Ossan's Oblige "オッサンズ・オブリージュ"

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【類似性の歴史的背景】「東南アジアのインド化」 - カンボジア・インド同祖論②-2

東南アジアの王朝成立を促したインド文化とは?

東南アジア最初期の王朝の成立時期は、インド商人の東南アジア渡航が始まった時期と重なっています。

1世紀に始まったローマのインド洋貿易は、中国絹を求めて東南アジアへ渡航するインド商人の群れを生み出しました。

東南アジアを訪れるインド商人は、しばしばバラモン階級を伴い、彼らが持つ統治理論は現地の支配階級に歓迎されました。

こうして、文字のない未開文明であった東南アジアにヒンドゥー教の萌芽が芽生えます。

さらに、インド商人の渡航とほぼ同時期に、貿易ルートに沿って東南アジア初の王朝が姿を現します。

扶南(1C : インドシナ半島東部)
Gangga Nagara(2C : マレー半島)Salakanagara(2C : ジャワ島)


それでは、古代インド人がもたらした思想・文化は、従来の土着文化に対し、どのような点で画期的だったのでしょうか?

東南アジアへ至ったバラモン階級がヒンドゥー教の思想を伝えた

インド人が訪れる以前の東南アジアに国家様の集団が存在しなかったわけではありません。

おそらく農業が育ち、生産を効率化するための集団が形成されていたことでしょう。

しかし、それは小規模な部族集団にとどまり、王朝のような統一性を発揮するには至りませんでした。

そのような状態から王朝の成立へと至った経緯には、ヒンドゥー教の王権思想が切り離せません。

古代インドには、インド統一を成し遂げたマウリヤ朝の王に捧げられた、理想の王を象徴する概念が存在しました。

この”Chakravarti”がモデルとなり、東南アジアの地で”Devaraja”という派生概念が誕生します。

これは、世俗の王を宇宙の創造神ヴィシュヌ神とシヴァ神に結びつけ、創造神の体現者、あるいは再臨と見なす思想です。

王は神に等しい崇拝の対象とされ、政治と宗教の双方の権力を掌握することが認められました。

近世以前のヨーロッパにも、強力な王権を認める「絶対王政」という思想が登場します。

これは、あくまでそれまで分離していた「世俗の最高権力」と「宗教の最高位」という立場を兼ねる王という程度の位置付けでした。

キリスト教が、「人間の神性」を認めることはありません。

一方、東南アジアの”Devaraja”においては、「王=神」が認められます。

王は、ヨーロッパのような「神の代理人」ではなく「神そのもの」です。

王の神性・超越性を認める点で、ヨーロッパの「絶対王政」と比較にならないほど強力な王権思想といえます。

(インドへ到達したバラモン階級が、現地勢力の庇護を得るために、インドの王権思想を意図的に強化して伝えたことが始まりだと考えられる。

この時は

その後、5世紀頃のジャワ島でDevaraja概念のプロトタイプが作られ、9世紀のクメール帝国で初めて国家規模に実践された。)

つまり、インドからやってきたバラモン階級は、「王は神に等しい」という宗教観念を東南アジアに植えつけたことになります。



王権思想が格差を作り、政治命令を可能にした

いったん集団の内部に絶対的な頂点が作られると、階層的な序列構造が出来上がります。

インド思想の原点であるカースト思想の影響も重なって、(※ 1)原住民の間に王を頂点とする階層的な序列構造が作られます。

つまり、王朝の成立です。

部族長を頂点とする集団は、以前にも存在していました。

しかしそれは、小規模な部族集団であり、王朝的な統一とはほど遠い状態でした。

しかし、絶対的な王は唯一性を求めて統一を目指さなければなりません。

各部族が王の権威を主張して争った結果、扶南、といった最初期の王朝群の成立を迎えることになります。

(※ 1 今日では、「東南アジアにカースト制度は伝わらなかった」という論調が主流だが、継承されなかったように見えるだけで、カースト思想も確実に影響を及ぼしている。
東南アジアにはカースト思想の前提となる民族の支配構造が存在せず、ローカライズされる形で受け入れられた。)


原住民の間に王を頂点とする序列を形成していきます。

しかしながら、本土インドのような征服の形式を取らなかったため、階級が特定の民族と結びつくことはなく、後世の歴史家に「東南アジアにカースト制度は普及しなかった」と語られるほど、能力に基づく社会的区分が標準だったようです。(主にサンスクリッド語の読み書きの能力)

今日でも、タイ王国やカンボジアでは、身分格差がはっきり分かれがちですが、固定的な「階級」ではなく移動可能な社会的身分の格差である点で、インドのカースト制度とは区別されます。

しかしながら、クメール人の真臘では、奴隷の14区分が存在したとされ、借金を返せなかった者、親に売られた者が世襲の奴隷として王命に服していた事例も確認できます。

こうした人間の階層区分は、格差の萌芽ではあったものの、同時に王朝拡大の原動力として働きました。
「王の絶対権力」という観念は、王命という政治権力へ転化し、公共事業(インフラ整備、戦争、建築など)を秩序立って実行する根拠となったからです。

“Devaraja”が採用されるようになると、王命はより強固になります。

「王命が下るたびに戦争や国内開発が実施され、人口が増加し、さらに王権が強化される」という建設的なサイクルに入ることができたのは、集団を束ねる強力な王の権力なくして説明できません。

インドシナ半島の覇権を達成したクメール帝国の原動力は、Devarajaの王権思想に求めることができます。

交易の結果入ってきた技術も重要な条件

王朝の成立を促すのは、思想だけではありません。

むしろ初期の頃にあっては、技術力の方がより重要であったと考えられます。

近代兵器も存在しないこの時代、王朝の盛衰を左右したのは、穀物生産力です。

のちのクメール王朝の覇権を可能にしたのは、肥沃な大地に築かれた精巧な灌漑設備でした。

これが土地特有の乾季を克服し、年3倍の収穫によって、人口の増大と輸出穀物の確保という覇権の条件を整えたのです。

当時、貿易を通してローマとつながっていた東南アジアへは、相当な先進技術の流入があったと考えられます。

そもそも、文字すら持たない未文明の土地で自発的に灌漑設備を完成させることは不可能です。

こうした技術的条件は、季節風貿易によって諸外国から流入した、ヒンドゥー教思想とは別の条件であったと考えられます。

事実、東南アジア初の覇権王朝・扶南のヒンドゥー教化は4世紀ですが、2〜3世紀には、インドシナ半島南部一帯に及ぶ領土拡大を完了させています。

またDivine kingの概念も、5世紀のジャワでプロトタイプが作られた後、統治理論として本格的に導入されるには9世紀のクメール帝国まで待たなくてはなりません。

ヒンドゥー教の「強い王思想」が入る前から、地域覇権を成し遂げる王朝は存在していたのです。

その原動力は、技術以外に考えられません。

先進技術に基づく都市条件の整備があったからこそ生産力の向上が可能となり、高度技術を持たない近隣地域に対し優位を確立できたのです。

したがって、最初期の王朝拡大において、より重要だったのは貿易の富および一緒に伝わった先進技術であったと考えられます。

ヒンドゥー教は手に入れた広大な支配地をまとめ、統治する上で役に立った思想というのが事実ではないでしょうか。


宗教建築は、東南アジアにおける統治のシンボル

東南アジア各国の「強力な王権」を象徴するのが壮大な建築物です。

宗教の後ろ盾により、神に等しい権力を掌握した東南アジアの王は、配下の住民へ公共事業を命じました。(近隣諸国への拡大、インフラの整備、寺院の建築など)

中でも重要だったのが寺院の建築です。

なぜなら、王権の根拠は宗教的権威であり、自身の神性を示せなくなった瞬間に統治の正当性を失うことになるからです。

そのため、王は、常に自身の神性を証明しなければならず、宗教寺院の建設に心血を注ぎました。

今日、東南アジアの観光名所が寺院ばかりなのは、その時代の名残です。

東南アジアの王にとって、自身の神格化は、統治を成立させる上での最重要条件だったのです。

特に有名なのが、カンボジア・シェムリアップのアンコールワット(ヒンドゥー教のち仏教)、バイヨン(仏教)、インドネシア・ジャワのボロブドゥール(仏教)、スマトラのパレンバン(仏教)などです。

こうした建築物群に共通する壮大さ、壮麗さは、ヒンドゥー教のDivine King(Devaraja)に由来しています。
神聖なる王(シヴァ+ヴィシュヌ=ハリハラ)の全宇宙の統治の象徴として、王朝が大規模な領土拡大に成功した後に、偉業を記念して建造されたものばかりです。

仏教寺院が目立つのは、東南アジアは本土インドのような民族区分という条件を持たず、対立するはずのヒンドゥー教と仏教が当初から相互に習合しあったためだと考えられます。(各宗教のいいとこどり)

特にシェムリアップのアンコール・ワットは、古代ヒンドゥー王国の栄華を象徴する寺院(都)として王の威厳(神性)を国内外に示しました。

建築は、マンダラの理念に基づいた設計がなされ、構成要素間の距離もヒンドゥー教の神話や宇宙論に基づいて配置されます。

技術的な到達点も高く、概念モデルとのズレ0.01%未満という精巧さが、クメール人の技術的素養の高さを証明しています。

寺院の広さは西洋の聖堂の10倍以上であり、この壮大な建築物をわずか30年の歳月で築き上げたところに、当時最盛期を誇ったクメール王朝の権勢を確認することができます。

宗教と結びついた王権思想の採用によって、東南アジアの王家のなかに、宗教建築を乱造させる伝統が生まれました。

宗教建築は王権の象徴であり、自身の神性を示せなくなった瞬間に統治の正当性を失ったのです。

この王権思想と盛んな建築熱は、時として仇となることもありましたが(クメール帝国は、宗教建築がインフラ整備よりも優先された結果、灌漑設備が老朽化の限りを尽くして滅びた)、地域の伝統として根付き、王朝の存続と地域安定に大きく貢献しました。