし、両者の結びつき方には、大きな隔たりが認められます。

忠誠の二重関係は当たり前

封建制度や朝貢システムは、都市が複数の王朝に忠誠を誓うことを認めません。
ある王朝に組み込まれた都市は行政の統合が行われ、王から都市へ命令(内政干渉)が下されます。
もし、配下の都市が他の王朝と結んだなら、それは離反であり、係争の原因となります。

一方、東南アジアの「マンダラ理論」においては、都市が複数の王朝(マンダラ)に忠誠を誓うことが許されます。

都市の忠誠を獲得したマンダラは、地方領主の任命権を得ることもありましたが、内政干渉は基本的にNGでした。
都市の自治権が大幅に認められ、マンダラと周囲の都市がゆるやかに結びつくフレクシブルな関係性が形成されました。
都市が自分のマンダラ以外と結んでも、それは普通のことだったのです。

都市の忠誠に排他性がない以上、国境線という考え方も希薄です。
王朝の勢力圏は、ヨーロッパや中国のような国境線ではなく、マンダラの中心から放射される威厳の程度によって図られました。
王朝の征服が行き届いた範囲(=国境)によって勢力図が調整されるのではなく、各マンダラの中心に位置する王(Divine King)の威厳の強さに比例して影響力の及ぶ範囲(都市の支持が下る)が確定します。
各マンダラの影響力は互いに重なり合うため、ヨーロッパのような国境の概念は適用されません。

マンダラと結ぶ都市側のメリット

あるマンダラに忠誠を誓う都市は、兵役の義務を負います。
出動命令が下りた時は従い、また定期的な貢物の義務も背負います。

それに対するリターンは、別のマンダラからの攻撃に対する保護が期待されることです。

そのため、周囲に係争中の複数のマンダラが存在する場合、国境地帯の都市は、両マンダラとの間に主従関係を結びました
これは、対立中のマンダラにとっても、お互いの勢力を牽制し衝突を防ぐという緩衝地帯としての利点があったのです。

このようにして複数のマンダラの影響力が重なり合うという、世界的に珍しい勢力図が形成されていきます。

Divine Kingに基づく王の個人的魅力の重要性

このマンダラ理論の成立背景を語る上で欠かすことができないのが、divine kingの概念です。
東南アジア(インドシナ半島)の王朝のモデルケースは、クメール帝国に求められます。
この王朝の統治理論が「Devaraja」という概念でした。
それ以来、東南アジアにおいて、王はインドの神(ヴィシュヌ、シヴァ)に等しい超越的な存在であり、王朝の権力を図る指標として扱われるようになります。
王が醸し出す神性に応じてマンダラの射程範囲は広がり、人々は王に服します。

クメール帝国のアンコールワットも、マンダラの概念モデルに基づいて設計され、クメール王の宇宙の統治を象徴しました。

しかし、戦争での敗北や日常的な言動によって、この「王=神」の観念が破られたり、王位を継承した後継者が前王の威厳を引き継げなかった場合、傘下の都市へ離反の大義が与えられました。

そのため、インドシナ半島の王朝は競って宗教建築に励み、今日の観光資源として残るような、壮大な寺院を残さなければならなかったのです。

歴史の中にマンダラの理論が確認できる事例

マンダラ理論の実践例は、東南アジアの歴史の中に以下のような事例に確認できます。

領土認識の曖昧さ

マンダラ理論の影響がよく分かる例として、各国の領土認識を挙げることができます。

東南アジア諸国の自国の領土認識を見ると、必ずと言っていいほど、インドシナ半島全域に及ぶような広大な勢力地図を示しています。
例えば、カンボジアならクメール帝国・黄金期時代の地図、タイならラーンナーコーシン朝時代の地図、ミャンマーならタウングー朝時代の地図といったように、覇権を達成した歴代の王朝の領土を持ち出してきます。

しかしこれは、あくまで都市からの忠誠を受けた範囲であり、ヨーロッパや中華圏が用いるような厳格な領土線ではありません。
ある都市はあるマンダラと結ぶ一方で、同時に別のマンダラとも主従関係を結びました。
東南アジアの王朝にモンゴル帝国に匹敵するような領土を持つ王朝が現れるのは、領土認識の曖昧さからきているのです。

王個人の魅力によって領土が決まる

タイ族初の王朝であるスコータイ朝は、第3代ラムカーヘン王の時代に最大領域を達成しました。
有能な王の魅力は都市の忠誠を引きつけ、勢力圏は短期のうちにマレー半島からラオス、カンボジア地方にまで伸びいきます。
しかし、有能なラムカーヘン王の後継者は、ラムカヘーン王に比べると「無能」でした。
前王の魅力を引き継げなかったため、都市の離反を招き、「もっと勢いのあった」新興のアユタヤ朝に吸収されていきます。
帝国は、王の魅力によって短期のうちに栄え、短期のうちに瓦解したのでした。

マンダラの勢力図は、王個人がいかに「Divine Kingに即しているか」という基準に準拠していたのです。

複数のマンダラに向かう忠誠関係

カンボジア王国の例

17世紀以降のカンボジア王国は、東西からシャム(タイ)とベトナムの二大勢力に挟まれ、双方に臣従を誓うことを強いられました。

この関係は、地域の勢力関係を曖昧なままにする一方、緩衝地帯として打ち続くシャムとベトナムの衝突を終焉させ、地域安定に役立ちました。

近世ラオスの例

現在ラオスがある地域には、かつて統一王朝・ラーンサーン王国(マンダラ)が存在していました。
しかし、18世紀に王国が3つの王国に分裂すると、それぞれの王国が周辺の強大なマンダラと結び、互いを牽制し合うようになります。
これもマンダラ理論の実践例です。

王と都市の個人的関係性の重視

王族同士の婚籍が、マンダラ同士の合同を引き起こします。
ヨーロッパでも、政略結婚はありふれた現象でした。
しかし、その目的は対立の解消であり、王族同士の結婚が起きたからといって、王国の統合が起こることはありません。

しかし、9世紀のシュリーヴィジャヤ王国の王女とシャイレンドラ朝の王子の結婚では、シュリーヴィジャヤ王国とシャイレンドラ朝の合同が起こり、以降シュリーヴィジャヤ王国の中心は、スマトラ島からシャイレンドラ朝のジャワ島へ移ることになります。

マンダラ理論の終わり

この地域特有のマンダラ理論も、19世紀中盤に西洋人が到来すると同時に終焉を迎え、都市はヨーロッパ的な一国のみへの忠誠を強いられ、イギリス、フランス、あるいはタイ王国のいずれか1国の傘下に下ることになります。


マンダラシステムを知ることで得られるメリットは?

駐在員や旅行者にメリットがある

欧米人の契約志向は、中世の封建制度に起源を遡ります。
中国人が何かにつけ奢って権威を示そうとするのも、朝貢システムの名残でしょう。

したがって、今日の東南アジア人の行動傾向も、近世まで支配的だったマンダラ理論から何らかの影響を受けていると考えるのが普通です。
もちろん、学者の研究対象から外れる内容なので完全なる筆者の主観に過ぎませんが、できるだけ客観性を保ちつつ、以下に示してみたいと思います。

東南アジア独特の秩序の保ち方が分かる

マンダラ理論は、中世ヨーロッパの封建制、中華圏の朝貢システムと並ぶ、「秩序安定の知恵」です。
ヨーロッパ人は、義務と奉仕を軸とするフレクシブルでフラットな関係を認めることで、異民族が入り混じる環境を切り抜けようとしました。
中国人は、傘下の都市へ多大な利益を与えることで、形式的な中華秩序を認めさせ、武力衝突を防ぎました。

こうした両文明の性向は、今日に至るまで人々の行動に多大な影響を与えていると思われます。
ヨーロッパ人は、契約以上の仕事(義務)を拒絶します。
中国人は、何かにつけ奢ることで、形式的な自分の優位を認めさせたがります。

では、これに並ぶ東南アジア人特有の利害調整行動としては、どのようなものが確認できるでしょうか?


東南アジア人に認められがちな行動とマンダラ理論の関係(推測)

東南アジアの「マンダラシステム」の特徴は、中央と末端のつながりの緩さです。
都市は複数の中央(マンダラ)と結ぶことが許され、忠誠の移動も大きな反発なく実行に移すことができました。
また統治の希薄さから、大幅な自治権が認められ、理不尽な命令に対しては、別のマンダラからの庇護を盾に拒否権を行使できたものと考えられます。

東南アジア人に一般的に認められがちな次の様な特徴は、マンダラ理論が影響していると考えられます。

組織に対する忠誠心の欠如
組織移動の抵抗のなさ
約束の不履行
命令に対する逆ギレ

東南アジアの歴史は、インド人バラモン階級の後ろ盾を得る強力な王の出現というところから始まり、統治の後ろ盾は「王の宗教的魅力」に依存していました。
領民にとっては、王に対する「義務とリターン」の関係性というより、「神に等しい王」に懸命に奉仕することが領民としてのアイデンティティーでした。
そのため、王は宗教的権威を示すべく、壮大な宗教建築に励んでいったのです。

したがって、マンダラ理論に沿って今日の東南アジア人を理解するなら、彼らが誰かに奉仕するとすれば、それは「敬服した相手」以外には向かわないのではないでしょうか。

私は東南アジアで働いたことがないので分かりませんが、東南アジア人は会社への忠誠心が低くすぐに辞めてしまうという話をよく耳にします。

これもおそらく、現地の伝統である「マンダラ理論」から少なからぬ影響を与えています。

現地の伝統に由来していることので、日本的な感覚で容易に裏切りと捉えるべきではないでしょう。

東南アジアにおいて、Divine King(神聖なる王)に違う存在には拒否権を行使でき、複数のマンダラ(権力の中心)に忠誠を結ぶことが許されていたのです。