Ossan's Oblige "オッサンズ・オブリージュ"

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

【インドと中国の代理戦争】中世のインドシナ半島に台頭したタイ族3王朝

日本人に馴染み深いタイ王国、そのルーツに迫ります。

第1章 : 雲南からやってきたタイ族がインドシナに定着するまで


雲南を出発したタイ族は、メコン川支流の河川に沿って、広域に広がりました。

メコン川の支流はインドシナ半島に広がり、今日の東南アジアの国々のほぼ全てを網羅しています。

肥沃なメコン川は農耕に有利であり、移住者であるタイ族が数を増やすのに時間はかかりませんでした。

雲南で培った農耕技術を背景に現地に浸透し、先住民族との同化も進んでいきます。

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メコン川の豊かな水系に沿って移住したグループの中には、今日のタイ地方に移った集団も存在しました。(タイ・ユワン族)


雲南(タイ族の故郷)と東南アジアの位置関係

タイ族は「ムアン」と呼ばれる集落を拠点に生活を営みます。

初期は小規模なムアンが乱立する状態でしたが、時代が経つにつれ、統一を目指す勢力が現れます。


第2章 : タイ北部の独立勢力「グンヤーン王国」→「ラーンナー王国」

タイ北部に成立した「グンヤーン王国」

タイ地方における初期の自立の動きは、クメール帝国の地方官吏の役割に見ることができます。

7世紀のタイ地方は、オーストロネシア系先住民モン族のドヴァーラヴァティ都市群と、そこへ侵入してきたクメール人のラヴォ王国(現ロッブリーが中心)が肩を並べる状態でした。

こうした情勢の中、移住を試みたタイ族(タイ・ユワン族)は軍事傭兵の立場で現地に定着していきます。


638年には、現地を牛耳っていたクメール人のラヴォ王国からチェーンセーン(タイ最北部)の統治を任された「ムアン・ヒラン(Mueang Hiran)」が現れます。

この638年は、中国南部における雲南の統一(南詔の成立 : 738年)の100年前であり、雲南のタイ族に南詔成立以前からインドシナ移住の動きがあったことを物語っています。

そして、638年の時点には、すでにクメール族のラヴォ王国から実力を認められるほどの勢力に拡大していたことが確認できます。

さらに850年頃には、クメール人から独立を宣言し、グンヤーン王国が成立

このグンヤーン王国が後のラーンナー王国(現チェンマイ)の前身となるのですが、この時点では小規模な都市国家の1つに過ぎず、周囲にはラヴォ王国(クメール人)配下の都市、タイ北部〜ミャンマーのハリプンチャイ王国(モン族)が幅を利かせていました。

しかし1050年頃、モン族のハリプンチャイ王国で6年間流行するコレラが発生すると、病疫を恐れてラムプーンを離れていくモン族の群れが現れます。

これに機にタイ族は、ラムプーンの急激な人口減少を埋めるように移住を加速させ、モン族と同化しつつ現地へ根付いていきます。


モンゴル襲来を機に独立したラーンナー王国

ラーンナー王国の独立(1292年)には、モンゴル帝国が深く関わることになります。

モンゴルの軍隊が中国本土を超えて押し寄せる以前、グンヤーン王国は華南のシップソンパンナー王国の傘下に置かれていました。

当時絶頂期にあったタイ・ルー族のシップソンパンナー王国は、華南を発し、ミャンマー東部、ラオス(ルアンパバーン)、ベトナム東部にまで領土を広げていたのです。

クメール族から独立を勝ち取ったグンヤーン王国も、1250年にはシップソンパンナー王国の傘下に入ります。

しかし占領から間もない1253年、モンゴル帝国の支配が雲南地域に及び、雲南のシップソンパンナー王国がモンゴル帝国に屈する事件が起こります。

この事件を契機に、宗主を失ったシップソンパンナー王国の服属国は、独立を回復。

さらにグンヤーン王国は、宗主が去った後の権力の空白を突いて、タイ北部の統一事業に着手。

1281年には、南方に逃げ落ちたモン族のハリプンチャイ王国を完全に滅ぼして王都に編入

統一の立役者・グンヤーン国王・マンラーイがタイ北部に君臨し、こうして1292年にラーンナー王国が成立します

モンゴルの襲来は、シップソンパンナー王国の支配に風穴を開けると同時に、ラーンナー王国成立の契機となる空白地帯を作り出したのです。


第3章 : 13世紀に成立したタイ族初の王朝・スコータイ朝

タイ北部におけるラーンナー王国の成立は1292年。

インドシナ半島におけるタイ族初の統一国家は、ラーンナー王国より50年以上さかのぼります。

それが1238年にタイ中部地方に成立したスコータイ王朝でした。


スコータイ王国が興ったチャオプラヤ川上流は、中国とクメール王朝の貿易の要衝として、貿易経済で大いに賑わっていた地域です。

1180年まではクメール人の植民地として、自治を許されていました。

しかし、この都市の豊かな経済力を支配下に置こうとクメール王が重税を課してきたことに際し、独立の気運が高まっていきます。


折しも1220年、クメール王朝のジャヤーヴァルマン7世が死去すると、タイ地方におけるクメール人の支配力が弱体します。

東南アジアのマンラダシステムでは、都市の忠誠は有能なジャヤーヴァルマン7世個人の求心力に由来します。

そのため、後継者が前王の求心力を維持できないと、都市の忠誠が離れ、離反が相次ぐことになります。

このように、有能な王の死が都市の独立の契機になるという事例は、東南アジア史において頻出します。

(今日のタイ王国でも、都市のあちこちに王の肖像画が掲示されていることは、訪れた誰もが気がつくことです。あれも王の求心力を保つための伝統なのです。)

クメール帝国の統治力に陰りが生じた隙を突いて、2人の英雄が立ち上がります。

それが、次の2名でした。

○ムアン・バーンヤーン(Bang Yang)の領主 → バーンクラーンハーオ(Bang Klang Hao)
○ムアン・ラート(Rat)の領主 → パームアン(Pho Khun Pha Muang)

二名は共同で反旗を翻し、クメールの守護隊と激突。

スコータイに軍隊を差し向け、自ら戦象に跨って戦ったバーンクラーンハーオとパームアンは、見事クメール軍を打倒します。

タイ中部からクメール人の勢力が一掃され、(タイ北部に先立ち、)タイ族の支配が確立した瞬間でした。

これが1238年における、インドシナ半島初のタイ族王朝・スコータイ朝の成立です。


スコータイ王国の全盛期は、第3代目の王、ラムカーヘン王(Ramkhamhaeng)の時代。

タイ北部でラーンナー王国が成立した頃(1292年)、西方のビルマではモンゴルの侵食が始まっていました。

これへの対策の必要性を痛感したスコータイ王・ラムカーヘンは、領土拡大事業に乗り出します。

英雄的な彼の魅力も助け、拡大事業は成功。(東南アジアにおける王は神であり、それだけ王の個人的な魅力が重んじられました)

スコータイ朝の支配領域は今日のラオス、カンボジアにまで広がり今日のラオスの領土であるルアンパバーンやビエンチャンもスコータイ王朝の傘下に下っています。

さらに警戒心の強いラムカーヘンは、北方の防備を固めるため、ラーンナー王国とも同盟を締結。

対モンゴル防衛の主導権を握り、見事国土を守り抜きます。

こうした貢献が評価され、「タイ王国の3大王」の初代に位置付けられる伝説的な君主として、今日なおラムカーヘン王の名は庶民の間で親しまれています。(バンコク・スカイトレインの駅名にもあったと思う)


しかしながら、傘下に加えた都市の忠誠は、ラムカーヘン王個人との間に結ばれた脆弱なものでした。

有能なラムカーヘン王が逝去するとb>忠誠の拠り所を失い、スコータイ朝から離反する都市が続出。

ラムカーヘンの死から約50年後の1351年には、アユタヤ王朝が勃興し、忠誠の対象をアユタヤ朝に移す旧スコータイ領の都市が増加の一途を辿ります

ちょうどこの頃、ルアンパバーンのタイ族も独立を掲げ(1354年 : ラーンサーン王国成立)、独自のラオ族の形成に始点を打っています。

相次ぐ後継者争いが都市の離反に拍車をかける中、ついに新興のアユタヤ王朝がスコータイ王国を攻撃。

1349年の戦いに敗れたスコータイ朝は、1350年までにアユタヤ朝の属国に下り、以降、長い歴史の中でアユタヤ朝に同化していくことになります。

1438年には、スコータイ王家の跡継ぎが断絶したことを契機に、アユタヤ朝の王子がスコータイ領主に就き、スコータイ王家は滅亡。

スコータイは、アユタヤ朝傘下の都市に下ります。


それでも温存されたスコータイ様式の文化基盤が滅ぶのは、16世紀のことです。

15世紀中ごろ、(1451年に発生したラーンナー王国の内乱の背景にアユタヤ朝の支援が発覚したことから、)アユタヤ朝とランナー王国の間に緊張が生じました。

1462年には軍事衝突に発展し、アユタヤ朝は、傘下のスコータイに出兵を命令。

ところが、これを独立の好機と見なしたスコータイは、敵のラーンナー王国と結び、アユタヤ朝に反旗を翻します。

この試みは、ピッサロヌークに防衛拠点を築いたアユタヤ王によって阻止されますが、この反抗が16世紀のスコータイ完全併合への布石となりました。

16世紀のアユタヤ朝は、ポルトガルから銃を購入したビルマ(タウングー朝)との戦いに直面し、一時は首都を陥落させられるほどの打撃を受けます。

この戦いで、よりいっそう重い負担を強いられたのが、旧スコータイ領の都市群でした。(スコータイ、ピチャイ、ピチャットなど)

住民は、率先して戦争に投入され、過酷な徴兵によって、都市人口は急激に減少。

旧スコータイ領の都市は、衰退を余儀なくされます。

ビルマの脅威が去った後で復興事業が行われますが、アユタヤ様式の都市様式で上書きされ、スコータイの文化様式は消滅しました。

この時点を以ってスコータイ朝史の幕引きとなり、のち18世紀にラーマ1世によって再開発されるまで、基本的には放棄されがちだったようです。


第4章 : インドシナ半島中部を統一したアユタヤ朝とは

アユタヤ王朝の創始者ラーマティボティーは、タイ王国の主張する王統史では、クーンボロムの子孫とされています。

しかし、歴史家の間では「ペッチャブリーの中国人商人コミュニティのリーダー」であり、結婚と同盟によってスパンブリーとロッブリーの権力を得た人物とする見方も出ています。(この「歴史家」がどこの国の学者であるかは不明)

タイ地方の支配権は、マンダラシステムに基づく都市の忠誠の移動によって、スコータイ王朝からアユタヤ王朝へと移ります。

スコータイ王が「人民への優しさ」という穏健的な方法で都市の支持を訴えたのに対し、アユタヤ王は中央集権制的に都市の支持を獲得していきます。

1349年のスコータイ朝に対する勝利がタイ中部の支配権の交替に決定打を打つと、1393年にはインドシナ半島の最大勢力・クメール朝の都アンコールをも占領

クメール朝の栄華に終止符を打つと同時に、新たな覇権を打ち立てます

1431年には、都アンコールからクメール人を追放し、プノンペンに退避させます。(クメール王朝 → カンボジア王国)

こうしてアユタヤ朝は、クメール帝国に代わるインドシナ半島の最大勢力の座を射止めたのでした。


ところが16世紀、ビルマ分裂期を統一したタウングー朝の拡張主義がタイ地方の占領を目論見ます。

1547年の最初の侵攻は撃退するも、1558年には北方のランナー王国が服属。

1563年の戦いでは、アユタヤ王族がビルマのバゴーに連行され、傀儡のマヒンタラシット王子がアユタヤ王に擁立される事態に陥ります。

1568年にはビルマへの反乱を企てるも、これが第3次シャム・ビルマ戦争の契機となり、1569年にはアユタヤが陥落

この時、ビルマのタウングー朝軍を率いたバイナウン王は、今日のミャンマーでも英雄視される名君で、ビルマの最大領域を実現した名君として知られています。

ところが1581年に、このビルマの猛将が死去すると、状況が変わりました。

東南アジアにおいて、王の死は往々にして都市の独立を招きます。

都市の忠誠は王個人の魅力に基づくところが大きいため、前王以上の影響力を保てないことが都市の離反に大義を与えるからです。

独立を目論むアユタヤ王朝に、バイナウンの死によるビルマの分裂という好機が訪れます。

この好機を生かして見事独立を勝ち取ったのが、タイの3大王の2人目、ナレースワンでした。

彼は武勇に秀でた英雄で、高い求心力を誇りました。

今日のムエタイも、ナレースワン王の時代に基礎が作られ、子弟を国を守る強者に育てるべく普及していった戦闘武術です。

このナレースワン王が1584年にアユタヤ朝の独立を宣言すると、これを認めないビルマの侵攻が、1584年から9年間に渡って重ねられます。

1593年にはナレースワン王がビルマのミンジー・スワを戦象の一騎打ちで破り、ビルマの攻勢に歯止めをかけたナレースワン王は、その勢いのままビルマ領へ打って出ます。

ナレースワン王の軍隊は、1595年にはビルマ東南部のタニンダーリを獲得し、モッタマ近郊にまで領土を広げると、1600年にはビルマ本土のタウングーに迫ります。

結局、この侵攻は撤退に終わったものの、北部ではランナーを陥落させました。

さらにナレースワン王は東方のカンボジアへも軍を進め、1594年には貿易で賑わっていたカンボジア王国の首都ロンヴェクを占領。

このカンボジアの占領は、カンボジアの東に隣接するベトナムとの係争関係の引き金を引きます。

南のプノンペンに追い込まれたカンボジアは、以降シャムとベトナムの緩衝地帯として交互に臣従を誓う、暗黒時代の道を歩むことになりした。


また、1590年の戦いでは、ナレースワン王が率いた軍勢に日本人傭兵500名が参加していたことが記録に残っています。

タイ史に英雄的活躍を残したナレースワン王ですが、戦国時代を終えたばかりの日本人が、舞台裏で傭兵として活躍していたことは、歴史的な日泰関係の深さを今に伝える証拠といえるでしょう。

この泰緬戦争は、ナレースワンが死去する1605年まで戦われました。

タイの3大王に数えられるナレースワンの死後は、やはりアユタヤ朝も後退の色が濃くなります。

1614年には、手に入れたばかりのタニンダーリとランナー(いずれもビルマがアユタヤ朝を攻撃する際の拠点)を奪還され、失地奪還の試み(1662年~1664年)も失敗に終わります。


第5章 : アユタヤ朝に貢献した外国勢力

西洋と東洋の境目に位置し、外洋からチャオプラヤ川を登ったふもとに位置するアユタヤは、世界的な交流の要衝となりました。

こうした地の利を生かして、アユタヤ朝は外国勢力を積極的に推進します。

アユタヤ朝初期の頃から中国商人との交流が始まり、15世紀に鄭和が訪れた際には、既に大勢の中国人がタイに居住していたことが記録に残されています。

中国商人に求められた貿易品は、主に犀角、カワセミの羽毛、象牙などです。

こうした中国人の活動に対する規制も皆無だったため、16世紀までにはアユタヤ王朝の貿易から民間部門、軍事部門に至る要職までを中国商人が掌握するほどでした。

一方ヨーロッパへは、1430年の時点で、イタリア人旅行家を介してその存在が報告されており、日本とは14世紀の室町時代から交流が始まり、1388年にはシャム船が日本へ滞在した記録が残っています。

タイに移住する日本人も、少数ながらも、この頃には既に存在したようです。


さらに16世紀、西洋で大航海時代が始まると、優れた文明の利器がもたらされ、東からは戦国時代を終えたばかりの戦闘経験豊富な日本人部隊が海を渡ってきます。

こうした外国勢力の援助なくして、ビルマとの打ち続く泰緬戦争を戦い抜くことはできなかったでしょう。

1550年にはポルトガルの最初の布教が行われると、1554年には3つの教区が作られ、1500人のシャム人がキリスト教徒に改宗。

当時、宿敵のビルマが、先んじてポルトガル商人から鉄砲を入手していたので、アユタヤ朝側もこれを得るために優遇を与えたと考えられます。

1553年には300人のポルトガル兵がアユタヤ王に奉仕しています。

ところが、戦闘が始まると、実際の戦闘部隊はアユタヤ・ビルマのどちらもポルトガル傭兵でした。

同士討ちを嫌うポルトガル傭兵から、戦闘拒否を表明する声が続出しました。

そこで重視されたのが日本人傭兵です。

同時代の日本は、既に戦国時代を終え、役目を終えた兵士が失業者としてくすぶっていました。

また、豊臣、徳川によって迫害を受けた大勢の迫害キリシタンも控えていました。

こうした層がヨーロッパ商人を介して海を渡り、当時のインドシナ半島の覇権争い(アユタヤ v.s. ビルマ)に役目を果たしていったのです。

こうした戦闘経験豊富な浪人は、騒乱の真っ只中というアユタヤ王に歓迎されました。

独立を勝ち取った英雄ナレースワン王の偉業に、日本人傭兵が役割を果たしたことは、既に述べた通りです。


日本人町は、ナコーンシータンマラートとパタニにでき、「Ban Yipun」と呼ばれる日本人居留地で、推定1,500~7,000人の日本人が暮らしていたとされます。

このアユタヤ日本町の住民は、貿易商人の顔も持っており、日泰貿易に従事しました。

タイのエイ革、漢方に用いられるスオウの木等が、日本の銀、日本刀、漆塗りの小箱、高級和紙等と交換されていたようです。

ところが日本人に友好的だった王朝が、1629年にプラーサートトーンの起こした政変により簒奪されます。

さらに1630年に日本人町の頭領・山田長政が暗殺されると、報復を懸念した王が4000人の兵士に、日本町の焼き打ちを命じます。

タイでの騒動を知った日本の徳川家は、これを幕府の威信を傷つけるものと捉え、1634年に第一次鎖国令を発布。

1635年には朱印船貿易を廃止し、アユタヤ朝との貿易も打ち切りました。


日本人勢力なき後のシャムの外国貿易は、主にオランダ勢力が担うことになりました。

さらに16世紀末にポルトガル、スペインの旧教勢力が衰退すると、これに代わり新教国のイギリス・オランダ、そしてフランスが台頭します。

1603年にオランダ東インド会社、1612年にイギリス東インド会社が、それぞれシャムに来航し、貿易協定をはじめとする外交関係を結びます。

しかし、イギリス・オランダは武力外交や海賊行為の傾向を見せ始めたため、ナーラーイ王(在位1656年-1688年)の反感を買うことになります。

唯一の例外としてフランスだけは宣教を重視し、国土のインフラ整備(協会、神学校、病院)もセットで実施したため、ナーラーイ王から最も重要なパートナーとして認知されていきます。

1662年には、フランスの使徒代理区が設置され、カトリック教布教のアジア拠点がアユタヤ領内に築かれます。

日本、中国をはじめ、アジア諸国の大半はキリスト教を危険視したのに対し、シャムだけは唯一、新教の自由を認めたことが設置の理由です。

ナーラーイの支持を得たフランスは、政府高官コーサーパーンを外交使節としてフランスに送り、1684年にフランス王ルイ14世との間に国交を開くことに成功。

条約にて、アユタヤ朝における布教の自由、キリスト教徒に対する日曜日の労働免除、異教徒との調停機関の設置などを認めさせます。

また、プーケットにおけるスズ貿易の独占権と南部ソンクラーの領土がフランスに与えられました。

ところが、特権に味をしめたフランスは、徐々に支配欲を鮮明にします。

1686年には、条約締結のためにコーサパーンと2名の従者がフランスに派遣され、翌年1687年にはルイ14世から返礼が送られます。

しかし、この戦艦を率いた使節には、1,361名の兵士が同乗しており、ナーラーイ王へ王のキリスト教改宗とバンコク、ミェイクへの駐屯軍の設置を求めるなど、事実上のシャム入植を試みます。

これが弾圧の契機となり、翌1688年には、クーデターにより外国勢力に寛容なナーラーイ王が処刑され、フランス勢力の追放が実施されました。

実行部隊は、保守層である仏教勢力および華僑勢力でしたが、武器提供の担い手はオランダでした。

以降のシャムは鎖国体制に転じ、白人国家に対し国を閉ざしていくことになります。

代わって中国商人の勢力が強まり、19世紀後半に欧州勢力に取って代わられるまで、王朝内の政治・経済の中枢を掌握します。

クーデターでの功績があったオランダだけは、唯一貿易を許可されましたが、18世紀にビルマがアユタヤ朝を征服した際に追放されています。


第6章 : アユタヤ朝の最後

ビルマの歴史は内乱に彩られています。

しかし、18世紀にコンバウン朝への反乱が長期化し始めたことは、アユタヤ朝の支援と無縁でありませんでした。

この時期、アユタヤ朝は、ビルマの戦力をそぐために、北部国境のラーンナー、西南部国境のモン族地域の反乱勢力を支援していました。

これに痺れを切らした振興のコンバウン朝が、1759年からシャム侵攻を開始。

初期の戦闘は撃退した後、1765年に再開すると苦戦を強いられます。

ビルマ内乱を収拾したばかりの精強なビルマ兵とは対照的に、アユタヤ朝の兵士は脆弱な外国人傭兵部隊で構成されていたのです。

2年後の1767年4月には、首都アユタヤが陥落。

この戦いには、17世紀にアユタヤ朝を追放されたフランスの砲兵隊が、ビルマの主力部隊として参加し、アユタヤ陥落に手柄を立てています。

アユタヤを占領したビルマは、アユタヤの都市で劫掠の限りを尽くし、壮絶な破壊の末に、アユタヤは廃墟と化しました。

都市は再起不能なほどに荒廃し、この時に刻まれた歴史は現在のタイ王国とミャンマーの国民感情に暗い影を残し続けています

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しかし、ビルマのアユタヤ支配は7ヶ月ほどの短命なものでした。

王国崩壊後の混乱期をまとめた中国系タイ人のタクシンがビルマ占領軍を撃退

これを機に、アユタヤ朝に代わってトンブリー朝がタイの国土の支配権を握ることになります。

この王朝の下で、タイ王国はタイ史上最大の版図を実現するのでした。

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