Ossan's Oblige "オッサンズ・オブリージュ"

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【類似性の歴史的背景】「東南アジアのインド化」 - カンボジア・インド同祖論②-3

1、カンボジアは最も強いインド化(ヒンドゥー教)の影響を受けた地域

では、「インドと似ている」カンボジアのインド化は、どのような経過を辿ったのでしょうか?
以下に、カンボジアの歴史を見てみたいと思います。

東南アジアの歴史は、貿易を求めてやってきた古代インド人との接触から始まっています。

そしてカンボジアがインドから受けた影響力の大きさは、東南アジアの中でも最大級とみて間違いありません。

なぜなら、最初期にインド化が実施された地域だからです。

カンボジアの歴史を紐解くと、王家の起源、統治者の属性、クメール帝国が覇権を握るまでの経緯といった根幹の部分で必ずといっていいほどインド出身の人物が関わってきいます。

例えば、「カンボジア」という国名にしても、これは「カンボジャス」というインド北西部(今日のグジャラート地方)に存在したインド・イラン系民族の名称に由来しています。

また、国旗にも記されるアンコールワットも」は、インド本土を含めたヒンドゥー教寺院としては世界最大級の大きさです。

このように、カンボジアとインドの類似性には、その根拠に両者の深い歴史的な繋がりを確認できます。


2、インド人が深く関わったカンボジア史

カンボジア地域における人類の形跡は、少なくとも紀元前4世紀まで遡ることができます。

しかしそれは、1世紀に扶南が現れるまで小規模集落の集合体に過ぎず、文字をはじめとする文明の形跡は確認されていません。

この状況が変わったのは、ローマの季節風貿易に伴い、中国絹あるいは香辛料を求めるインド商人が大挙して東南アジアに押し寄せたことです。

今日の私たちが世界地図を見れば、インド・中国間を最速で移動するには、インドネシアのある海峡部を船で通過するのが最短ルートのように見えます。

しかし、航海技術が発達途上であった古代においては、小刻みな補給が不可欠でした。

そのため、陸路に近い沿岸のルートが好まれ、南インドを出た船はマレー半島の狭隘なクラ地峡を横断し、タイランド湾からベトナム湾を船で陸伝いに中国へ到達するというルートが使用されました。

メコンデルタは、この航路の重要な中継地点の役割を担い、1世紀に最初の港オケオ(Óc Eo)が登場すると、豊かな港を基盤とする扶南がカンボジア初の王朝として歴史に姿を現します。

貿易を通して最先端の技術を吸収した扶南は、周辺地域への領土拡大へと突き進み、2〜3世紀にはインドシナ半島南部ほぼ一帯(マレー半島北部〜南ベトナム)の支配権を掌握。

古代王国の黄金期を築きます。

4世紀に入ると、インド化が進展し、ヒンドゥー教に基づいた統治システムが採用されていくことになります。


この扶南の誕生神話として語られているのが、カンブジャとソマの伝説です。

1世紀、インドのバラモン階級に属するカウンディヤが夢のお告げに従ってカンボジアの地へ征服に赴き、現地の女王ソマを破ってこれと結婚し、その子孫がカンボジア王家の祖先となった

というのがカンボジア王家に採用されている扶南の建国神話です。

とはいえ、3世紀に黄金期を確立した王、Fan Shih-manの名前を見てもサンスクリッド名ではありません。

サンスクリッド名の人物が相次いで王位に就くのは、4世紀になってからの出来事です。
したがって、カンボジアのインド化は4世紀以降であり、王国公式の建国神話は、4世紀のインド化が行われた後に、インド系統の王家を正当化するために作られた神話だと考えられます。

中国の史書「梁書」も、この神話と同様の建国過程を伝えていますが、史書の年代が7世紀です。

インド化後のクメール人との関わりの中で記された史書であり、1世紀の情勢に対して客観的であるかは懐疑的です。

また、もう1つある建国神話においても、インド北西部の「カンボジャス」という部族出身のSvayambhuva Kambojと現地女性Meraの結婚を王朝創設の起源とされています。

この「カンボジャス」は、イランのアケメネス朝の君主「カンビュセス」との関連性も指摘されるイラン系の名前で、マハーバーラタやラーマヤナ、その他オリエント地方の古文書に度々名前が登場する名門一族でした。

このように、カンボジアとインドの同祖性は、王家発祥のレベルにまで遡ることができ、事実カンボジア王室によって公式化されています。



4世紀にインド出身の統治者がシステムをインド式に変えた

357年に行われた扶南のインド化は、国内の法制度を全てインド式に置き換えるという急進的なものでした。

この急進改革を実行に移したのも、Candanaという扶南最初のインド出身の王です。

これ以降、王の名称はサンスクリッド語由来の名前が採用されるようになり、550年に属国の真臘が扶南を奪った後もそれは続きました。

この真臘がクメール王家の母体となります。

その後、は南北に分裂し、北のは、沿岸地帯を拠点とする南のは8世紀にジャワのシャイレンドラ朝に飲み込まれます。

その後、802年にジャヤーヴァルマン2世が独立を宣言した時点を以ってクメール帝国の歴史が始まります。

この時、ジャワからインドシナ半島に持ち込まれたのが、Devaraja思想の原型でした。

ジャワ島もまた、インド化の最初期にヒンドゥー教が広まった地域であり、130年にはジャワ北西部でアレクサンドロス大王の子孫とされるインド出身の人物がヒンドゥー教国Salakanagaraを建国するほど、ヒンドゥー思想において先駆的な地域だったのです。

クメール帝国最初期のバコン寺院も、ジャワのボロブドゥールがモデルとされ、「山信仰」をモチーフにした「最上部に設置された祭壇へ伸びる長い階段と入り口の様式」などの特徴は、後のアンコールワットに引き継がれることになりました。

今日のタイ王国に残る「Divine king(神性なる王)」の概念も、その発祥はジャワに求めることができます。


国教(ヒンドゥー教)による繋がりがクメール朝と南インドの同盟を可能にした

1006年に即位したスーリヤヴァルマン1世は、南インドのチョーラ朝との同盟を締結しました。

この同盟の後、マレー半島のタンブラリンガ王国がクメール帝国に攻撃を加えたので、クメール帝国は同盟国のチョーラ朝に救援を要請し、両者の同盟を知ったタンブラリンガ王国もまた同じく仏教国のシュリーヴィジャヤ王国に共闘を呼びかけてクメール帝国・チョーラ朝からの攻撃に備えます。

この対立は、1025年のチョーラ朝のシュリーヴィジャヤ領への攻撃へと発展し、仏教対ヒンドゥー教の宗教戦争、そして東南アジアの権益をめぐる闘争の様相を呈していきます。

戦争の結果、軍配があがったのは、クメール帝国・チョーラ朝連合軍でした。

敗北を喫したシュリーヴィジャヤ王国は、すでに手にしていた海上権益を手放し、衰退が決定付けられます。


仏教勢力の海上支配を崩した後の海上支配は、13世紀末にヒンドゥー教国マジャパヒト王国の手に委ねられることになります。

インドシナ半島では、ヒンドゥー教国・クメール王国の黄金期が実現し、マレー半島北部を西の国境とし、北はラオス、東はチャンパを除くベトナム地域を併呑する帝国を成立させます。

12世紀の前半には、広大な領土を支配するクメール王の統治を記念して、アンコールワットが建立されます。


しかしながら、ヒンドゥー教国・マジャパヒト王国の手に渡った制海権も、マレー半島に台頭したイスラム教国・マラッカ王国に奪われ、海上覇権を譲り渡す形となります。

インドシナ半島におけるクメール帝国の覇権も、新興のタイ族による獰猛な攻撃によって都アンコールの放棄とともに終焉を迎えます。

※ 余談ですが、新興のイスラム勢力や中国南部からの移民に過ぎなかったタイ族が、土着のヒンドゥー教国に対して勝利を納めることができた背景には、大国の援助が関係していました。

つまり、中国・明王朝による支援です。

中国大陸をモンゴル支配から解放した皇帝の課題は、失った威信の回復でした。

世界帝国の称号を捨てきれない明は、王朝の発足間もない時期から鄭和の大遠征を実施し、遠くアフリカまで、中国皇帝の健在ぶりをアピールします。

そして、その途上にある東南アジアへは、現地の新興勢力を支援するといった形で、影響力の地歩を築きます。

つまり、現地のヒンドゥー勢力の覇権に挑もうとしていたイスラム勢力、タイ族に軍事援助を提供し、征服事業を影ながら助けたのです。

マレー半島においては、16世紀のポルトガル来航によって頓挫します。

いっぽう、タイ王国においては、帝国主義時代に関係が希薄になるも、今日に至るまで癒着状態を継続し、王朝内部の権力構造にも入り込むことに成功している。)


領土拡大が災いしたDivine Kingの罠による自滅

王の絶対権力を象徴する宗教建築は、クメール帝国の始まりと終わりを帰結しました。

クメール帝国は、領土拡大を進れば進めるほど、宗教建築に力を注がなければならない宿命を背負っています。

なぜなら、宗教と王権が結びつく支配構造のため、新しい領土を獲得する度に、獲得した新しい領土の領民にクメール王の神性を示すことが欠かせなかったためです。
そのため、クメール帝国の領土の全域に宗教建築を施さなければならず、支配地域のいたるところに壮大な宗教建築が建立されるに至ります。(クメール帝国の支配地域に含まれていた今日のタイやラオスなどの史跡に確認できるように)

帝国が小規模であったうちは問題はありませんでした。

しかし、帝国の領土がインドシナ半島の全域に広がるにつれて、基本的なインフラ整備を上回る規模の費用・奴隷が費やされるほどに膨らんでいきます。

その結果、灌漑施設というクメール帝国の生命線を維持できなくなります。

熱帯モンスーン気候に属するカンボジアの気候は、多雨の雨季と干ばつの相次ぐ乾季に分かれます。

降雨量のない乾季のシーズンを乗り切るには、雨季の間に確保した水の蓄えなしには不可能です。
無策では水を絶たれ、のたれ死にです。

この状況を防ぐべく設置されていたのが、国内2カ所に設けられた巨大な人工水域でした。

雨季の間に溜めた水を、乾期のシーズンに、都市じゅうを巡る運河で都市へ供給できたからこそ、地理的要因からくる水不足を克服できたのです。

しかし、クメール帝国の領土が広がるにつれ、灌漑施設に次のような負担がのしかかります。

クメール帝国の水供給インフラにのしかかった負担1人口増加による水需要の上昇
2森林開拓による森林の保水能力の低下
3森林減少よる土砂の急流

インフラへの負担は大きくなる一方であるにも関わらず、修復は十分に施されませんでした。

なぜなら、王国の拡大に欠かせない宗教建築に財源と労働力が費やされたためです。

クメール帝国の水管理システムは、汚泥が取り除かれずに堆積して支障をきたし、これにより帝国は乾季の渇きに耐えうる能力を失いました。

水供給の不全により、都市は人口減少に見舞われ、穀物生産力も衰退。

帝国は、穀物という輸出品の主力も失います。

この衰退に、タイ族の執拗な攻撃が追い討ちをかけ、クメール族は1431年に都アンコールを放棄。

クメール王族はプノンペンのウドンへ逃亡し、都アンコールは、その後フランス人によって発見されるまで、密林の中に忘れ去られることになります。

「クメール王の神性」は、王朝の出発点でしたが、終点でもあったのです。

このクメール帝国の瓦解(1431年)とほぼ同時期に、海峡部のヒンドゥー勢力マジャパヒト王国の衰退(1478年)も進行しました。

以降、東南アジアにおけるインドの影響力(インド化)は下火に向かいます。

3、カンボジア文化から失われないインド性

帝国の実態を失って以降のクメール帝国は「カンボジア王国」と呼ばれ、両隣のタイ・ベトナム勢力に脅かされ続ける暗黒時代を歴史に刻みます。

しかしながら、カンボジアの文化に刻まれたインドの痕跡は、今日に至るまで失われません。


例えば、

1国名が示す王朝の起源「カンブジャ」
2アンコールワットを刻む国旗
3社会通念における格差の公然視
4女性労働力の積極活用

などは、カンボジア文化の中から決して消え去ることのないインド文化の形跡を伺わせます。

中でも、注目に値するのが文字です。
クメール文字は、他の東南アジア諸語と同じブラフミー系文字に分類されます。

しかしその中でも、カンボジアのモン・クメール文字という言語の特徴は、サンスクリッド語からの借用も多く、インドからの影響を色濃く留めています。

文字と民族の伝播ルートは一致する

文字の伝播ルートと民族の伝播ルートが一致することは、人類学の基本的な常識です。

人類学に倣えば、インドのサンスクリッド語に近いクメール文字を使う民族は、インド人との遺伝的近縁性を感じさせます。

事実、王家の出自がインド北西部に存在した「カンボジャス」という部族になぞらえられ、カンボジア王家によって公式に承認されています。

近年のDNA調査は、カンボジア人の遺伝的起源について、どのような見解を示しているのでしょうか。

確認は、最終稿に譲りたいと思います。