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8世紀の中国・雲南地方に存在した南詔とは?【タイ族、ラオ族、ビルマ族の故郷】

今日、自国の多数派を占めるタイ族、ビルマ族は、ともに雲南地方から東南アジアへ移住してきた部族です。
この「南詔」とは、どのような歴史を歩んだ王朝だったのでしょうか?

南詔(737~902)とは?

南詔とは、8世紀に、中国南部の雲南地方(中国本土とインドシナ半島の境目に位置する地域)に成立した国です。
2つの地域に隣接するこの地域は、多民族、多言語の非常に「カオス」な環境でした。

文明の交接点に位置する地域。複数の民族による部族連合だったと考えられている。

この国の内情については、他国の史書を通して知る他ありません。
そのため、多分にナショナリズムが介入し、議論は錯綜しがちです。

南詔の民族系統については、学者によって見方が異なります。
中華系の歴史家は、3~4世紀に中国本土の騒乱から逃れてきたペー族を支配民族と見なしがちです。
一方、非中華系の歴史家は、のちに東南アジアへ南下するビルマ族やタイ族を支配階級と見なす傾向があります。

食習慣は農耕、牧畜が基本。
のちにタイ族やビルマ族がインドシナ半島で発揮する優れた農耕技術も、雲南で培った技術でした。

南詔の宗教は、タントラ仏教(後期密教)との関わりが強く、観音菩薩やマハーカーラ(シヴァの化身。仏教における大黒天のルーツ)の信仰は、中国仏教とは特色を異にしています。

南詔の成立

南詔が成立した雲南地方は、古くからインドと中国を結ぶ重要な地域でした。
両大国間の貿易ルートが通過する雲南へは、中国皇帝の命令によって、古くから道路が整備されていました。
しかし、漢人が勢力を定着させるには至りません。
なぜなら、南詔はインドへ至る貿易ルートのみならず、山岳地帯特有の険阻さ、そして紅河、長江、メコン川の水系が集まる肥沃さを備えていたからです。
さらに中国本土から離れた地の利も加わり、雲南を直接統治に置くのは、至難の技だったのです。

中国の史書によると、紀元前3世紀、楚王朝の支配が及んだことで雲南の中国化が開始されました。
それまで、雲南の地には、滇(Dian)と呼ばれる非中華系の民族(タイ族との関連性に言及する人類学者もいる)が居住していました。楚王朝が秦の始皇帝によって脅かされると、前279年に楚王朝のZhuang Qiaoという武将が滇王国として独立し、中国移民を呼び込み、雲南の中国化に先鞭を付けます。

その後、秦の始皇帝の統一(紀元前221年)、前漢の武帝による統一(前109年)といった契機ごとに、道路の整備、行政区の設置などを通して中国化が進展していきます。

前漢の武帝は益州を設置し、中国雲南省最大の湖・滇池に司令部を設けました。
それ以外の区を「雲南」と呼んだことを以って、初めて「雲南」の名称が歴史に登場したと考えられています。
また、始皇帝が築いた道路も、貿易のためにインド方面へ拡張され、「西南夷道(東南部の野蛮国へ至る道)」に改名されました。

漢帝国の分裂後は、雲南も独立を掲げますが、225年に蜀の諸葛亮孔明の攻撃を受けて降伏しています。
この頃から、爨族(Cuan)の移住が開始したと考えられており、4世紀、中国本土が遊牧民によって荒廃すると移住が加速し、320年代には雲南の支配権を握ります。

その後7世紀までおよそ4世紀の間、独立勢力としての爨族(Cuan)の支配が続きます。

ところが、爨族が隋王朝に対して反乱を起こしたため、602年に報復を受けて滅亡。
爨族は2つの部族に分割され、そのうち白族は、肥沃な洱海周辺に居住し、6つの王国を築きました。
これが南詔の前身である「六詔」です。(蒙舍、蒙嶲、浪穹、邆賧、施浪、越析)


この雲南に割拠した6つの王国(詔)は、雲南の統一を巡り、互いに争います。

そんな中、雲南を手に入れたい唐王朝は、この騒乱を利用することを画策。
蒙舍(六詔のうち最南部)の王・皮羅閣を支援し、衛星国の創出を企てます。

皮羅閣は、唐の後押しを受けながら六詔を平定し、雲南統一を達成します。
738年には、唐王朝から「雲南王」に封じられ、今日の大理から近いTaiheに都を築きます。
こうして創始された王朝が「南詔」です。

唐、吐蕃との関係

当初は、六詔の統一を快く認めていた唐。
しかし、予想外の展開が起こります。
南詔が、六詔統一の勢いのまま、北西地方に版図を広げ始めたのです。
この南詔の勢力拡大は、唐と領土紛争を巻き起こし、両国の関係は悪化。

唐は、雲南に県(姚州)を設置し、間接統治することで、南詔の自治力縮減を企図しました。
750年、これを受けた南詔王・閣羅鳳は、唐が設置した県(姚州)を攻撃し、唐から派遣されていた長官を処刑します。

さらに唐との国境付近にまで軍を差し向け、唐との君臣関係の終了(独立)を宣言。
同時に、唐の報復に備えるため、唐と争っていたチベットの吐蕃と同盟を締結します。(吐蕃が兄、南詔が弟)

南詔の予想通り、751年に唐から8万の漢軍が雲南に押し寄せます。
しかし、南詔・吐蕃連合軍は、撃退に成功。
754年には、再び10万の漢軍が送られるも、再び返り討ちにします。

折しもこの頃、唐で安史の乱(755~763年)が発生します。
内乱鎮圧に苦しむ唐は、南方の雲南地方に手が回りません。
おまけに唐の軍隊は中国北東部に派遣され、地方の防備に弱体が生じます。
これに乗じて、南詔は更なる勢力拡大を決行。
中国北部に軍を進め、現代の四川省と貴州省の地域をえぐり取ります。

赤 : 雲南、青上 : 四川、青下 : 貴州

しかし、安史の乱は763年に鎮圧され、787年には、唐が勢力を持ち直します。
すると混乱から回復した唐は、南詔に奪われた地域に攻撃を加えます。

そして、南詔も反撃として・・・という展開を予想するところですが、南詔は唐と手を結ぶ道を選択しました。
794年には、唐との国交回復に転じ、今度は吐蕃との同盟を破棄に持ち込みます。

この急激な外交政策の転換には、次のような背景が考えられます。

・吐蕃から下される従軍命令(対ウイグル戦)は、南詔の軍力を疲弊させ、反感を買っていた。
・唐が主敵である吐蕃を破るために南詔を味方に引きれようとしていた。

国交を回復した唐から改めて「南詔王」の称号が与えられると、801年には、唐・南詔連合軍で吐蕃を撃破。

しかし、南詔と唐の友好もつかの間でした。

安史の乱による唐の弱体を見抜くと、南詔はすぐさま攻勢に転じ、唐に攻撃を仕掛けます。
829年には、商業都市・成都を略奪。
その勢いのまま、830年代に近隣の国々を攻撃し、東部で崑崙、南部でNuwangを征服。

さらに東部では、当時まだ中国領だったベトナム地域に攻撃を加え、846年に安南都護府を襲撃。
859年に唐の宣宗が死亡すると、侮辱を含んだ追悼文を送り、トンキン(北ベトナム)に攻撃を加えます。
これにより唐との同盟関係も終了。
863年には、安南都護府を陥落させ、3年間統治しています。


滅亡と雲南のその後

9世紀中頃から、アジアの勢力図が大きく入れ替わります。(日本は平安時代中期。竹取物語や伊勢物語が成立し、菅原道真が遣唐使を廃止するなどしていた時期)

唐(中国本土)
黄巣の乱の鎮圧で活躍した朱全忠に帝位を奪われ907年に滅亡。五代十国時代へ。
吐蕃(中国南部〜中央アジア)
弱体した唐(751年のタラス河畔の戦いの敗北、763年まで続く安禄山の乱)に入れ替わる形で中央アジア最大の勢力となっていたが、後継者争いで分裂。842年に滅亡。
ウイグル(シルクロード)
王朝内の分裂がキルギスの侵略を招き、840年に滅亡

南詔もまた、滅亡を免れることはできませんでした。

9世紀後半には、唐王朝の弱体に乗じて占領した四川と貴州の放棄を余儀なくされます。(それぞれ873年と877年)

さらに、宮廷内での華人官僚の台頭が顕著となり、南詔の王族を脅かします。
897年に南詔王が漢人によって暗殺される事件が起きると、902年には漢人権臣・鄭買嗣がクーデターを起こし、王を含む南詔王室800人を虐殺。
これにより、南詔王室は断絶を迎えます。

南詔を引き継いだ鄭買嗣は、国名を中国式の大長和に改名しますが、この鄭家も短命で終焉。937年まで短命の王朝が2つ続きます。

結局、937年にチベット・ビルマ系(今日のペー族)の段思平が大理を創始したことで、ようやく雲南の安定が実現しました。
当然ながら大理朝もクーデターに直面しましたが、鎮圧に成功し、段氏政権の維持に成功しています。
唐の後を継いだ宋王朝とも主君の関係を結び、ビルマやベトナムとも通商関係を結んで万全に備えます。

ところが13世紀、中国支配を目指すモンゴル勢力が押し寄せると、1253年にはこれに服従。
段氏政権は、土司(中国王朝が異民族に与える行政資格)としての存続を目指しますが、元朝のフゲチが統治者に据えられ、大理王朝の断絶を余儀なくされます。

こうして成立した元朝も明の成立(1368年)によって中国を追われ、1390年に明王朝が雲南を解放すると、雲南は中国王朝に併合されました。
以降、独立王朝としての雲南の歴史は幕を閉じ、中華帝国の地方に組み込まれることになります。

東南アジア地域への拡大


南詔の領土拡大の矛先は、唐へ向かう北部地方だけでなく、南部へも向かいました。

唐への対抗のために対チベット同盟を確立した2代目の王・閣羅鳳は、さらに西方の地域から支持を得るため、途上のビルマを抑えることを画策します。
これにはインドへ至る貿易ルート確保の目論見もあり、754年頃から南方のビルマへ進軍を開始。
南詔の尖兵には、傘下のビルマ族があてがわれ、763年にはイラワディー川上流部の征服に成功します。
その後、800-802年、808-809年に遠征が実施され、遠征が行われる度に、ビルマ族のコロニーが拡大していきます。
832年には、ビルマを支配していたピュー族の中心都市ハリンを侵略し、捕虜3,000名を連れ去りました。


雲南を出発した民族

タイ系民族のタイ族、ラオ族、シャン族、およびビルマ族は、全て雲南に発祥を持つ民族です。
今日インドシナ半島の多数派を占める民族(タイ族、ラオ族、ビルマ族およびその系譜)は、東南アジア先住の民族(ピュー族、モン族、ラワ族、クメール族など)に対して優位を勝ち取り現地に根付きました。
同時に、インド化した先住民族との同化を通して、今日まで続く文化概念が形成されます。

南下ルートには、雲南からインドシナへ抜けるメコン川が用いられました。
南詔時代の農耕を継承したため、水の豊かなメコン川の水系付近に、小規模の都市国家(ムアン)が築かれることになります。
南詔で培った優れた農耕技術は、先住民族を上回る速度で、ムアンの人口を倍増させます。
やがて小規模のムアンを統一する勢力が現れ、先住の支配民族を駆逐(同時に同化)することで、現地の支配権を掌握していったのです。

東南アジア進出の年代は、タイ族とビルマ族で若干異なります。

タイ族の進出は、7世紀まで遡ります。一方、ビルマ族は8世紀です。

638年、タイ北部のチェーンセーン(今日のチェンマイ)にて、タイ族のムアン・ヒランが、クメール族のラヴォ王国(クメール帝国の衛星国。当時のインドシナ西部の支配王朝)から地方領主を任された形跡が確認できます。
これは南詔成立のほぼ100年前であり、タイ族のインドシナ進出は、南詔成立以前から開始されていたことを示唆しています。
長大なメコン川を渡り、水流付近の小都市(ムアン)で数を増やしたタイ族は、ラヴォ王国の軍事傭兵として役目を果たしつつ、徐々に台頭していきました。
このムアン・ヒランはやがてグンヤーン王国としてラヴォ王国から独立し、今日のチェンマイの土台を形成するラーンナー王朝へと発展していきます。

タイ族の移住は、南詔の滅亡、モンゴルの征服といった契機ごとに加速し、13世紀のスコータイ朝、ラーンナー王国、そして14世紀のアユタヤ朝の成立に至ります。
1453年には、アユタヤ朝がクメール朝の首都アンコールを陥落させ、インドシナ最大の勢力に座に登りつめることになります。
またタイ地方だけでなく、ラオス、ビルマやベトナムへも移住を進め、シャン族(ビルマ東部シャン州)、ラオ族(タイ族から自立)、ベトナム(少数派の黒・白・赤タイ族)を形成しました。

一方、ビルマ族は、8世紀の南詔のビルマ攻撃以降に移住を開始したものと見られています。

それまで、ビルマの地は、中心都市ハリンを中心にピュー族が支配していました。

ビルマ王統史では、832年のビルマ族の攻撃によってハリンは壊滅し、無人地帯となったピュー族の都市国家に置き代わる形で、849年に城壁都市パガンが成立したという見解がなされています。
しかし、現代の放射性炭素年代測定の結果、パガンで発掘された最古の遺構(城壁)は980年という年代を示しました。
これはパガン朝の創始者アノーヤターの即位から64年前の年代です。
同様に、放射性炭素年代測定は、870年代までハリンに人々が居住していた形跡を示唆しています。

これらの証拠は、ビルマ族の台頭がそれほど急激ではなかったことを示しています。
おそらくは、イラワディー川上流を中心に、3世紀に渡って徐々に勢力を広げ、1044年の統一勢力(パガン朝)の成立に至ったのでしょう。

その後、ビルマ族のパガン朝は、モンゴルと通じたタイ族系のシャン族によってビルマ統一を破られるも、16世紀に再びポルトガルの援助を受けながら、ビルマ族の力によってビルマ分裂期を収拾することに成功しています。(タウングー朝)


その後、同じ雲南からインドシナ半島へ辿り着いたタイ族とビルマ族は、インドシナの覇権を巡って互いに衝突を重ねることになります。
16世紀以降、約20度の泰緬戦争が行われており、英仏の帝国主義が訪れる19世紀まで、この「戦国時代」が止むことがありませんでした。


タイ・ビルマ族が、先住民族(ピュー、モン、クメール)に置き換わる過程で進んだ同化は、中国南部と先住民のインド的要素を融合させ、東南アジア独自の文化を誕生させました。
本土では中国に同化された雲南の民族と文化は、インドシナへ渡り、独自の変容を遂げながら今日に存続しています。