Ossan's Oblige "オッサンズ・オブリージュ"

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

MacBookAirの水濡れ後にとるべき4手順【3回壊した男が語る】

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水濡れはPCの天敵です。
水濡れ後の対処によって、故障を防げるどうかが変わってきます。

今回ご紹介する方法は、筆者個人が4年間で3度の水濡れ破損を起こした中で獲得していった対処スキルに基づいています。

素人の浅知恵ながら40万円程度の痛みを伴った知恵ですので、少なからずお役に立てるかと存じます。


1 筆者のMacBookAir故障歴をさらっと紹介

1-3 具体的な破損履歴

1回目(大破)
「MacBookAirの水濡れ=危険」という認識すらなく、スマホのような防水機能を期待して大破。
水濡れ直後から充電ケーブルを抜くこともなく、無事買い替え。
2回目(バッテリー破損)
インターネットで見つけた対処法を実践。
大破は防げたが、バッテリーの蓄電機能が故障。
「ネットで紹介されているよりもいい方法があるのではないか?」と違和感を持つ。
3回目(キーボード、マウス異常)
再びネットの対象法を実践。対処が早かったせいか正常に起動するものの、キーボード、マウスを認識しなくなる。ここで独自の対処法が形になる。

2 水濡れでMacの動作に不備が出る原因

2-1 水濡れ故障の原因は2つ

MacBookAirの水濡れ故障の原因は2つ。
「電子回路のショート」と「部品の腐食」が考えられます。

水濡れ故障の原因1電子回路のショート
2部品の腐食(サビ)


2-2 金属部品の腐食と電子回路のショートが起こる原因

水は、金属部品の大敵です。

水は電気抵抗が低いので、浸水した電化製品は、電気が流れやすい状態になります。

そうした状態でコンセントをつないだままにすると、機械の内部に機体が耐えることのできない量の電流が流れてしまい、電子回路がショートしてしまう危険性が生じます。

もちろん、PCには一定の電流量を超えると強制停止するブレーカが内蔵されていますが、念のため、浸水した後はコンセントを抜いた方が賢明です。

また、水と部品を構成する金属が酸化還元反応を起こすことで、サビが発生します。

錆びて変質してしまった金属は、元のような金属的性質を保つことができなくなります。

この金属の変性が機能が問題を引き起こす原因の1つです。

特に注意したいのが、腐食は時間をかけて進行していくことです。

水濡れから数日後に見た目上の機能は復旧できても、水濡れ直後に対応していないと、水面下でパーツの腐食が進行していくことになりかねません。

この場合、症状は日を追って深刻度を増すことになるので、ある日、突然動かなくなって頭を抱えることになるでしょう。

3 MacBookAirの水濡れ故障時に取るべき行動

以下は、水濡れの程度が比較的軽微な状態での対処法です。

水濡れの程度が酷く、素人処置では対応しきれないと判断した場合は、迅速に修理業者に相談することが大事です。

3-1 水濡れ後に取るべき対処は、故障原因として述べた上記2つの原因を塞ぐことです。

故障原因に応じて以下2つを実行してください。
1「通電の停止」
2「PC内部に入り込んだ水分の除去」

故障原因である2つを塞ぐことが、被害を最小限に留める秘訣です。


3-2 通電の停止、内部に入り込んだ水分を熱を伴わない乾燥で取り除く

まず最初に、通電を完全に停止します。
一応、電流量の閾値を超えた時点で内臓のブレーカーがかかり電源が落ちるのですが、電流の流れる余地をなくしておきましょう。

次に、PC内部に入り込んだ水分の除去を行います。
たしかに、放置しておいても、ある程度自然乾燥した段階で起動させることは可能です。
しかし、それでは不十分です。
なぜなら、腐食は時間をかけて進行するため、水濡れ後すぐに水気を除去しなければ、症状が日ごとに悪化していくのです。
これを防ぐために、よく「ドライヤーの熱気で乾かす」といった方法がまことしやかに伝えられていますが、これは正しくありません。
なぜなら、熱によって機械パーツが変性したり、PC内部に蒸気が溢れることで、水の付着する領域が広がり、被害の拡大を招きかねないからです。
水気の除去は、適切な方法で行う必要があります。

よくあるのが、水濡れ後から数日で起動できる状態まで復帰しても、その後特定の機能が完全に停止してしまうパターンです。
これは、水と金属の酸化還元反応が時間をかけて進行していくことに由来しています。

水濡れ後に完全放置してしまった場合は、ある日突然使用できなくなることを覚悟しましょう。
風通しの悪いPC内部の水が、放置したままで除去できるはずもなく、残留した水は確実に腐食を進行させていきます。

したがって、水濡れを起こした後は、必ず人為的な処置を施さなければなりません。
一番大切なのは、「内部の水分を取り除くこと」です。
そして、熱気では逆効果になりかねないので、熱気を伴わない温度で湿度を下げるという方向性で臨みましょう。

3-3 MacBookAirの水濡れ後にとるべき適切な処置法

具体的には、以下の4つの手順を実行してください。本体をすぐに水源から離す。本体に付着した水を除去し、それ以上の浸水を阻止する
水濡れを最小限に留める
コンセントを抜いて電源を切る
通電を止める
本体を逆さにする
内部に入り込んだ水分を落とし、内部へ侵食しないようにする
扇風機やドライヤーの冷気、エアコンの乾燥モードなどの風が当たる状態を1時間以上キープ
PC内部を乾かす

水濡れの程度に比例して故障リスクは上昇します。すぐに本体を水源から離してください。
コンセントを抜き、PCの電源を落としてください。水濡れ状態のPC本体への電流を完全に遮断します。起動テストを行いたくなるものですが、なるべく3日は電源を停止したままにしましょう。
本体を逆さにしてください。内部に入り込んだ水を落とすために、水が抜けやすい態勢を作ります。
本体を30分〜1時間ほど、扇風機の冷気やエアコンの常温以下の乾燥風にかざしてください。ただし、熱気はNGです。またPCを保管している部屋の湿度を下げることも乾燥までの時間を短縮できるので有効でしょう。


4 MacBookAirが水濡れしても諦めないで

MacBookAirは、スマホのような防水機能を持ちません。
繊細な精密機械ですので、水濡れが生じた後は、何らかの機能異常を覚悟しましょう。

水濡れ後に想定される機能障害バッテリーの異常
充電を認識しなくなる。充電ランプが点灯していても一度ケーブルを抜いたら再接続しても電池を使い切るまで充電を認識しなくなる
本体付属のキーボード、トラックパットの認識不可
突然、本体付属の操作端末が操作を認識しなくなる。時間が経てば動いてくれることもあるがすぐに動かなくなり、徐々に操作できない状態に陥るまでのインターバルが短くなっていき、最終的には完全に機能停止に陥る。


ただし、こうした被害は、適切な処置を行うことで発生率を下げることができます。
機械内部に入り込む水が深刻な問題を起こす原因なので、これを除去すれば、被害は軽減できます。

そのためにとるべき行動が、第3項に述べた4つの手順です。

水濡れ後は速やかに上記手順を実行し、本体内部に入り込んだ水を排除してください。

確かに水濡れの程度が酷い場合は、迅速に修理業者に相談して、状況を判断してもらう必要があるでしょう。

しかし、水濡れの程度が比較的軽微な場合は、部分的に使用できない機能が出てきても、「買い替えor修理」という2択思考に陥らないようにしてください。

MacBookAirが水濡れしたからといって、必ず修理に出したり、買い換えたりしなければいけないというわけではありません。

問題を起こした部品(バッテリーなど)の選択的交換で問題が解決することもあります。
また部品が破損したままでも、キーボードやトラックパッドの操作異常に対しては、1万円以内の費用で買い替えを回避できる可能性があります。

「絶対に修理業者に行け」と言うのは修理業者のポジショントークくらいなので、適切に対処して、なるべく自己リカバリーを目指しましょう。

業者を使わないでMacBookAirの水濡れ故障を直した話【10万円以上得した】

※本記事で紹介する手法は、あくまで個人的な成功談であり、それが普遍性を持つかどうかは、個人の状況と判断にゆだねられます。
本記事の方法の運用に関して、筆者は一切の責任を負いません。
あくまで回復のメカニズムまで記した成功談であることを注意しておきます。

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「MacBookAirの水濡れ後、キーボードとトラックパッド(タッチパネル)が正常に動作しなくなった。
水濡れ故障は回復の見込みがないらしいから買い換えようかな?」

上記のような状態にある方は一旦立ち止まってください。

10万円以上の出費が必要なMacBookAirの再購入を避けながら、5,000円ほどの支出で問題を解決できるかもしれません。
実際に私は、5,000円以内の金額で、MacBookAirの水濡れ故障の克服に成功しています。

1 状況の確認(水濡れ後の状況把握)

1-1 水濡れ後の操作不良は、水を浴びた内部の金属パーツが腐食を起こしている可能性が高い

水濡れの後にキーボードやマウスに異常が生じた場合、それは内部の金属パーツが腐食してしまった可能性が高いです。

1-2 内部の伝達経路に不備が生じているということだから。

末端の入力装置からロジックボードへ信号が送られていく中で、正常に伝達を行えない部分が生じているからです。

浸水した後にディスプレイに明かりが灯るのであれば、ロジックボードやハードディスクは無事だということです。

キーボードやトラックパッドなどの入力装置を統御する部分、あるいは入力装置とロジックボードを接続する部分に異常が起きている状態です。

1-3. 修理は高い。最も手っ取り早いのは買い直すこと。

問題の起きた部分を特定することは素人には困難です。

したがって、正攻法で内部パーツが腐食してしまったMacBookAirを直すとなると、専門業者に頼るしかありません。

しかしそうなると費用に工賃が加わってくるので、買い直すのとそう変わらない金額を請求されてしまうようです。

したがって、最も手っ取り早いのは買い直すことです。

私が克服した方法でも、再び入力は行えるようにはなれど、使いやすさの面で本来のMacBookAirよりも劣化してしまいます。

作業パフォーマンスを大事にする方は、買い直しが最も手っ取り早いかもしれません。


2 水濡れ破損したMacBoocAirを復旧させる方法

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2-1 USB接続で外付けのキーボードとマウスを使おう。

結論から言うと、外付けの入力装置でカバーできるかもしれません。
詳しく言うなら、外付けのキーボードとマウスです。

MacBookAirの内部パーツが腐食してしまった場合、業者に頼んで取り換える以外に復活させる手立てはありません。

でも、それでよいのです。

無理にダメになった部分を直さなくとも、入力装置を復活させる手段は残されています。

自分も内蔵キーボードとトラックパッドは動かないままです。

それでも、再び入力を行える状態を取り戻すことはできました。

方法は単純で、外付けの入力端末をUSB接続で繋げただけです。

2-2 USB接続でスマホを接続して認識するなら、USB経由で回復できる可能性がある

USB接続の入力装置で復帰させることができるかを測る目安を紹介します。

PCの各インターフェイスから入力された信号は、それぞれの経路を通ってロジックボードまで伝達されます。

ここで注意したいのが、内蔵キーボードやトラックパッドから送られる信号と、USB接続で伝えられる信号経路は別だということです。

内蔵キーボードやトラックパッドからの入力が認識されないということは、その経路が死んでいるということです。

よみがえらせるには、お金を払って専門業者の助けを借りるしかありません。

しかし、USB接続の経路が生きているのであれば、この経路を使って復帰させる可能性が残されています。

USB接続の生死の確認は、MacBookAirとスマホをUSBで接続して認識されるか試してください。

ここでスマホの端っこに赤いランプが灯った場合は、USB接続の経路が生きているということです。

そうであれば、USB接続の経路から、外付けのキーボードやマウスの信号をロジックボードに認識させられる可能性が高いということです。


2-3 オススメのキーボード

私のケースでは、ヤマダ電機の店頭にWindows式の汎用キーボードしか置かれていなかったので、やむなくその場で購入しました。(3,500円ほど)
接続後に操作が認識された時は、筆舌に尽くしがたいほどの感動を覚えたものです。

とはいうものの、実際に使ってみると、Windows式のタイプ配列に苦戦。
購入して1ヶ月経過した今でも使いこなせずにいます。
タイプミスは当たり前。
入力時に消したくないところを消してしまったり、ショートカットキーの使いにくさなど、はっきりいってストレスフルです。

そうしたキーボード関連のストレスを感じたくないという人は、Mac式のキー配列を備えたキーボードを購入しましょう。
ヤマダ電機で販売されているWindows式の汎用キーボードと比べても、のキーボードなら価格的に大差ありません。

マウスに関しては、windowsとMacで差はないのでヤマダ電機で購入で良いと思います。
1,000円程度で使い勝手の良いマウスを手に入れることができます。
まとめて購入したいという方はからどうぞ。

安くて手のフィット感が良いエレコムの有線マウス


3 水濡れでキーボードとマウスが動かなくなってもすぐに諦めないで

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3-1 水濡れで部分的に機能異常が起きても外付け端末で補える可能性を考えて

実際に故障に直面すると「故障=修理or買い替え」といった思考に嵌りやすいと思います。
しかし実際は、「外付け端末」という方法でコストフルな解決策を回避できるかもしれません。

MacBookAirの買い替え(再安価 10万円)
Apple修理センターでの修理(6万円程度)
部品交換(1.5万円弱〜)

こうした解決策はいずれもハイコストです。

しかし、外付け端末の購入なら、1万円以内(合計7,000円ほど)の費用で回復することができるので、まず最初に検討すべき方法だと思います。

デメリットがあるとすれば、端末がかさみ持ち運びが少々面倒くさくなる点です。
しかし、買い直した場合に生じる損失を7000円程度で補填できる経済メリットを考えれば、絶対的にお得でしょう。


3-2 ネット上の情報は誘導目的の業者の情報であることも

インターネットでPC破損時の修理方法を調べると、業者さんのウェブサイトが上位表示されると思います。
これは基本的に、鵜呑みにしてはいけません。
例えば、よく「キーボード破損は直らない」と書いてありますが、業者さんの目的は閲覧者に自社サービスを利用させることです。
お客さんの側で自己解決されては潜在顧客が減るだけなので、「USB接続で外付け端末を繋げる」という回避策を知っていても、あえて教えるような真似はしないのです。

3-3 まずは手持ちのスマホをUSB接続

もちろん、水濡れの程度によって、修復可能性は上下します。
致命的な場合は、USB認識すらままならないかもしれません。
ですから、水濡れ故障に直面した場合は、まず手持ちのスマホをUSB接続して認識してくれるか確認してください。
もしUSB接続が生きているなら、外付け端末を使って故障した機能を補える可能性が高いです。

USB接続の経路が生きていたら外付け端末を購入

USB認識が問題ない様でしたら、外付けのキーボードとマウスの購入に進んでください。
本当に復帰できるか心配という方は、電化製品屋さんの修理コーナーで状況を説明した上、キーボードとマウスを借りて接続テストを行うと良いと思います。
ただし、ヤマダ電機などの電化製品屋だと、Mac製品と同じ配列のキーボードを販売していないことが多いので、MacBookAirと同じ配列のキーボードを希望する方は、Amazonから購入しましょう。

Macの配列を備えたキーボードにマウスを含め、合計7,000円程度で購入できるので、買い換えた場合に比べると10万円程度お得です。

私の場合、回復を急いでいたこともあり、ヤマダ電機で接続テストを行って接続できた勢いで、店頭販売のWindows式の汎用キーボードを購入してしまいました。
もちろん、回復できた喜びの方が大きいですが、キーボード配置や操作の違い、タップ音の煩わしさは正直ストレスフルで、購入から1ヶ月以上経過した現在も慣れません。
これさえなれば、「完全復帰!」といって差し支えなかったで、若干の心残りです。

問題なければ、AmazonからMac式の配置を備えた外付けキーボードを購入しましょう。

「マンダラ理論」を知れば、東南アジアが分かる?【東南アジアの国家理論の原型】

歴史には、地域特有の統治形式を表す概念が登場します。
例えば、ヨーロッパ中世の封建制度、中国の朝貢外交は、文明圏の性格や地政学的条件を反映した伝統的な統治方式です。

では、東南アジア地域における統治様式は、上記2パターンのどちらかで説明が効くでしょうか?
20世紀の歴史学者は「No」と考えました。
東南アジアにも、他の文化圏とは相容れない独特の統治方式(秩序の保ち方)が存在します。


歴史を知ることは、現在を見る目を養ってくれます。

日本の歴史を見ても、「御恩と奉公」と呼ばれる統治者と家来の間の主従関係が確認でき、その影響は現代の日本社会から失われていないことが分かります。

東南アジア史においても、歴史の中に共通して現れてきた統治のパターンについて知ることは、今日の東南アジア理解に重要なヒントを与えてくれるはずです。

東南アジア社会の「秩序の保ち方」には、いったいどのような特徴が認められるのでしょうか?


1. マンダラ理論とは

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「マンダラ理論」の発見

ヨーロッパの東南アジア研究が開始されたのは19世紀。
1858年にイギリス領インドの成立を完了させたイギリスは、視線を中国大陸に移し、中国の植民地化に着手します。
イギリスのライバルであるフランスも、慌てて1858年にインドシナへ出兵。
ベトナムのサイゴンに橋頭保を築き、フランス領であるインドシナを挟み込む形で、イギリス領のインドと中国の成立を迎えます。(中国は列強により分割)

この時期から、東南アジア史の研究がヨーロッパ人の関心として浮上することになります。

1860年には、フランス人のアンリ・ムーオがカンボジアのアンコール・ワットの壮麗を西洋に伝えます。

1918年には、フランス人のジョルジュ・セデスが碑文研究により「シュリーヴィジャヤ王国」を発見。

今日でこそ世界史に頻繁に登場する古代王国の存在も、フランス人研究者によって再発見されるまで、現地民からは完全に忘れ去られていたようです。

そして、東南アジアに関する研究がおおかた出揃った1982年、イギリスのオリバー・ウィリアム・ウォルターズが東南アジアの歴史について次のように総括します。

「諸々の記録から再現される古代東南アジアの国々は、古い時代に築かれた居留地のつなぎ合わせであり、しばしば互いの領土を重ねあったマンダラの形をしている。」

ウォルターズは、東南アジアの各所に点在する権力の中心から放射状に伸びる勢力圏が、しばしば互いに重なり合っていることを指摘したのです。

ヨーロッパや中国においては、権力の中心への都市の忠誠は常に一意です。

ある権力が同時に複数の権力の中心に忠誠を誓うことはありえず、もし行ったなら離反と見なされ討伐軍が派遣されます。

一方、東南アジアの権力構造は重複的で、都市の忠誠は単一の権力に制限されません。

さらには、ある権力に忠誠を誓っていた都市が占領を介さずして離反し忠誠の対象を別の権力に移す

といったことが頻繁に確認できるというのです。

ウォルターズの見解は同時代の学者の支持を受け、ヨーロッパの「封建制度」、中国の「朝貢制度」と並ぶ東南アジア特有の統治方式として「マンダラ理論」にお墨付きが与えられます。

「マンダラ理論」の概要

「マンダラ(曼荼羅)」は、サンスクリッド語で「円」を意味する言葉です。

仏教(ヒンドゥー教)では、真理に至るまでに通るべき筋道を模式的に表した図として用いられ、中心の真理を、同じように中心を持った複数の周辺がとり囲む構造をなしています。
身近な例では大谷翔平選手が習慣化してきたマンダラ表もこの類といえるでしょう。

この仏教(ヒンドゥー教)の世界観を、イギリスのオリバー・ウィリアム・ウォルターズが東南アジアの王国の権力構造の中に見出したことによって誕生したのが「マンダラ理論」です。

代表的な「マンダラ(権力の中心地)」は、古くは8〜11世紀のシュリーヴィジャヤ王国(スマトラ、ジャワから海上支配を確立)、11〜13世紀におけるカンボジアのクメール帝国、14世紀以降のタイにおけるアユタヤ王朝などが挙げられます。


マンダラ理論と他の統治理論との相容れない点

中世ヨーロッパの封建制度

マンダラ理論の権力構造は、中世ヨーロッパの封建制度における権力のような絶対性を持ちません。

中世ヨーロッパの封建制度は、次のような特徴を持ちます。

1領土線によって確定される勢力図
2都市の自治権の放棄、権力による内政干渉の容認
3主従関係の排他性(一度ある領主と結んだら他の領主と結ぶことは離反とみなされる)

ヨーロッパの権力構造において、権力の勢力圏は明確な領土線によって他と区別されます。

権力の内部でも、都市の統治には自治が認められず、中央が認可する諸侯(王族や国家成立時に大きな貢献した人物の一族)に任せられます。

かといって諸侯の統治も自由ではなく、王からの内政干渉に従わなければならない義務を負っていました。

そうした厳格性を伴う組織体では、当然、別の王に忠誠を誓うことなど認められません。

こうした義務を破った場合は、離反とみなされ、反乱軍を討つべく中央から追討軍が派遣されます。


いっぽう、東南アジアのマンダラ理論では、封建制度に比べて格段に「緩い」主従関係を基盤に持ちます。

都市には自治権が認められ、どの権力に忠誠を誓うかの決定権だけでなく、同時に複数の権力を忠誠の対象とすることも認められます。

中央権力との結びつきは、いつ離れてもおかしくないほどの脆弱です。

したがって、基本的には内政干渉も認められず、都市の自治にゆだねられます。

では、戦争のときはどうするか?というと、

仮に戦争の主体が忠誠を誓う都市同士であった場合は、自らの利益にもっとも叶う側をサポートしていたようです。

以上のように、ヨーロッパの厳格な封建制度から見ると、国家すら成立していないと思えるほどの「緩さ」を持つのが、マンダラ理論に基づく権力構造の特徴といえます。

中国皇帝による朝貢システム

中国の国内統治もヨーロッパのような厳格な統治システムを持ちます。
(違いがあるとすれば、科挙による能力重視の人材登用のため皇帝との血縁の繋がりが希薄で、都市の忠誠の維持が困難だった。)


中国の朝貢システム(国内統治ではなく外交方針)は、次のような特徴を持ちます。

1 主従関係ではなく、Win-Win関係に基づく形式的な上下関係
2主従関係ですらないので、内政干渉を行う権利はない


アジアを舞台とする中国の朝貢システムは、非中華圏の地域に「中国皇帝を中心とするアジア秩序」を認めさせるための外交方針です。

中国皇帝を中心とする世界秩序を保つために、周辺諸国から献上された貢物(朝貢)に対する数倍の返礼を行い、利益を与えることで異文明の王による侵攻を鎮静化させたのです。

周辺国にとっては、中国に豊かな中華帝国が君臨する限り、経済的なメリットの大きい朝貢貿易の恩恵を享受できます。

中国皇帝にとっては、貢物と返礼のやり取りを介すことで、軍事侵攻が及ばない地域との間にも、形式的な上限関係を作ることができます。

朝貢貿易が成立した時点で「家臣国家」として妥協が図られるので、中国皇帝は相手国にそれ以上の干渉を行いません。

当然ながら朝貢相手の国に向けて内政干渉を行う権利もありません。

このように中国皇帝を頂点とする朝貢システムは、アジア地域の紛争回避手段として機能し、中国皇帝による形式的なアジア覇権に実態を与えてきたのです。


近代化以前の統治システムは、今日の国民性に影響を与えている

これらは、地域特有の情勢や宗教などの要因が複雑に錯綜して形成されたシステムです。
地域安定のために作られたこれら概念は、今日のヨーロッパ人の契約主義、中国人の何でも奢って形式的な上下関係を作ろうとする民族性などに如実に反映されているといえるでしょう。

東南アジアの「マンダラ理論」においても、地域の秩序安定のために形成された独特の手続きが存在します。

東南アジア特有の統治理論「マンダラ理論」の特徴

「マンダラ理論」の特徴は下のように要約できます。

マンダラ理論の特徴1国境線の希薄さ
2中心(王)の威厳によって決定される勢力図
3都市の自治権
4都市は、複数のマンダラと忠誠を結ぶことができる
4王の個人的魅力の重視

東南アジアの「マンダラ理論」と封建主義、朝貢システムには、一定の類似性が確認できます。
それは、中央と都市の主従関係をベースとする点です。

しかし、両者の結びつき方には、大きな隔たりが認められます。

忠誠の二重関係は当たり前

封建制度や朝貢システムは、都市が複数の王朝に忠誠を誓うことを認めません。
ある王朝に組み込まれた都市は行政の統合が行われ、王から都市へ命令(内政干渉)が下されます。
もし、配下の都市が他の王朝と結んだなら、それは離反であり、係争の原因となります。

一方、東南アジアの「マンダラ理論」においては、都市が複数の王朝(マンダラ)に忠誠を誓うことが許されます。

都市の忠誠を獲得したマンダラは、地方領主の任命権を得ることもありましたが、内政干渉は基本的にNGでした。
都市の自治権が大幅に認められ、マンダラと周囲の都市がゆるやかに結びつくフレクシブルな関係性が形成されました。
都市が自分のマンダラ以外と結んでも、それは普通のことだったのです。

都市の忠誠に排他性がない以上、国境線という考え方も希薄です。
王朝の勢力圏は、ヨーロッパや中国のような国境線ではなく、マンダラの中心から放射される威厳の程度によって図られました。
王朝の征服が行き届いた範囲(=国境)によって勢力図が調整されるのではなく、各マンダラの中心に位置する王(Divine King)の威厳の強さに比例して影響力の及ぶ範囲(都市の支持が下る)が確定します。
各マンダラの影響力は互いに重なり合うため、ヨーロッパのような国境の概念は適用されません。

マンダラと結ぶ都市側のメリット

あるマンダラに忠誠を誓う都市は、兵役の義務を負います。
出動命令が下りた時は従い、また定期的な貢物の義務も背負います。

それに対するリターンは、別のマンダラからの攻撃に対する保護が期待されることです。

そのため、周囲に係争中の複数のマンダラが存在する場合、国境地帯の都市は、両マンダラとの間に主従関係を結びました
これは、対立中のマンダラにとっても、お互いの勢力を牽制し衝突を防ぐという緩衝地帯としての利点があったのです。

このようにして複数のマンダラの影響力が重なり合うという、世界的に珍しい勢力図が形成されていきます。

Divine Kingに基づく王の個人的魅力の重要性

このマンダラ理論の成立背景を語る上で欠かすことができないのが、divine kingの概念です。
東南アジア(インドシナ半島)の王朝のモデルケースは、クメール帝国に求められます。
この王朝の統治理論が「Devaraja」という概念でした。
それ以来、東南アジアにおいて、王はインドの神(ヴィシュヌ、シヴァ)に等しい超越的な存在であり、王朝の権力を図る指標として扱われるようになります。
王が醸し出す神性に応じてマンダラの射程範囲は広がり、人々は王に服します。

クメール帝国のアンコールワットも、マンダラの概念モデルに基づいて設計され、クメール王の宇宙の統治を象徴しました。

しかし、戦争での敗北や日常的な言動によって、この「王=神」の観念が破られたり、王位を継承した後継者が前王の威厳を引き継げなかった場合、傘下の都市へ離反の大義が与えられました。

そのため、インドシナ半島の王朝は競って宗教建築に励み、今日の観光資源として残るような、壮大な寺院を残さなければならなかったのです。

歴史の中にマンダラの理論が確認できる事例

マンダラ理論の実践例は、東南アジアの歴史の中に以下のような事例に確認できます。

領土認識の曖昧さ

マンダラ理論の影響がよく分かる例として、各国の領土認識を挙げることができます。

東南アジア諸国の自国の領土認識を見ると、必ずと言っていいほど、インドシナ半島全域に及ぶような広大な勢力地図を示しています。
例えば、カンボジアならクメール帝国・黄金期時代の地図、タイならラーンナーコーシン朝時代の地図、ミャンマーならタウングー朝時代の地図といったように、覇権を達成した歴代の王朝の領土を持ち出してきます。

しかしこれは、あくまで都市からの忠誠を受けた範囲であり、ヨーロッパや中華圏が用いるような厳格な領土線ではありません。
ある都市はあるマンダラと結ぶ一方で、同時に別のマンダラとも主従関係を結びました。
東南アジアの王朝にモンゴル帝国に匹敵するような領土を持つ王朝が現れるのは、領土認識の曖昧さからきているのです。

王個人の魅力によって領土が決まる

タイ族初の王朝であるスコータイ朝は、第3代ラムカーヘン王の時代に最大領域を達成しました。
有能な王の魅力は都市の忠誠を引きつけ、勢力圏は短期のうちにマレー半島からラオス、カンボジア地方にまで伸びいきます。
しかし、有能なラムカーヘン王の後継者は、ラムカヘーン王に比べると「無能」でした。
前王の魅力を引き継げなかったため、都市の離反を招き、「もっと勢いのあった」新興のアユタヤ朝に吸収されていきます。
帝国は、王の魅力によって短期のうちに栄え、短期のうちに瓦解したのでした。

マンダラの勢力図は、王個人がいかに「Divine Kingに即しているか」という基準に準拠していたのです。

複数のマンダラに向かう忠誠関係

カンボジア王国の例

17世紀以降のカンボジア王国は、東西からシャム(タイ)とベトナムの二大勢力に挟まれ、双方に臣従を誓うことを強いられました。

この関係は、地域の勢力関係を曖昧なままにする一方、緩衝地帯として打ち続くシャムとベトナムの衝突を終焉させ、地域安定に役立ちました。

近世ラオスの例

現在ラオスがある地域には、かつて統一王朝・ラーンサーン王国(マンダラ)が存在していました。
しかし、18世紀に王国が3つの王国に分裂すると、それぞれの王国が周辺の強大なマンダラと結び、互いを牽制し合うようになります。
これもマンダラ理論の実践例です。

王と都市の個人的関係性の重視

王族同士の婚籍が、マンダラ同士の合同を引き起こします。
ヨーロッパでも、政略結婚はありふれた現象でした。
しかし、その目的は対立の解消であり、王族同士の結婚が起きたからといって、王国の統合が起こることはありません。

しかし、9世紀のシュリーヴィジャヤ王国の王女とシャイレンドラ朝の王子の結婚では、シュリーヴィジャヤ王国とシャイレンドラ朝の合同が起こり、以降シュリーヴィジャヤ王国の中心は、スマトラ島からシャイレンドラ朝のジャワ島へ移ることになります。

マンダラ理論の終わり

この地域特有のマンダラ理論も、19世紀中盤に西洋人が到来すると同時に終焉を迎え、都市はヨーロッパ的な一国のみへの忠誠を強いられ、イギリス、フランス、あるいはタイ王国のいずれか1国の傘下に下ることになります。


マンダラシステムを知ることで得られるメリットは?

駐在員や旅行者にメリットがある

欧米人の契約志向は、中世の封建制度に起源を遡ります。
中国人が何かにつけ奢って権威を示そうとするのも、朝貢システムの名残でしょう。

したがって、今日の東南アジア人の行動傾向も、近世まで支配的だったマンダラ理論から何らかの影響を受けていると考えるのが普通です。
もちろん、学者の研究対象から外れる内容なので完全なる筆者の主観に過ぎませんが、できるだけ客観性を保ちつつ、以下に示してみたいと思います。

東南アジア独特の秩序の保ち方が分かる

マンダラ理論は、中世ヨーロッパの封建制、中華圏の朝貢システムと並ぶ、「秩序安定の知恵」です。
ヨーロッパ人は、義務と奉仕を軸とするフレクシブルでフラットな関係を認めることで、異民族が入り混じる環境を切り抜けようとしました。
中国人は、傘下の都市へ多大な利益を与えることで、形式的な中華秩序を認めさせ、武力衝突を防ぎました。

こうした両文明の性向は、今日に至るまで人々の行動に多大な影響を与えていると思われます。
ヨーロッパ人は、契約以上の仕事(義務)を拒絶します。
中国人は、何かにつけ奢ることで、形式的な自分の優位を認めさせたがります。

では、これに並ぶ東南アジア人特有の利害調整行動としては、どのようなものが確認できるでしょうか?


東南アジア人に認められがちな行動とマンダラ理論の関係(推測)

東南アジアの「マンダラシステム」の特徴は、中央と末端のつながりの緩さです。
都市は複数の中央(マンダラ)と結ぶことが許され、忠誠の移動も大きな反発なく実行に移すことができました。
また統治の希薄さから、大幅な自治権が認められ、理不尽な命令に対しては、別のマンダラからの庇護を盾に拒否権を行使できたものと考えられます。

東南アジア人に一般的に認められがちな次の様な特徴は、マンダラ理論が影響していると考えられます。

組織に対する忠誠心の欠如
組織移動の抵抗のなさ
約束の不履行
命令に対する逆ギレ

東南アジアの歴史は、インド人バラモン階級の後ろ盾を得る強力な王の出現というところから始まり、統治の後ろ盾は「王の宗教的魅力」に依存していました。
領民にとっては、王に対する「義務とリターン」の関係性というより、「神に等しい王」に懸命に奉仕することが領民としてのアイデンティティーでした。
そのため、王は宗教的権威を示すべく、壮大な宗教建築に励んでいったのです。

したがって、マンダラ理論に沿って今日の東南アジア人を理解するなら、彼らが誰かに奉仕するとすれば、それは「敬服した相手」以外には向かわないのではないでしょうか。

私は東南アジアで働いたことがないので分かりませんが、東南アジア人は会社への忠誠心が低くすぐに辞めてしまうという話をよく耳にします。

これもおそらく、現地の伝統である「マンダラ理論」から少なからぬ影響を与えています。

現地の伝統に由来していることので、日本的な感覚で容易に裏切りと捉えるべきではないでしょう。

東南アジアにおいて、Divine King(神聖なる王)に違う存在には拒否権を行使でき、複数のマンダラ(権力の中心)に忠誠を結ぶことが許されていたのです。

【マンダラ理論】99%の日本人が知らないアンコールワットの建築モチーフ【マンダラの中心に君臨するDivine King】

アンコールワットは、カンボジアが誇る東南アジア屈指の宗教建築です。

しかし、なぜアンコールワットが世界的な注目を集めるに至ったかというと「?」の方が多いのではないでしょうか?

実は、アンコールワットの建築構造は、東南アジアの王権思想を象徴しています。

クメール帝国が残した一大傑作について詳しく知ることで、東南アジアの文化についてより深く知ることができるでしょう。

アンコールワットの設計

アンコールワットって何?建立年代、王朝、歴史

アンコールワットは、12世紀前半、クメール帝国によって建立された宗教寺院です。
当時のクメール帝国は、西はマレー半島、東はカンボジア地方、北はラオス地方にまでの版図を実現した黄金期にありました。

首都アンコールは、宗教寺院であると同時に王都でした。
その広さは、南北8km、東西24km(192km^2)。

これは産業革命の以前における世界最大級の規模とされています。

この巨大都市の中に72の石の宗教寺院が建立され、周囲を堀で囲まれた要塞は、国内外にクメール帝国の権勢を轟かせました。


この都市の中心に築かれた代表的な建築物が、スーリヤヴァルマン2世の治世に築かれたアンコール・ワットです。

アンコールワットの構造

「建築の奇跡」として、現代なお人々を驚嘆させるアンコールワットは、、クメール帝国の傑作的寺院です。

その設計は、東南アジアの統治理論である「マンダラ理論」の概念モデルに従って設計されています。

建築群の壁画にはヒンドゥー教をモチーフにした3000もの天界の精霊が描かれ、構造物の距離は、ヒンドゥー教の宇宙観に基づく数字に従って配置されています。
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研究者によると、同時代のヨーロッパの大聖堂の10倍もの大きさを誇りながら、構造と概念モデルとの偏差は0.01%未満

この壮大な建設物をわずか30年の歳月で完成させたところに、当時のクメール帝国の権勢を確認することができます。


建築物は、中心の祠を取り囲む4つの構内で構成され、それぞれの構内の四方から伸びるゲートで相互に接続されています。
中央には「山の信仰」をモチーフとした高所の祭壇を持つ祠が設置され、王権を象徴しています。

訪れたことのある人は分かると思いますが、ハシゴを伝って登り降りします。

この構造は、インドのメル山を象徴しており、「首都アンコールの中心に築かれたアンコール・ワットのさらに中心の祭壇」という構造がマンダラの宇宙観の中心(王)を象徴しています。


アンコールワットの意図

クメール王がこのような壮大なアンコール・ワットを「築かなければならなかった」のは、なぜでしょうか?
アンコール・ワット建立の背景には、「マンダラ理論」と「Divine King」の2つの概念が強く関係しています。

アンコールワットが建立された12世紀、クメール帝国はその領土を仏教勢力が守るモン族(タイ・ビルマ地方)の異民族地域にまで広げる黄金期にありました。

つまり、大きく拡大した帝国内部における「ルールの維持」が不可欠な情勢にあったのです。

アンコールワットの設計モデルとなったマンダラ理論とは?

「マンダラ理論」の説明 語源 提唱者

「マンダラ理論」は、20世紀のイギリスの歴史学者オリバー・ウィリアム・ウォルターズ(Oliver William Wolters)氏が、東南アジアの王朝に見られる固有の統治パターンについて言及した言葉にちなんで命名された用語です。

クメール帝国の時代には概念名こそ存在せず、王国の伝統に過ぎませんでした。

しかし、その伝統は創始者ジャヤーヴァルマン2世が導入して以来のものであり、クメール帝国の伝統的な統治理論として威力を発揮し続けました。

マンダラ理論の構造

サンスクリッド語で「円」の意味を持つ「マンダラ」は、ヒンドゥー教・仏教における宇宙観を象徴します。

真理を象徴する中心の周囲を、同じく中心と四方へのゲートを持つ4つの構造が取り囲み、真理へ到達する道筋を表しています。

アンコールワットの中のマンダラ理論

アンコール・ワットは、マンダラ理論の概念構造に基づいて設計されたヒンドゥー教寺院です。(のち仏教寺院に改装)
構成要素間の距離、配置、また壁画に彫刻されるラーマーヤナなどの宗教絵画は、ヒンドゥー教の宇宙観に由来しています。

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アンコールワットの航空写真

マンダラを模して配置された4つの祠(マンダラ)の中央には、インドの「山の信仰」をモチーフとした高所の祭壇が設置され、祠のそれぞれが中央の祭壇と四方へ開かれた通路を持つというマンダラ理論に則った設計がなされています。

マンダラの中心に君臨したDivine Kingとは?

Divine Kingって何?概念、起源、歴史

Divine Kingは、東南アジアの王朝成立期にまで遡るインド由来の思想です。

海洋貿易を通して東南アジアにインド化の流れが波及した頃(1~2C)、インド原産の思想がバラモン階級の手によって東南アジアに伝わりました。

その思想の中の1つが「Charkrapat」です。
これは、インド統一を初めて成し遂げたマウリヤ朝の王に捧げられた理想の王を象徴する概念です。

これがのち5世紀に東南アジアでローカライズされてDevaraja(Divine King)の概念が誕生します。

この思想の最大の特徴は、王に政治と宗教の絶対的権力を与え、人間を超越した神に等しい存在としてみなす点です。

5世紀のジャワ(インドネシア)に原型が現れた後、9世紀のインドシナ半島に持ち込まれ、クメール帝国のジャヤーヴァルマン2世によって初めて導入されて以降、帝国の伝統として定着します。

この概念は、のちにクメール帝国の政治基盤を引き継いだタイ族、ラオ族あるいはビルマ族の王朝を介して、「王を神聖視する伝統」を東南アジアに根付かせました。

その痕跡は、今日のタイ王国の王朝の儀式、宗教建築などにも色濃く反映されており、いまでも「東南アジアにおける王=神」は絶対であり、現地民から奪い去ることはできません。

マンダラの中心にDivine Kingが君臨した?

Divine Kingは、クメール帝国の王権の拠り所となり、「神に等しい」王の求心力によって広範な公共事業を可能にしました。

しかし、「王の神性」は諸刃の剣です。

自身の神性を証明できなくなった時点で、王は統治の正当性を失うからです。

「なんだ、ただの人間か」と思われてしまった時点でアウトであり、帝国は瓦解を迎えます。

こうした伝統の中、歴代のクメール王家にとって最大の課題は、いかに領民に向けて自身の神性を証明するか?に注がれました。

歴代王家の苦心は、今日なお東南アジアのいたるところに確認できる壮大な宗教建築や儀式に名残を残しています。

アンコールワットは、「Divine King」の伝統が達した完成系であり、権力の絶頂期にあるクメール帝国の集大成と見てよいでしょう。

マンダラの中心に君臨させた意図

このヒンドゥー教の宇宙観をモデルとした寺院の中心に王は君臨しました。

その意図は、言うまでもなく王の神性の実体化です。

異文明にまで広がったクメール帝国の中心都市のさらに中心に建立されたアンコール・ワット(マンダラ)の中央に王自身を置くことにより、「宇宙の中心に君臨する王」を象徴したかったのだと考えます。

これにより、観念に終始しがちな「Divine King(神に等しい王)」の思想に実体が与えられ、異民族地域にまで広がったクメール帝国の統一に貢献したことが考えられます。

【DNA鑑定】Y染色体ハプロタイプが立証するカンボジアとインドの近縁性 - カンボジア・インド同祖論③

「インド化」の影響は東南アジア全域に及んだのに、どうしてカンボジアにだけ強い名残が感じられるのでしょうか?

それは、カンボジアとその他の国々が歩んだ歴史の隔たりに依存しています。

カンボジア人とインド人の類似性は遺伝子の連続性にまで遡及することができ、東南アジアの中でも随一の形跡を残しています。


1. カンボジアは東南アジアの中で最もインドに近い国

カンボジア以外の地域は、異民族の支配に下り、インド的要素が上書きの圧力に晒されました。

一方カンボジアは、緩衝地帯という立ち位置が結果的に異民族支配を免れさせ、インド的要素を温存させました。

その痕跡は、父系遺伝子ハプログループY型の近縁性の中に確認することができます。

東南アジアの大多数の国がたどった歴史

他の東南アジア諸国には異民族支配が及んだ

異民族の流入が、カンボジアと他東南アジア地域に異なる歴史の方向性を与えました。

東南アジアのカンボジアを除く地域(タイ、ラオス、ビルマ、メコンデルタ、フィリピン、海峡部)は、インド化の後、異民族の支配下に降り、インド性は色あせます。

異民族の侵入を許した地域では、古い要素は捨てられ、支配者の文化に置き換えられるか、融合するかという変容を余儀なくされました。

いっぽうカンボジアは、17世紀以降、タイとベトナムの二大勢力に挟まれ、劣勢を余儀なくされるも、緩衝地帯として王族と文化を温存させることに成功します。
17世紀のベトナム移民によるサイゴン略奪後、虐殺に晒されたチャム人の難民受け入れを行うなど「インド・ヒンドゥー文化の最後の砦」として独自性を保ちました。(チャム人はムスリムも多い)


インドシナ半島への異民族の侵入

「インドシナ」という名称は、この地域がインドと中国の影響力を強く受けてきたことを示唆しています。

初期にはインド勢が先行するものの、交通路の整備と共にチベット・ビルマ系の民族が華南から南下してくると、中国(系統の)文明の後塵を拝することになります。

タイ、ラオス、ビルマへは、中国南部の南詔に起源を持つ諸民族(タイ族、ビルマ族)の影響が及びました。
メコンデルタはベトナム人、海峡部の島々はイスラム教徒やヨーロッパの勢力下に降ります。


東南アジアに及んだ非インド系文明・タイ地方タイ族の南下(13C独立)
・ラオス地方タイ族の南下(14Cラオ族として独立)
・ビルマ地方ビルマ族の南下(7Cから)
・メコンデルタベトナム族の南下(17Cサイゴン放棄)
・マレー半島、スマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島、カリマンタン島etcイスラム教勢力の浸透
・ルソン島、ミンダナオ島イスラム、キリスト教勢力の浸透

インド文明圏を手中に収めた勢力は、古いインド式の思想と様式を捨て去り、新しい様式へ上書きします。
もちろん、先住民の信仰を不当に妨害すれば過激な反乱を招くため、統治に利用するために温存されたタイ、ラオス、ビルマのような地域も珍しくありません。
しかし、初期のインド文化の面影は崩されて上書きされるか、支配者が持ち込んだ文化様式と融合するかの経過を辿ります。

こうした地域では、表向きインド原産の仏教が採用されていても、その原初性は失われてることがほとんどです。

ミャンマーの仏塔

タイ王国の仏塔

カンボジアは最後の砦となった

アンコール放棄後のカンボアジアは、東のプノンペンに落ち延びます。
17世紀にはサイゴンへの移住を許したベトナム族の割拠を許し、クメール・チャム人が追放され、メコンデルタを失います。
貿易の要衝であったメコンデルタの喪失は、王国の衰退に決定打を打ちました。
その後は、タイ族とベトナム族に東西から脅かされ、時には本土侵略を受けます。
しかしながら、アンコールワットに象徴されるように文化侵略の形跡は薄く、古代インドの文化の面影をはっきりと温存させることに成功しています。

王朝の起源に「カンブジャ」(インド北西部のインド・イラン系民族の部族)が据えられていること、ヒンドゥー教寺院・アンコールワットが描かれた国旗のデザイン、そしてカンボジアの人口の96%をクメール人が占めることが、カンボジアがインド的要素を保存している何よりの証拠です。


2. DNAのハプロタイプが立証する類似性

Y型染色体ハプロタイプの調査の結果、カンボジア人はインド人由来の遺伝子型を継承していることが判明

では、カンボジアとインドの近縁性を科学的に証明することは可能でしょうか?
可能です。
それは、ヒトのソースコードであるDNAを分析することで検証できます。

結論からいうと、カンボジア人のY型DNAの約5%にインド人と同素的な遺伝子が確認できます。
空想の産物と捉えられがちなカンボジアの建国神話にさえ、DNA研究に基づく科学的な輪郭を与えることすら可能でしょう。

インド・ヨーロッパ語族由来のY染色体 R型

カンボジア人のY染色体には、R型というインド・ヨーロッパ語族由来の配列パターンが確認できます。

ハプロタイプとは

DNAハプロタイプとは、アレル(両親から受け継がれた対立する遺伝子の一方)を構成するDNAの塩基配列の並びです。
一般的には、DNAを構成する塩基配列に確認される変異のことを指します。

DNAが持つ30億塩基中、1000塩基に1回の割合で変異が起こります。(計300万塩基)
この「多型」と呼ばれる、塩基配列における1%未満の差異が、人間の個性を規定しているのです。

ハプロタイプというときは、主に個人の差異を規定する塩基配列に起きている変異のことを指します。

ハプログループとは

Y染色体のハプロタイプを統計分析し、民族条件と結びつけてグルーピングしたパターンを「ハプログループ」と呼びます。

Y染色体は、両親から1つずつ渡されるX染色体と違って、単一で次世代に伝えられる特徴を持ちます。
そのためX染色体に起こるような組み換え(遺伝情報の交差)が起こりません。
突然変異でも起こらない限り、世代間で同一の情報が伝達されるのです。

世代間で伝えられる情報が同一ということは、現世代のY染色体と先祖のY染色体の間に、ほとんど違いはないということです。
両者に変化がないということは、現世代のY型染色体のハプロタイプを解析すれば、父祖の系統を遡ることできます。

このようなY染色体ハプロタイプの分析を民族条件にまで敷衍させたのが、Y染色体ハプログループの概念です。
DNA塩基配列における変異の起こり方のパターンを、世界規模の統計分析によって抽出することで、各民族の父祖グループを辿ろうという考え方です。

例えば、AとBという地域に、共通のD型と呼ばれるY染色体ハプログループを持つ集団が認められたとします。
この場合、たとえAとBという地域の空間的な距離が離れていても、民族を構成するD型の集団は、同一の父祖グループから分かれた集団と見なすことができます。

このY染色体ハプロタイプにはA〜Qまでのパターンが用意されており、人類がアフリカから世界へ拡散していくにつれアフリカ始祖型のAから分岐パターンが増えていったと考えられています。

カンボジア人とインド人のY染色体ハプロタイプ

インド人
R 51.9% H 24.5% J 7.8% O 4.8% L 4.3%
カンボジア人
O 63.5% J 10% K 5.8% C 5.3% D 5.1%R 5.0%

両者に一致するこのR型こそが、古代カンボジアへ渡来したインド人バラモン階級の残した痕跡です。

インド人は、多様な民族構成を持つので、そのY染色体ハプロタイプも多様です。
先住民は、ドラヴィダ系のH型、東・東南アジアに多く見られるO型などを持っていました。
これにイラン地方から侵入したアーリア系のR型、L型、アラブ系のJ型などが混入し、今日のインド民族を形成します。

たしかにカンボジアは、1863年の保護国化から1954年の独立までフランスの統治下に置かれていたので、この91年間で、フランス軍人と現地女性の間に通婚が重ねられた可能性も指摘できます。

しかし、カンボジア人に確認されるY染色体ハプロタイプR型(R1a1型)は、フランス人を含む西ヨーロッパでは珍しいハプロタイプなのです。


ハプログループR1a型ウッタルプラデーシュ州のバラモン階級、コーカサス地方のアディゲ人
ハプログループR1a1型北コーカサス地方のアディゲ人、東ヨーロッパのロシア人やポーランド人

こうした地域の人々は、古代インドに襲来したイラン系アーリア人種と同一系統であり、現地民を支配した後、自らバラモン階級に就いた人々です。
つまり、カンボジア人男性のY型遺伝子に確認できるハプログループR型は、歴史的に交流を重ねてきたインド人由来のR1a系統である可能性が高いのです。

「カンボジア」王家の成立神話は、「カンブジャ」というイラン系部族出身のクシャトリア階級(バラモン階級から降格)の人物になぞらえられています。
これは、南インドのパッラヴァ朝の建国神話の移転に過ぎないとする声も一部にありますが、DNA解析の結果、カンボジア人の約5%(あくまで見本)にイラン系民族のY型遺伝子を確認することができたのです。

カンボジア人とインド人に共通するハプロタイプR型は、カンボジア王家の主張する起源説に説得性を与えています。

カンボジアを除く東南アジア諸国のY型ハプロタイプ

カンボジア人が、インド人由来と思われるハプログループR型を継承していることが確認されました。

では、歴史の初期に「インド化」の影響を受けたカンボジア以外の地域のハプログループは、どのような構成を示しているのでしょうか?


東南アジア諸国のハプログループ構成インド人R 51.9% H 24.5% J 7.8% O 4.8% L 4.3%
インドネシア人O 73.3% R 6.6% K 6.4% C 4.8% F 2.8%
マレーシア人O 67.4% K 9.3% R 5.3% C 5.3% G 3.0%
カンボジア人O 63.5% J 10% K 5.8% C 5.3% D 5.1% R 5.0%
ミャンマー人O 45.6% D 19.6% K 14.3% DE 9.6% R 2.9%
ベトナム人O 78.9% Q 6.1% C 4.2% J 3.0% N 2.4% (R 1.6%
タイ人O 83.6% BT 6.5% K 4.1% DE 1.6% NO 1.6% (R 0.5%
フィリピン人O 50.3% K 47.4% C 2.1% (R 表記なし
(参照 : http://atlasdna.xyvy.info/country-national-haplogroup-chart-dna

インド・ヨーロッパ語族系のR型は、東南アジアのほとんどの国で共有されていることが分かりました。
しかし、その分布はまだらです。

R型を最も多く継承している地域はインドネシア(6.6%)、次いでマレーシア人(5.3%)です。
カンボジアは、上記2国に次ぐ第3位です。(R : 5.0%)

しかしながら、インドネシアとマレーシアは、イスラム・キリスト教勢力の手に落ちた地域です。
イスラム教徒やヨーロッパ人と現地女性の通婚が重ねられた可能性は高く、確認されるR型遺伝子の全てがインド経由とは言い切れません。

一方、緩衝地帯という立場のために直接支配を免れたカンボジアには、バラモン階級に属した北西インド人由来の遺伝子的痕跡(R1a1)が確認できるのです。
このR1a1は、イラン方面からインドに移住してきたアーリア系民族に確認できるY染色体ハプロタイプです。

これまで見てきた通り、プノンペンの博物館で出会ったフランス人や私の覚えた直感は正しいものであったことが、DNAハプログループから立証されました。

カンボジアは、古代から取り入れたインド型の文化様式が、外国の直接支配によって失われることなく温存された地域です。
また古い時代のインド文化だけでなくその遺伝子型まで、脈絡と継承し続けている地域ということができます。


カンボジアとインドの類似性の原因まとめ東南アジア最初の港として古代インド人を受け入れた
「カンブジャ」というイラン・インド系部族を王朝の起源に求めるほどインドとの関わりが深い
異民族の直接支配を免れたので、文化と民族の上書き現象を回避できた
Y型遺伝子のハプログループもインド・ヨーロッパ語族系のR型を継承

【類似性の歴史的背景】「東南アジアのインド化」 - カンボジア・インド同祖論②-3

1、カンボジアは最も強いインド化(ヒンドゥー教)の影響を受けた地域

では、「インドと似ている」カンボジアのインド化は、どのような経過を辿ったのでしょうか?
以下に、カンボジアの歴史を見てみたいと思います。

東南アジアの歴史は、貿易を求めてやってきた古代インド人との接触から始まっています。

そしてカンボジアがインドから受けた影響力の大きさは、東南アジアの中でも最大級とみて間違いありません。

なぜなら、最初期にインド化が実施された地域だからです。

カンボジアの歴史を紐解くと、王家の起源、統治者の属性、クメール帝国が覇権を握るまでの経緯といった根幹の部分で必ずといっていいほどインド出身の人物が関わってきいます。

例えば、「カンボジア」という国名にしても、これは「カンボジャス」というインド北西部(今日のグジャラート地方)に存在したインド・イラン系民族の名称に由来しています。

また、国旗にも記されるアンコールワットも」は、インド本土を含めたヒンドゥー教寺院としては世界最大級の大きさです。

このように、カンボジアとインドの類似性には、その根拠に両者の深い歴史的な繋がりを確認できます。


2、インド人が深く関わったカンボジア史

カンボジア地域における人類の形跡は、少なくとも紀元前4世紀まで遡ることができます。

しかしそれは、1世紀に扶南が現れるまで小規模集落の集合体に過ぎず、文字をはじめとする文明の形跡は確認されていません。

この状況が変わったのは、ローマの季節風貿易に伴い、中国絹あるいは香辛料を求めるインド商人が大挙して東南アジアに押し寄せたことです。

今日の私たちが世界地図を見れば、インド・中国間を最速で移動するには、インドネシアのある海峡部を船で通過するのが最短ルートのように見えます。

しかし、航海技術が発達途上であった古代においては、小刻みな補給が不可欠でした。

そのため、陸路に近い沿岸のルートが好まれ、南インドを出た船はマレー半島の狭隘なクラ地峡を横断し、タイランド湾からベトナム湾を船で陸伝いに中国へ到達するというルートが使用されました。

メコンデルタは、この航路の重要な中継地点の役割を担い、1世紀に最初の港オケオ(Óc Eo)が登場すると、豊かな港を基盤とする扶南がカンボジア初の王朝として歴史に姿を現します。

貿易を通して最先端の技術を吸収した扶南は、周辺地域への領土拡大へと突き進み、2〜3世紀にはインドシナ半島南部ほぼ一帯(マレー半島北部〜南ベトナム)の支配権を掌握。

古代王国の黄金期を築きます。

4世紀に入ると、インド化が進展し、ヒンドゥー教に基づいた統治システムが採用されていくことになります。


この扶南の誕生神話として語られているのが、カンブジャとソマの伝説です。

1世紀、インドのバラモン階級に属するカウンディヤが夢のお告げに従ってカンボジアの地へ征服に赴き、現地の女王ソマを破ってこれと結婚し、その子孫がカンボジア王家の祖先となった

というのがカンボジア王家に採用されている扶南の建国神話です。

とはいえ、3世紀に黄金期を確立した王、Fan Shih-manの名前を見てもサンスクリッド名ではありません。

サンスクリッド名の人物が相次いで王位に就くのは、4世紀になってからの出来事です。
したがって、カンボジアのインド化は4世紀以降であり、王国公式の建国神話は、4世紀のインド化が行われた後に、インド系統の王家を正当化するために作られた神話だと考えられます。

中国の史書「梁書」も、この神話と同様の建国過程を伝えていますが、史書の年代が7世紀です。

インド化後のクメール人との関わりの中で記された史書であり、1世紀の情勢に対して客観的であるかは懐疑的です。

また、もう1つある建国神話においても、インド北西部の「カンボジャス」という部族出身のSvayambhuva Kambojと現地女性Meraの結婚を王朝創設の起源とされています。

この「カンボジャス」は、イランのアケメネス朝の君主「カンビュセス」との関連性も指摘されるイラン系の名前で、マハーバーラタやラーマヤナ、その他オリエント地方の古文書に度々名前が登場する名門一族でした。

このように、カンボジアとインドの同祖性は、王家発祥のレベルにまで遡ることができ、事実カンボジア王室によって公式化されています。



4世紀にインド出身の統治者がシステムをインド式に変えた

357年に行われた扶南のインド化は、国内の法制度を全てインド式に置き換えるという急進的なものでした。

この急進改革を実行に移したのも、Candanaという扶南最初のインド出身の王です。

これ以降、王の名称はサンスクリッド語由来の名前が採用されるようになり、550年に属国の真臘が扶南を奪った後もそれは続きました。

この真臘がクメール王家の母体となります。

その後、は南北に分裂し、北のは、沿岸地帯を拠点とする南のは8世紀にジャワのシャイレンドラ朝に飲み込まれます。

その後、802年にジャヤーヴァルマン2世が独立を宣言した時点を以ってクメール帝国の歴史が始まります。

この時、ジャワからインドシナ半島に持ち込まれたのが、Devaraja思想の原型でした。

ジャワ島もまた、インド化の最初期にヒンドゥー教が広まった地域であり、130年にはジャワ北西部でアレクサンドロス大王の子孫とされるインド出身の人物がヒンドゥー教国Salakanagaraを建国するほど、ヒンドゥー思想において先駆的な地域だったのです。

クメール帝国最初期のバコン寺院も、ジャワのボロブドゥールがモデルとされ、「山信仰」をモチーフにした「最上部に設置された祭壇へ伸びる長い階段と入り口の様式」などの特徴は、後のアンコールワットに引き継がれることになりました。

今日のタイ王国に残る「Divine king(神性なる王)」の概念も、その発祥はジャワに求めることができます。


国教(ヒンドゥー教)による繋がりがクメール朝と南インドの同盟を可能にした

1006年に即位したスーリヤヴァルマン1世は、南インドのチョーラ朝との同盟を締結しました。

この同盟の後、マレー半島のタンブラリンガ王国がクメール帝国に攻撃を加えたので、クメール帝国は同盟国のチョーラ朝に救援を要請し、両者の同盟を知ったタンブラリンガ王国もまた同じく仏教国のシュリーヴィジャヤ王国に共闘を呼びかけてクメール帝国・チョーラ朝からの攻撃に備えます。

この対立は、1025年のチョーラ朝のシュリーヴィジャヤ領への攻撃へと発展し、仏教対ヒンドゥー教の宗教戦争、そして東南アジアの権益をめぐる闘争の様相を呈していきます。

戦争の結果、軍配があがったのは、クメール帝国・チョーラ朝連合軍でした。

敗北を喫したシュリーヴィジャヤ王国は、すでに手にしていた海上権益を手放し、衰退が決定付けられます。


仏教勢力の海上支配を崩した後の海上支配は、13世紀末にヒンドゥー教国マジャパヒト王国の手に委ねられることになります。

インドシナ半島では、ヒンドゥー教国・クメール王国の黄金期が実現し、マレー半島北部を西の国境とし、北はラオス、東はチャンパを除くベトナム地域を併呑する帝国を成立させます。

12世紀の前半には、広大な領土を支配するクメール王の統治を記念して、アンコールワットが建立されます。


しかしながら、ヒンドゥー教国・マジャパヒト王国の手に渡った制海権も、マレー半島に台頭したイスラム教国・マラッカ王国に奪われ、海上覇権を譲り渡す形となります。

インドシナ半島におけるクメール帝国の覇権も、新興のタイ族による獰猛な攻撃によって都アンコールの放棄とともに終焉を迎えます。

※ 余談ですが、新興のイスラム勢力や中国南部からの移民に過ぎなかったタイ族が、土着のヒンドゥー教国に対して勝利を納めることができた背景には、大国の援助が関係していました。

つまり、中国・明王朝による支援です。

中国大陸をモンゴル支配から解放した皇帝の課題は、失った威信の回復でした。

世界帝国の称号を捨てきれない明は、王朝の発足間もない時期から鄭和の大遠征を実施し、遠くアフリカまで、中国皇帝の健在ぶりをアピールします。

そして、その途上にある東南アジアへは、現地の新興勢力を支援するといった形で、影響力の地歩を築きます。

つまり、現地のヒンドゥー勢力の覇権に挑もうとしていたイスラム勢力、タイ族に軍事援助を提供し、征服事業を影ながら助けたのです。

マレー半島においては、16世紀のポルトガル来航によって頓挫します。

いっぽう、タイ王国においては、帝国主義時代に関係が希薄になるも、今日に至るまで癒着状態を継続し、王朝内部の権力構造にも入り込むことに成功している。)


領土拡大が災いしたDivine Kingの罠による自滅

王の絶対権力を象徴する宗教建築は、クメール帝国の始まりと終わりを帰結しました。

クメール帝国は、領土拡大を進れば進めるほど、宗教建築に力を注がなければならない宿命を背負っています。

なぜなら、宗教と王権が結びつく支配構造のため、新しい領土を獲得する度に、獲得した新しい領土の領民にクメール王の神性を示すことが欠かせなかったためです。
そのため、クメール帝国の領土の全域に宗教建築を施さなければならず、支配地域のいたるところに壮大な宗教建築が建立されるに至ります。(クメール帝国の支配地域に含まれていた今日のタイやラオスなどの史跡に確認できるように)

帝国が小規模であったうちは問題はありませんでした。

しかし、帝国の領土がインドシナ半島の全域に広がるにつれて、基本的なインフラ整備を上回る規模の費用・奴隷が費やされるほどに膨らんでいきます。

その結果、灌漑施設というクメール帝国の生命線を維持できなくなります。

熱帯モンスーン気候に属するカンボジアの気候は、多雨の雨季と干ばつの相次ぐ乾季に分かれます。

降雨量のない乾季のシーズンを乗り切るには、雨季の間に確保した水の蓄えなしには不可能です。
無策では水を絶たれ、のたれ死にです。

この状況を防ぐべく設置されていたのが、国内2カ所に設けられた巨大な人工水域でした。

雨季の間に溜めた水を、乾期のシーズンに、都市じゅうを巡る運河で都市へ供給できたからこそ、地理的要因からくる水不足を克服できたのです。

しかし、クメール帝国の領土が広がるにつれ、灌漑施設に次のような負担がのしかかります。

クメール帝国の水供給インフラにのしかかった負担1人口増加による水需要の上昇
2森林開拓による森林の保水能力の低下
3森林減少よる土砂の急流

インフラへの負担は大きくなる一方であるにも関わらず、修復は十分に施されませんでした。

なぜなら、王国の拡大に欠かせない宗教建築に財源と労働力が費やされたためです。

クメール帝国の水管理システムは、汚泥が取り除かれずに堆積して支障をきたし、これにより帝国は乾季の渇きに耐えうる能力を失いました。

水供給の不全により、都市は人口減少に見舞われ、穀物生産力も衰退。

帝国は、穀物という輸出品の主力も失います。

この衰退に、タイ族の執拗な攻撃が追い討ちをかけ、クメール族は1431年に都アンコールを放棄。

クメール王族はプノンペンのウドンへ逃亡し、都アンコールは、その後フランス人によって発見されるまで、密林の中に忘れ去られることになります。

「クメール王の神性」は、王朝の出発点でしたが、終点でもあったのです。

このクメール帝国の瓦解(1431年)とほぼ同時期に、海峡部のヒンドゥー勢力マジャパヒト王国の衰退(1478年)も進行しました。

以降、東南アジアにおけるインドの影響力(インド化)は下火に向かいます。

3、カンボジア文化から失われないインド性

帝国の実態を失って以降のクメール帝国は「カンボジア王国」と呼ばれ、両隣のタイ・ベトナム勢力に脅かされ続ける暗黒時代を歴史に刻みます。

しかしながら、カンボジアの文化に刻まれたインドの痕跡は、今日に至るまで失われません。


例えば、

1国名が示す王朝の起源「カンブジャ」
2アンコールワットを刻む国旗
3社会通念における格差の公然視
4女性労働力の積極活用

などは、カンボジア文化の中から決して消え去ることのないインド文化の形跡を伺わせます。

中でも、注目に値するのが文字です。
クメール文字は、他の東南アジア諸語と同じブラフミー系文字に分類されます。

しかしその中でも、カンボジアのモン・クメール文字という言語の特徴は、サンスクリッド語からの借用も多く、インドからの影響を色濃く留めています。

文字と民族の伝播ルートは一致する

文字の伝播ルートと民族の伝播ルートが一致することは、人類学の基本的な常識です。

人類学に倣えば、インドのサンスクリッド語に近いクメール文字を使う民族は、インド人との遺伝的近縁性を感じさせます。

事実、王家の出自がインド北西部に存在した「カンボジャス」という部族になぞらえられ、カンボジア王家によって公式に承認されています。

近年のDNA調査は、カンボジア人の遺伝的起源について、どのような見解を示しているのでしょうか。

確認は、最終稿に譲りたいと思います。

【類似性の歴史的背景】「東南アジアのインド化」 - カンボジア・インド同祖論②-2

東南アジアの王朝成立を促したインド文化とは?

東南アジア最初期の王朝の成立時期は、インド商人の東南アジア渡航が始まった時期と重なっています。

1世紀に始まったローマのインド洋貿易は、中国絹を求めて東南アジアへ渡航するインド商人の群れを生み出しました。

東南アジアを訪れるインド商人は、しばしばバラモン階級を伴い、彼らが持つ統治理論は現地の支配階級に歓迎されました。

こうして、文字のない未開文明であった東南アジアにヒンドゥー教の萌芽が芽生えます。

さらに、インド商人の渡航とほぼ同時期に、貿易ルートに沿って東南アジア初の王朝が姿を現します。

扶南(1C : インドシナ半島東部)
Gangga Nagara(2C : マレー半島)Salakanagara(2C : ジャワ島)


それでは、古代インド人がもたらした思想・文化は、従来の土着文化に対し、どのような点で画期的だったのでしょうか?

東南アジアへ至ったバラモン階級がヒンドゥー教の思想を伝えた

インド人が訪れる以前の東南アジアに国家様の集団が存在しなかったわけではありません。

おそらく農業が育ち、生産を効率化するための集団が形成されていたことでしょう。

しかし、それは小規模な部族集団にとどまり、王朝のような統一性を発揮するには至りませんでした。

そのような状態から王朝の成立へと至った経緯には、ヒンドゥー教の王権思想が切り離せません。

古代インドには、インド統一を成し遂げたマウリヤ朝の王に捧げられた、理想の王を象徴する概念が存在しました。

この”Chakravarti”がモデルとなり、東南アジアの地で”Devaraja”という派生概念が誕生します。

これは、世俗の王を宇宙の創造神ヴィシュヌ神とシヴァ神に結びつけ、創造神の体現者、あるいは再臨と見なす思想です。

王は神に等しい崇拝の対象とされ、政治と宗教の双方の権力を掌握することが認められました。

近世以前のヨーロッパにも、強力な王権を認める「絶対王政」という思想が登場します。

これは、あくまでそれまで分離していた「世俗の最高権力」と「宗教の最高位」という立場を兼ねる王という程度の位置付けでした。

キリスト教が、「人間の神性」を認めることはありません。

一方、東南アジアの”Devaraja”においては、「王=神」が認められます。

王は、ヨーロッパのような「神の代理人」ではなく「神そのもの」です。

王の神性・超越性を認める点で、ヨーロッパの「絶対王政」と比較にならないほど強力な王権思想といえます。

(インドへ到達したバラモン階級が、現地勢力の庇護を得るために、インドの王権思想を意図的に強化して伝えたことが始まりだと考えられる。

この時は

その後、5世紀頃のジャワ島でDevaraja概念のプロトタイプが作られ、9世紀のクメール帝国で初めて国家規模に実践された。)

つまり、インドからやってきたバラモン階級は、「王は神に等しい」という宗教観念を東南アジアに植えつけたことになります。



王権思想が格差を作り、政治命令を可能にした

いったん集団の内部に絶対的な頂点が作られると、階層的な序列構造が出来上がります。

インド思想の原点であるカースト思想の影響も重なって、(※ 1)原住民の間に王を頂点とする階層的な序列構造が作られます。

つまり、王朝の成立です。

部族長を頂点とする集団は、以前にも存在していました。

しかしそれは、小規模な部族集団であり、王朝的な統一とはほど遠い状態でした。

しかし、絶対的な王は唯一性を求めて統一を目指さなければなりません。

各部族が王の権威を主張して争った結果、扶南、といった最初期の王朝群の成立を迎えることになります。

(※ 1 今日では、「東南アジアにカースト制度は伝わらなかった」という論調が主流だが、継承されなかったように見えるだけで、カースト思想も確実に影響を及ぼしている。
東南アジアにはカースト思想の前提となる民族の支配構造が存在せず、ローカライズされる形で受け入れられた。)


原住民の間に王を頂点とする序列を形成していきます。

しかしながら、本土インドのような征服の形式を取らなかったため、階級が特定の民族と結びつくことはなく、後世の歴史家に「東南アジアにカースト制度は普及しなかった」と語られるほど、能力に基づく社会的区分が標準だったようです。(主にサンスクリッド語の読み書きの能力)

今日でも、タイ王国やカンボジアでは、身分格差がはっきり分かれがちですが、固定的な「階級」ではなく移動可能な社会的身分の格差である点で、インドのカースト制度とは区別されます。

しかしながら、クメール人の真臘では、奴隷の14区分が存在したとされ、借金を返せなかった者、親に売られた者が世襲の奴隷として王命に服していた事例も確認できます。

こうした人間の階層区分は、格差の萌芽ではあったものの、同時に王朝拡大の原動力として働きました。
「王の絶対権力」という観念は、王命という政治権力へ転化し、公共事業(インフラ整備、戦争、建築など)を秩序立って実行する根拠となったからです。

“Devaraja”が採用されるようになると、王命はより強固になります。

「王命が下るたびに戦争や国内開発が実施され、人口が増加し、さらに王権が強化される」という建設的なサイクルに入ることができたのは、集団を束ねる強力な王の権力なくして説明できません。

インドシナ半島の覇権を達成したクメール帝国の原動力は、Devarajaの王権思想に求めることができます。

交易の結果入ってきた技術も重要な条件

王朝の成立を促すのは、思想だけではありません。

むしろ初期の頃にあっては、技術力の方がより重要であったと考えられます。

近代兵器も存在しないこの時代、王朝の盛衰を左右したのは、穀物生産力です。

のちのクメール王朝の覇権を可能にしたのは、肥沃な大地に築かれた精巧な灌漑設備でした。

これが土地特有の乾季を克服し、年3倍の収穫によって、人口の増大と輸出穀物の確保という覇権の条件を整えたのです。

当時、貿易を通してローマとつながっていた東南アジアへは、相当な先進技術の流入があったと考えられます。

そもそも、文字すら持たない未文明の土地で自発的に灌漑設備を完成させることは不可能です。

こうした技術的条件は、季節風貿易によって諸外国から流入した、ヒンドゥー教思想とは別の条件であったと考えられます。

事実、東南アジア初の覇権王朝・扶南のヒンドゥー教化は4世紀ですが、2〜3世紀には、インドシナ半島南部一帯に及ぶ領土拡大を完了させています。

またDivine kingの概念も、5世紀のジャワでプロトタイプが作られた後、統治理論として本格的に導入されるには9世紀のクメール帝国まで待たなくてはなりません。

ヒンドゥー教の「強い王思想」が入る前から、地域覇権を成し遂げる王朝は存在していたのです。

その原動力は、技術以外に考えられません。

先進技術に基づく都市条件の整備があったからこそ生産力の向上が可能となり、高度技術を持たない近隣地域に対し優位を確立できたのです。

したがって、最初期の王朝拡大において、より重要だったのは貿易の富および一緒に伝わった先進技術であったと考えられます。

ヒンドゥー教は手に入れた広大な支配地をまとめ、統治する上で役に立った思想というのが事実ではないでしょうか。


宗教建築は、東南アジアにおける統治のシンボル

東南アジア各国の「強力な王権」を象徴するのが壮大な建築物です。

宗教の後ろ盾により、神に等しい権力を掌握した東南アジアの王は、配下の住民へ公共事業を命じました。(近隣諸国への拡大、インフラの整備、寺院の建築など)

中でも重要だったのが寺院の建築です。

なぜなら、王権の根拠は宗教的権威であり、自身の神性を示せなくなった瞬間に統治の正当性を失うことになるからです。

そのため、王は、常に自身の神性を証明しなければならず、宗教寺院の建設に心血を注ぎました。

今日、東南アジアの観光名所が寺院ばかりなのは、その時代の名残です。

東南アジアの王にとって、自身の神格化は、統治を成立させる上での最重要条件だったのです。

特に有名なのが、カンボジア・シェムリアップのアンコールワット(ヒンドゥー教のち仏教)、バイヨン(仏教)、インドネシア・ジャワのボロブドゥール(仏教)、スマトラのパレンバン(仏教)などです。

こうした建築物群に共通する壮大さ、壮麗さは、ヒンドゥー教のDivine King(Devaraja)に由来しています。
神聖なる王(シヴァ+ヴィシュヌ=ハリハラ)の全宇宙の統治の象徴として、王朝が大規模な領土拡大に成功した後に、偉業を記念して建造されたものばかりです。

仏教寺院が目立つのは、東南アジアは本土インドのような民族区分という条件を持たず、対立するはずのヒンドゥー教と仏教が当初から相互に習合しあったためだと考えられます。(各宗教のいいとこどり)

特にシェムリアップのアンコール・ワットは、古代ヒンドゥー王国の栄華を象徴する寺院(都)として王の威厳(神性)を国内外に示しました。

建築は、マンダラの理念に基づいた設計がなされ、構成要素間の距離もヒンドゥー教の神話や宇宙論に基づいて配置されます。

技術的な到達点も高く、概念モデルとのズレ0.01%未満という精巧さが、クメール人の技術的素養の高さを証明しています。

寺院の広さは西洋の聖堂の10倍以上であり、この壮大な建築物をわずか30年の歳月で築き上げたところに、当時最盛期を誇ったクメール王朝の権勢を確認することができます。

宗教と結びついた王権思想の採用によって、東南アジアの王家のなかに、宗教建築を乱造させる伝統が生まれました。

宗教建築は王権の象徴であり、自身の神性を示せなくなった瞬間に統治の正当性を失ったのです。

この王権思想と盛んな建築熱は、時として仇となることもありましたが(クメール帝国は、宗教建築がインフラ整備よりも優先された結果、灌漑設備が老朽化の限りを尽くして滅びた)、地域の伝統として根付き、王朝の存続と地域安定に大きく貢献しました。

【歴史的背景】 カンボジア・インド同祖論②-1【インド化】

経済の華僑支配が進みつつある東南アジア。
しかし、東南アジアの文化の根底にはインド文明の影響が脈々と受け継がれています。

このことは、「インドシナ」の名称を見ても明らかです。(インド+シナ)
実際、インド・東南アジアの両方に足を踏み入れたことのある人なら、両文明の類似性に気づくことでしょう。

それでは、なぜ東南アジアの国々にはインドのような既視感が感じられるのでしょうか?
結論から言うと、紀元前4世紀頃〜12世紀の約16世紀に渡って、東南アジア一帯で進んだインド文明の移植現象に由来しています。
中でもカンボジア周辺は、「インド化」大々的に進めた地域であり、古代インド文明の面影を最も色濃く残しています。

本記事では、深い繋がりを持つカンボジア地域とインド文明の関わりについて解説します。
この記事を読めば、カンボジアとインドの根深い関係性が理解できるでしょう。

全移植!!古代インドから東南アジア地域へもたらされたものとは?

古代インド人の東南アジア移住は、最古の記録で紀元前4世紀ですが、個人の動機による小規模なものでした。
ところが1世紀になると、エジプト制圧により東方貿易に乗り出したローマの貿易商が、盛んにインドを訪れるようになります。
東方の富を求めるローマの貿易商の需要に応えるべく、インド人の東方進出が本格化。
その影響を受け、1世紀にはメコン川東部に最初の港オケオが建設されます。

つまり、インド人の東南アジア移住が本格化するのは1世紀〜です。
では、どのような影響が東南アジアに及んだのでしょうか?

インドの文字文化の流入

最も大きな影響は、文字に表れています。

インド人が渡来するまで、東南アジアは文字を持たない未開文明でした。
文字がないと、情報を伝達することができず、歴史の概念も発生し得ません。
「インド化」以前の東南アジア史が暗黒に包まれたままなのも、文字による歴史の継承が不在だったためです。

これは統治にとって致命的であり、たとえ現王が有能でも、後継者が無能だと王朝の正当性が尽きてしまいます。
古代東南アジア地域は、小規模部族が所々に割拠する状態であり、ローマや漢のような統一王朝は誕生しませんでした。

ところが、この未開状態はインド文明の流入を機に激変。
今日、東南アジア各国の文字は5世紀に南インドで誕生したグランタ文字にルーツを求められるほど、インド文字の流入が始まったのです。


文字文化の導入を機に始まった歴史

ひとたびインド文化の輸入が行われると、東南アジアのあちこちにインド文化を採用する王朝が姿を現します。

インド人から「文字」を教わったことで、「歴史」や「統治」の理解が可能となり、それを大勢で共有することで、王朝の成立条件が整ったからです。

このように、東南アジアの歴史は、インド系渡来人の流入を契機に始まったといっても過言ではありません。

さらにインド発祥の概念は時代とともにローカライズされ、「Devaraja(神の王)」、「マンダラモデル」などといった、東南アジア史の中心的なテーマとなる独自性へと発展していきます。

そして、厳格な階級制度を強いるヒンドゥー教は強力な王の登場を可能にしました。

東南アジアのインド化の歴史(BC4世紀〜12世紀)

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紀元前4世紀〜12世紀に行われた東南アジアの「インド化」は、2つの時期に分かれます。

1 (BC4〜1世紀頃)
シルクロードの通商ルートを通って、陸路で仏教がインドシナ西部(タイ・ビルマ地方)に伝わった

2 (1世紀〜12世紀)
ローマ帝国との貿易開始をきっかけに中国絹を求めるインド商人が東方へ渡り、その途次にある東南アジアへ海路でヒンドゥー教が伝わった。

交易路は、宗教の伝播ルートとして機能する側面を持ちます。

このことは、次のような事例からも明らかです。

シルクロードを介した中国への仏教伝播(1C : シルクロード交易)
イスラム教団の拡大期におけるイスラム教の東南アジア流入(8C頃〜 : インド洋貿易)
大航海時代におけるキリスト教の世界各地への伝播(15C~20C : 大航海時代帝国主義時代)


これらの例に漏れることなく、ヒンドゥー教流入も、遠隔地貿易のネットワークに沿って進みます。

東南アジアのインド化は、ローマ・インド間のインド貿易の副産物として始まりますが、イスラム教団の拡大に伴うローマの衰退、インドへのイスラム勢力の侵食が開始するにつれ衰退します。

するとインド勢力に代わって、西方からイスラム教の流入が始まり、東方からは中国の貿易船が訪れるようになります。

やがて東南アジアは、東西を結ぶ貿易の要衝として、インド・イスラム・中国の3勢力がせめぎ逢う地と化しました。

最終的に、最大の影響力を掌握したのは中華文明でした。

中国は宗教を伝えない代わりに、生産力の低い東南アジアへ物資を運びます。

とりわけタイ王国へは戦争に際する物資の拠出が顕著で、今日まで続く経済に占める中華系富裕層の大きさの原点といえるでしょう。


BC4〜1世紀頃の陸路ルート

古代の通商ルートは、インドから中国までの道のりを陸路を経由して至るルートです。
複数あるルートの1つがビルマ(今日のミャンマー)、タイ地方を通っていました。

同時代のインドは、アレクサンドロス大王がまとめあげた地域を引き継いで、インド初の統一王朝(マウリヤ朝)が成立していた時期です。

アショーカ王に仏教が保護されたため、支配宗教の座が従来のバラモン教から仏教へと移った時期にあたります。

そのため、この時代に行われた最初期のインド化は、仏教勢力が先行することになります。

東南アジアの中でも、とりわけ仏教色が強いタイ・ビルマの文化に最初期のインド化の名残を確認できます。

考古学的研究による仏教伝播の経路前4世紀〜前2世紀
ビルマのピュー族の都市群へ
前3世紀
タイ地方のドヴァーラヴァティ都市群へ伝播(マウリヤ朝アショーカ王が仏僧を派遣)

これより東のカンボジア以東へは、陸路の貿易ネットワークから外れていたため、仏教は伝わらなかったようです。(小規模な交易は行われていた)

仏教が伝わったタイ・ビルマ地方では先住民の間に仏教が広まり、地域の伝統宗教として定着していきます。

1世紀〜12世紀の海路ルート

ローマ帝国の開始した季節風貿易を機に、ローマとインドの交流が開始されました。
ローマの大きな需要は中国絹にあったので、中国への途上にある東南アジアを訪れるインド人が増え始めます。

この時点で、主な宗教の伝播ルートは海路へシフトします。
紀元前1世紀、ローマ帝国がオリエントを平定し「ローマの平和」が実現します。
それとともにエジプト〜オリエントへ派遣されたローマの駐屯軍は、野放しにされていた海賊の武力排除を実施。

海上の安定化により、海路の遠隔地貿易が空前の活況を呈します。

商業圏の拡大を求めるローマ皇帝は、インドの香辛料、中国の絹に野心を抱き、盛んに東方へ貿易船を派遣しました。

東方の品々は、アラビア半島南部のアデンやアフリカの東海岸(今日のソマリアエチオピア)に集荷され、エジプトを経由して地中海へ運搬されます。

この季節風貿易の開始は、インド亜大陸へも影響を及ぼします。

ローマとの交易は、インドにとっても西方の進んだ文明を取り入れるチャンスであり、貿易の利を背景とする港市国家が沿岸地帯に誕生していきます。(サータヴァーハナ朝パーンディヤ朝など)

ローマの大きな需要は、中国産の絹でした。

この需要に応えるべく、インド商人は東方の東南アジアに目を向け、現地への進出を開始したのです。

1世紀、インドと中国を結ぶルート上にあるメコンデルタ南ベトナム)に最初の貿易拠点オケオ(Oc Oe)が出現します。

南インドを出た貿易船は、マレー半島の狭隘なクラ地峡に到達すると、現地の運搬者によって商品を対岸へ運ばせ、そこから船でタイランド湾に沿ってオケオへと至り、ベトナム湾を沿って中国に到達するルートを進みます。

のちにメコンデルタを支配した扶南(東南アジア初のインド化王朝)は、このルート全体を支配下に置くことに成功し、貿易の富を背景に強大な勢力を築きます。

今日なおオケオから出土するローマ帝国時代のコインが、往時の活況を物語っています。

なお、同時代のインド本土は、マウリヤ朝の崩壊(前2世紀)から始まった長い分裂時代の真っ只中でした。

マウリヤ朝とともに仏教は後退し、バラモン教ヒンドゥー教へと脱皮しながら復古の機会を伺います。

4世紀にはグプタ朝がインド混乱期を収拾。

同時に、グプタ朝の奉じるヒンドゥー教が支配宗教の座を回復します。

この頃(1世紀〜)通商のために東南アジアへ赴いたインド商人の航には、バラモン階級の僧侶が同乗するようになっていました。


インド化と同時に姿を現した東南アジア最初期の王朝

東南アジアへ降り立ったバラモン階層が最初に直面する問題が、文化の違いです。

いくらバラモン階級が最上位階級を誇ったところで、通用するのはバラモン教徒の間のみです。

異教徒には理解されないどころか、下手をすると迫害の憂き目に逢ってしまいます。

そこで、居場所を確保したいバラモン僧侶たちは、自信が持つバラモン教の神秘的な儀式を用いて現地の支配階級に取り入ります。

つまり、「バラモン教の儀式によって統治者の権威にお墨付きを与える」ことによって、部族長はより偉大な王になれると提案したのです。

この提案は、統治の後ろ盾を求める支配階級に受け入れられ、バラモン階級は保護を受けることに成功。

インドのヒンドゥー思想が急速に浸透すると共に、東南アジアの部族集団は「上からのインド化」を掲げて統廃合を繰り返し、王朝の規模を拡大していきます。

そして一度、インド化の道が開かれると、本土インドから大勢の移住者が続き、東南アジアのインド化を加速させます。

こうした中で起きた文字文化の流入で、記録が可能になります。

碑文による王朝の歴史、命令の布告といった政治行動を可能にさせ、東南アジアの歴史が開始する土壌を整えていきます。

(この時輸入されたサンスクリッド語は、東南アジア先住民の口語とは距離があったため取得は困難を極めた。そのためサンスクリット語は、中世ヨーロッパにおけるラテン語のように、知識階級が用いる貴族の言語として扱われた。)

これが「東南アジアのインド化」現象の最初期の姿です。

この時期は、東南アジアの最初期の王朝が姿を表した時期と重なっており、東南アジアに刻み込まれたインド文化の根深さを象徴しています。

メコンデルタ扶南(1〜6C)
マレー半島Gangga Negara(2C〜1025)、Langkasuka(2〜15C)、Pan Pan(3〜7C)
ボルネオ島 タイ王国(4〜5C)
ジャワ島Salakanagara(130〜362)、タルマヌガラ王国(358年〜669年)



これら王朝の名称がサンスクリッド語に由来している通り、これら王朝の創始者は、インド商人、アレクサンダー大王の子孫(北インド系)、グプタ朝の亡命貴族、あるいはヒンドゥー教に改宗した現地人など、インドに関わらない人物は見当たりません。

扶南のみは漢字の表記ですが、これは現地に資料が残っていないため、中国の史書に依存しているためです。

扶南においても、インド人の貴族が王位に就いていたことが確認されます。

さらに、5〜6世紀ごろには、南インドサータヴァーハナ朝の後継国パッラヴァ朝がグランタ・パッラヴァ文字を発明し、これが東南アジアへ伝わり、今日のクメール語タイ語ラオス語、ビルマ語などの原型として定着します。(現地民が話す「音」を記述できる庶民語)

ヨーロッパ商人の撤退後、東南アジア地域への積極性を強めたインド商人

さらに7世紀、イスラム共同体の拡大事業がローマ支配下のエジプトに及ぶと、エジプトを失ったヨーロッパ商人がインド洋貿易から姿を消します。

ヨーロッパというドル箱を失ったインド商人は、東南アジアに活路を求め、東南アジア進出の勢いを加速させます。

インド文明にとっての東南アジアとは、古くから資源溢れる魅力的な地域「スワンナブーミ(黄金の大陸”Golden Land”)」として重視されていたのです。(反対に中華文明からは辺境の野蛮国とみなされていたため、移住が進まなかった。)

5~6世紀頃、航海技術の発達を背景に、印中の貿易のネットワークが海路に集中します。

この動きは、交易ネットワークの変更を引き起こし、「マラッカ海峡〜スンダ海峡を通過するルート」が使われるようになります。

こうした変化は、交易ルートの通るスマトラ島とジャワ島の繁栄とシュリーヴィジャヤ王国の台頭をもたらす一方、古いルートを衰退させ扶南が滅亡(550年)。

さらに8世紀、大陸で唐の衰退が始まり、シルクロードの防備の弱体したことは、交易ネットワークの海路集中を助長します。

こうした後押しを受け、シュリーヴィジャヤ王国は、東南アジアのほとんどの島嶼群を傘下に収め、8世紀の終わりまでにメコンデルタの真臘(扶南を滅ぼしたクメール人の国)沿岸部も併合。

9世紀には、王族同士の結婚を通してジャワのシャイレンドラ朝と合同を果たし、東南アジアの貿易ルートの大部分を掌握するに至ります。

さらには中国人の好む貿易資源(犀角や象牙など)の調達を試みアフリカへも進出。

9世紀にアフリカ大陸近海のマダガスカル島、10世紀にはアフリカ本土へ遠征を行うほどの権勢を張ります。

ところが、こうした繁栄は、南インドの勢力に目をつけられる結果を招きました。

1025年、インド洋の富に目をつけたチョーラ朝の思惑を利用したのが、クメール帝国でした。
仏教勢力であるシュリーヴィジャヤ、タルマランガの前に苦境に立たされていたヒンドゥー教国のクメール帝国は、同じくヒンドゥー教国のチョーラ朝に救援を要請。

ここに南インドからのシュリーヴィジャヤ遠征が実現し、チョーラ朝がは見事シュリーヴィジャヤ王国の打倒に成功します。

東南アジアの統治イデオロギー(マンダラ理論)において、王は神に等しい存在です。

ですから、東南アジアの覇権勢力であったシュリーヴィジャヤ王国の敗北は、当然ながら地域の勢力図に混乱を生むことになります。


東南アジアにおけるイスラム教の台頭

こうした中、勢力を強めてきたのがイスラム勢力です。

1136年にマレー半島のケダがイスラム教に改宗すると、1267年にはスマトラ島のサムドラ・パサイがイスラム教に改宗。

15世紀の終わりまでにはマレー半島スマトラ島イスラム化し、この地域を中心に、ジャワなど複数の地域がイスラム教徒の王によって統治されるようになっていました。

東南アジア最後のヒンドゥー教国となったマジャパヒト王国も、シュリーヴィジャヤ王国に代わる形で14世紀までジャワで栄華を保っていました。

しかし、中国・明王朝との不仲が災いし、地域覇権のライバルであるマラッカ王国イスラム教国)への支援を招きます。

(中国の援助を受けた)イスラム教国マラッカ王国ヒンドゥー教マジャパヒト王国を敗った時点で、東南アジア海峡部のイスラム化が確定します。

この交替を機に、「東南アジアのインド化」も終わりを告げることになります。

東南アジア海峡部におけるイスラム支配は、ヨーロッパ勢力の到来まで続きます。

1511年のポルトガルによるマラッカ王国の征服(大航海時代)、
年のスペインのフィリピン占領、
年のオランダのインドネシア占領



インドシナ半島の覇権勢力・クメール帝国の台頭

いっぽうインドシナ半島では、南インドへの出兵要請と同盟によって見事ライバルのシュリーヴィジャヤ王国を倒したクメール帝国が、勝利を噛み締めていました。

敵対勢力を打倒したクメール帝国は、高い農業生産力を背景にインドシナ半島のほぼ全域に勢力を広げます。

西はマレー半島北部、東はカンボジア、北はラオスというカンボジア史の黄金時代を実現し、12世紀には王の栄華を記念してアンコール・ワットを建立。

国内外に王の権威を示します。


ところが、13世紀に離反傾向を示し始めたタイ族に押され始め、15世紀には都アンコールを放棄。

タイ族の王朝(スコータイ朝アユタヤ朝)にインドシナの覇権を譲り渡し、自らは南方のプノンペンへ去ります。

クメール帝国の後退を以て、インドシナ半島におけるヒンドゥー教の影響も下火に向かい、以降はタイ族を中心とする仏教勢力がインドシナ半島の支配権を握ることになります。

結果的に、インド色一色だった東南アジアの文化は、
インドシナ半島ー仏教
・海峡部ーイスラム
カンボジアヒンドゥー教

の3勢力が分かつ格好となり、それぞれが独自性を備えるに至っています。

カンボジアって、なんかインドと似てね? 【フランス人も認める】- カンボジア・インド同祖論①

1. カンボジアってインドと似てね?

インドの後にカンボジアを訪れた人なら、誰もが次のような印象を持つのではないでしょうか?

「インドと似てね?」


カンボジアへ初めて足を踏み入れた時、妙な襲われました。

それは、インドとの親近感です。
特に、カンボジアの伝統文化を体現する古都・シェムリアップであっただけに、その既視感はカンボジア性とインド性の近さを認識させずにはいられませんでした。

人々の顔つきや雰囲気、街や建造物の色調、所々に不備のあるインフラ、都市の作り、商店街に掲げてある看板の雰囲気、またその看板に記されている「どこかで見たことのある」クメール文字。

シェムリアップの都市を歩いて浮かび上がるのは、3年前に南インドの都市群で目撃した都市景観とのデジャブでした。

舗装すらされておらず砂がむき出しの地面。

道路や下水管は、何らかの衝撃で大きく破損し、凹凸だらけで危険なところも共通。

歩いていたらこちらを凝視し、満面の笑顔で話しかけてくる濃い肌と彫りの深さを持った底抜けに陽気な人々。

既に色々な記憶に上書きされつつあった3年前のインドの思い出が、記憶の深層から表層へと舞い戻ってくる感覚でした。


2. 実際にカンボジアがインドが似ているという人は多い

「カンボジアがインドと似ている」という意見は私だけのものではありません。


プノンペンの歴史博物館で見知らぬフランス人と話をする機会があったのですが、彼はしきりに次のように語っていました。

  • 「この地域の人々にはインド人の血が入っていると思う。」


人々の雰囲気、建造物の構造、宗教モチーフのテイスト、この辺りに類似性を感じたそうです。

西洋人の目からしても、カンボジア人はインド人と近く見えた様子。


それは日本のウェブメディアでも同じでした。

Yahoo!!知恵袋で「カンボジア インド 似ている」というワードで検索をかけると45件がヒットし、
「なぜカンボジア人だけインド系が少し入っているのですか?」
といった質問が投稿されています。

両国を訪れた少なくない人が、カンボジアにインドとの類似性を感じている様子。

それでは、カンボジアとインドの間には、本当に類似性が確認できるのでしょうか?


3. 平均顔と文化遺産の比較

実際に、カンボジア人とインド人の容姿を比べても、近いものが確認できるように伺えます。
また、両国を代表する宗教モニュメントも、ヒンドゥー文化が題材である点で共通します。

比較にあたり、まずは両国の平均顔を比較してみましょう。
以下は、「Face of Tommorow」プロジェクトが提供する各国の平均顔から抽出したカンボジア人女性とインド人女性の平均顔です。



「Face of Tomorrow」とは
南アフリカ共和国出身でトルコのイスタンブル市ベイオールを拠点に活動する写真家・Mike Mike氏(1964年生まれ)が旅行中に撮影を許してもらった100人の顔をコンピュータグラフィックスで解像し、平均顔を割り出したプロジェクト。
100人というサンプルの少なさ、偏りが疑問視されがちである※ものの、国別の顔の傾向を知る上では役に立つはず。
(※ 白人人口が9.2%に過ぎない南アフリカの平均顔が典型的な白人顔であるなど)



「Face of Tomorrow」が示すカンボジア女性の平均顔は以下の通りです。

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カンボジア女性の平均顔

丸型で小さい顔、地黒な肌、丸い目、低く幅広な鼻、薄い口などが特徴的。

美形ですね。


続いて、インド人の平均顔。

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インド人女性の平均顔

丸型で小さい顔、地黒な肌、彫りの深い目、尖形の鼻、薄い口などに特徴があります。





f:id:Illuminated29:20190512162653p:plain
カンボジア女性の平均顔
f:id:Illuminated29:20190512151359p:plain
インド人女性の平均顔




両平均顔に確認できる特徴は、顔の形、肌色、口の形、などです。

しかし、やはりこの比較からは、隔たりを感じてしまいます。

インド人女性はイラン系のインド・ヨーロッパ系統、カンボジア人女性はモンゴロイド系統の人種的特徴が伺えますよね。




しかし、「平均は突出を隠す」ように、実際の個人の顔つきを、平均顔から探り出すことはできません。



例えば、以下の少年。(カンボジア・シェムリアップ市)

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シェムリアップ市の少年。(Face of Tomorrow : http://facesoftomorrow.com/cambodia_photos14.phpより)

明らかにインド・アーリア系の特徴を引き継いでいるように見えます。

「100人の平均顔」には表れていませんでしたが、私がカンボジア旅行中に度々インド人と錯覚したのは、上の写真のようなインド・アーリア系の顔付きをしたカンボジア人です。

反対に、タイやベトナム(ハノイ、ホーチミン)には、この系統の顔つきはほとんど見られなかったと思います。




カンボジアとインドの宗教建築を見ても、テーマの類似が明らかに確認できます。

エローラ石窟寺院(インド : 7世紀)

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アンコールワット(カンボジア : 9世紀)

これら建築物の宗教モチーフは、ともにヒンドゥー教。

ヒンドゥー教の発祥地がインドである以上、カンボジアのヒンドゥー教はインドからもたらされたものとしか考えられません。

もしそうであるなら、古代インド人が文化伝播の担い手となり、海を渡ってカンボジアの地に足を踏み入れた形跡があるのではないでしょうか?



こうした「カンボジアとインドの類似性」は、歴史の中に明確なルーツが確認できるのでしょうか?

以降、「カンボジアとインドの類似性」の背景にあるルーツについて、探求していきます。

【旅行者下痢症を2日で治す方法も】カンボジア旅行者への注意喚起と対策3つ

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1〜2ドル。しかし・・・

インドでの最も重要な悟りは、「”安かろう悪かろう”の恐ろしさ」でした。

インドの安い物価は、たしかの目先の節約を実現してくれます。

1泊300円の安宿も存在します。
食事も100円から摂ることができます。

しかし、安さの背景には必ず問題があります。

食あたりや南京虫の寄生など、サービスを利用した後しばらく経ってから、結果的に数倍の代償を支払うことになるのが常でした。


カンボジアは、インドシナ半島の中で最もインド化の面影が残る国です。

インド化の影響がよほど強かったのか、カンボジアは、インドが抱えているような衛生リスクを同様に備え持っています。

カンボジア旅行を甘く見ていると、滞在中または帰国後に重大な損失を負うことになるでしょう。

そのような事態を回避していただけるように、本記事では以下3点について説明します。

カンボジア旅行に潜む衛生問題について
衛生問題に対する防護法
体調を崩した時にとるべき行動


1. カンボジア旅行に潜む衛生問題とは?

在カンボジア日本大使館は、カンボジアの保健事情に関する説明文を、次のような切り口で始めています。

カンボジアの衛生状態は極めて悪く日本とは比較になりません。

まさに、カンボジアに勤務する当事者の苦しみと諦めが表れた一文ではないでしょうか?


日本大使館が指摘する通り、カンボアジアの衛生環境の悪さ、現地人の衛生観念の無さは、日本人の想像に及ばないレベルです。

カンボジアに隣接するベトナムもラオスも、決して綺麗な国ではありません。

しかし、健康被害をきたすような不衛生感はありませんでした。

カンボアジアに近い衛生環境の国を近隣に探すとすればインドネシアでしょうか。

体感では、インド化の強さと衛生環境の悪さは比例しています。

そんなカンボジアの衛生問題は3つに分類できます。

衛生管理のずさんさ、食品の腐敗
浄水インフラの遅れに起因する水道水の汚染
マラリヤやデング熱を媒介する蚊の流行


カンボジアは、熱帯モンスーンに属する暑い国です。

ただでさえ食品の腐敗や蚊の繁殖が起こりやすい中で、現地人の対策は雑です。

無防備のまま訪れると何かしらのトラブルに遭遇するでしょう。
安全なカンボジア滞在を果たすためにも、現地の環境を知っておくこと、対策を打つことが絶対に必要です

2. カンボジアにおける衛生対策は、何をすればいいの?

カンボジア旅行における最悪の事態を想定するなら、それは疫病です。

旅の途中に突如激しい腹痛に襲われ、ホテルで寝たきり状態になることは珍しくありません。

なぜならカンボジアは、先述の衛生問題を抱えているからです。

1. 衛生管理のずさんさ、食品の腐敗
2. 浄水インフラの遅れに起因する水道水の汚染
3. マラリヤやデング熱を媒介する蚊の流行

日本ではまず想定することのない条件です。

しかし逆にいってみれば、この3つさえ塞げばカンボジアの衛生問題は回避できるということです。


1.食品の腐敗

衛生管理のずさんなレストランを使わないことで回避できます。

熱帯モンスーンに属するカンボジアであるからこそ、食品を腐敗から守る技術が発達しているはず。

・・・そのような日本的性善説は、通用しません。

現地人には耐性があるためか、食品の衛生管理はずさんさを極めます。

熱帯の炎天下の中、食品を常温で長時間放置し、再加熱しないまま、顧客に提供するのが当たり前の慣習となっています。

こうした慣習がまかり通るのは、大抵ローカル向けの格安店です。

格安店の利用を控えれば、悪質な健康被害に患る恐れもなくなるでしょう。

物価の安い国を訪れると、どれだけ節約できるかを競いがちです。

また安さに感動して、安い料理を好きなだけ楽しみがちです。

しかし、格安店の利用は控え、外国人相手の商売を商う中〜高級店を利用してください。

食にかかるコストは増えますが、疫病に罹患するケースと比べると確実に割安です。

それに中〜高級店でも、日本の同水準のレストランに比べると安価で楽しむことができます。


それでも低コストにこだわる方は、注文後に加熱してくれる店を利用してください。

高温で加熱すれば、大方の菌は死滅します。

注文を受けてから調理を開始する屋台を選べば、健康被害の可能性はかなり縮小できます。


また、自炊を試みる方は加熱を徹底してください。

日本では当たり前の刺身行為、(生)卵ご飯行為は厳禁です。

市場では川魚が売られていることが多いため、寄生虫を媒介する危険性があります。

卵の衛生管理もないため、どの卵がサルモネラ菌を持っているか分かりません

必ず加熱を徹底しましょう。


2. インフラの遅れに起因する水道水の汚染

30年前、内戦の最中にあったカンボジアには、インフラの整備を行う余裕などありませんでした。

むしろ内戦の銃撃戦は、既存のインフラを破壊し、国力を大きく疲弊させる方向に働きます。

そうした内戦の歴史を辿ったカンボジアのインフラは、非常に劣悪な状態です。

したがって、カンボジアの上水道に浄水機能を期待するべきではありません。
水道水で洗った物は、逆に汚れて返ってきます。

水道水を口にすることはご法度。

深刻な感染症を引き起こす恐れがあります。


水道水が原因で起こる感染症

腸チフス
食べ物や水を介してチフス菌が感染する。
発熱、腹痛をもたらし、高熱が3日以上続いた場合は、医療機関の受診が必要。

アメーバ菌(アメーバ原虫)、細菌性赤痢(赤痢菌)
水を介して感染。
発熱、腹痛、下痢、血便を主な症状とする。


カンボジアの水道水を飲用に用いることは控え、市販のミネラルウォーターを使ってください。

現地価格の2L100円で手に入ります。

体の粘膜に水道水が触れることのないよう、洗浄行為(歯磨き、コンタクトレンズ)も市販のミネラルウォーターで徹底してください。

歯磨きだけで、旅行者下痢症に罹ってしまうことも珍しくありません。(体験談)

とくに要注意なのがコンタクトレンズの洗浄です。

水道水に混入するゴミでレンズに傷がつく恐れがありますし、アメーバ菌の感染経路にもなります。

コンタクトレンズの洗浄に水道水を使うことは、絶対に厳禁です。


とはいえ、水道水の問題は、往々にして旅行者の努力だけでは回避しきれません。

現地人が当たり前のように使ってくるからです。

さすがにコップに水道水を入れて渡してくるようなケースはほぼありません。

しかし、飲料に入っているにリスクが残ります。

コスト削減のために正規の氷を仕入れるのではなく、水道水で作った氷を使う業者も存在するからです。

また生野菜や食器を洗う水はどこも水道水です。

なぜなら、野菜や食器の洗浄に、ハイコストなミネラルウォーターを使う業者はいないからです。

歯磨きが命取りになりかねないのと同様、こうした微量の水道水さえも、致命傷になりかねないのです。


最大の対策は、やはり品質に信頼のある提供者だけを選ぶことです。

氷の原料に水道水を使ったり、食器の乾燥が不十分な店舗は、たいていローカル向けの格安店です。

多少コストが増えても、中〜高級レストランを使うことが逆に旅行をローコストなものにしてくれるでしょう。


実際に発見したお手頃レストランの紹介

コスト面から、どうしても高級レストランは使いたくないという人もいると思います。

そうした人は、先人のレビューを読んで、信頼の置けそうな格安店を選別してください。

先人が無事だったなら、あなたも無事で済む可能性は高まります。

↓ 私も衛生管理の良好なお店を紹介しておきます。

【日本カンボジア友好橋付近】ワットプノンから2kmの安宿街に位置するお手頃レストランWhite Coffee【アンコールワット・クオリティーの飯が120円】 - Ossan's Oblige ~オッサンズ・オブリージュ~


衛生問題を防止する努力をしたにも関わらず、観光客の罹患率20%〜40%とされる「旅行者下痢症」に患ってしまうかもしれません。

そんな時は、必ず現地の薬を使ってください。

これは旅行中、2度罹患した経験から申しあげます。

市内のいたるところに設置されている薬局を利用してください。

逆に御法度なのは、自然治療に任せることです。

これは時間と金の無駄なので、やめましょう。

よく「悪いものが出ないから」といって、腸の活動を止めるタイプの整腸剤を批判する文言を目にします。

私も1度目の罹患時にはこれを信じて自然治療に任せました。

結果、10日経過しても回復しません。

しかし、とあるホテルのスタッフが買ってきてくれた薬を飲んだところ、2日後には回復に漕ぎ着けました。

自然治癒力に任せた10日の間、時間・金を消耗し続けたことは言うまでもありません。

こうした経験があったので、2度目に罹患した時はすぐに薬局へ向かい、薬を購入しました。

腸の活動を止めてしまうタイプの整腸剤でしたが、使用後すぐに下痢が止まり、翌日の午後には健康を取り戻せました。

2日後には服用を止めても、下痢症状そのものが消えてなくなりました。

自然回復は諦め、すぐに薬局で薬を購入しましょう。

薬局では、お腹を押さえながら「ダイアリア(下痢)」とか細く言えば察してもらえ、ローカル価格の1ドル程で販売してくれます。


3. 感染症をもたらす蚊の流行

カンボジア旅行では、蚊対策が欠かせません

なぜなら、マラリアやデング熱を媒介する蚊が流行しているためです。


蚊が媒介する感染症

マラリア
2〜3日目には診断可能。抗マラリア薬を飲むと効果的。アンコールワットの奥地、タイ、ベトナムとの国境地帯では特に注意が必要。
マラリアを媒介する蚊は夜行性なので、夜間の国境移動、バス休憩所を出歩く行為は控えた方が良い。

デング熱
突然の高熱、関節痛、頭痛などの症状が約5日ほど続いた後、発疹や出血班が出る。
確実な治療法がないので、対処療法以外の手だてがない。
デング出血熱にまで発展しすると血小板が急激に減少する。そのため輸血が必要になり死亡することもある。


マラリア、デング熱ともにワクチンがなく、現地の医療機関の能力も信頼できません。

したがって、蚊に刺されない以外の予防法はありません。

マラリア、デング熱は、プノンペンやシェムリアップの中心部では撲滅済みですが、地方では未だ流行中の感染症です。

都市の中心部であっても、近年の経済発展で国内の移動が激しくなりつつある中、安心はできません。

マラリアやデング熱を持った蚊が、地方から持ち込まれる可能性もあり対策が不可欠です。

まず、蚊とのエンカウント率を下げることが大事です。

侵入スペースを塞ぐために、ホテルの窓は極力開かないようにしましょう。

とはいえ、空気の入れ替えが必要ですし、戸を密閉できない造りのホテルも珍しくありません。

そもそも、室内に蚊のコロニーができていることも珍しくないので、窓を閉じたからといって安心はできません。

したがって、蚊取り線香蚊帳で対策しましょう。

蚊取り線香は、現地で販売されています。

移動中に荷物の重さで壊れる恐れもあるので、基本は現地購入で良いと思います。

それでもカンボジアの品質に不安があるという方はこちらかどうぞ。

蚊帳は、カンボジアに限らず、蚊の多い東南アジア旅行では必須アイテムです。

現地販売されている様子はなかったので、日本で用意しておきましょう。



3. カンボジアは衛生対策が欠かせない国

マラリア、デング熱、コレラ、赤痢などの蔓延が示す通り、カンボジア旅行に衛生対策は欠かせません。

そこで、本項は以下のような対策を提案しました。

1. 食事は中〜高級店だけ選ぶ

2. ミネラルウォーターの徹底。
洗浄水もミネラルウォーターで徹底。
中級以下のレストランでは、水道水付着の危険がある生野菜は避け、食器を拭く

3. 蚊取り線香と蚊帳で蚊を予防する


それでも体調不良が出た場合は、現地の医療システムを利用しましょう。

症状が軽い場合は、薬局へ足を運び、薬を購入しましょう。
自然治癒を試みるのは、金・体力・時間を、延々と消耗するのがオチです。

現地の病に対して、最適な対処ノウハウを持っているのは現地人です。

現地価格の1ドル程度で有効な薬が得られるので、すぐに薬局に向かってください。

症状が重い、薬が効かないといった場合、それは医師の診断を要する疾患かもしれません。

在カンボジア日本大使館によると、カンボジアで満足のいく医療を提供する医療機関は僅かです。

したがって、厳選しなければなりません。

以下に転載するので、参考にしてください。

インターナショナル SOS クリニック
・所在地:No.161、Street51(米国大使館北隣)
・TEL:023‐216911(受付)、012‐838283(邦人担当)
・診療科: 内科、外科、小児科、歯科
・備考 : 日本語スタッフ常駐。

Somary Medical Services
・所在地:プノンペンホテル
・TEL:855‐23‐991166
・診療科:内科、外科、小児科
・備考 : 日本語スタッフ常駐。

NAGA Clinic(ナーガクリニック)
・所在地:No.11、Street 254(オーストラリア大使館の通り)
・TEL:011‐811175
・診療科:内科、外科、小児科、産婦人科、耳鼻科、眼科、形成外科
・備考 : 日本語スタッフはおらず、英語またフランス語での診療となる。


4. さいごに

カンボジアは健康リスクの高い国です。
旅のプランを履行する上では、3種類のリスク(食べ物、水、蚊)回避が絶対の条件となります。

また、旅行者下痢症の罹患率20-40%という現実から判断すると、インドとならんで、旅行保険が必須な地域かもしれません。

【日本カンボジア友好橋付近】ワットプノンから2kmの安宿街に位置するお手頃レストランWhite Coffee【アンコールワット・クオリティーの飯が120円】

マラリアやデング熱が蔓延するカンボジアは、インドと並んで貧乏旅行を勧められない国の1つです。
低予算の旅では、現地の劣悪な衛生環境を避けることができず、普通に危険です。

衛生リスクへの対処法としては、先進国基準を満たしうる中〜高級レストランを利用することが大事です。

とはいえ、1回の食費に多くを費やしたくない方も多いでしょう。

そこで今回は、観光エリア(ワットプノン)付近にある、安価・安全の条件を満たすローカルレストランについて報告します。

ワットプノン付近は、安価で衛生基準を満たす外食店は僅かです。

付近には安宿も林立し、ワットプノン付近に滞在する際の、重要な食料調達先として機能してくれるはずです。


1. カンボジア滞在中に気をつけたい衛生問題


カンボジア料理と日本食の味付けが近い
ことはあまり知られていません。

日本人の口に合う美味な料理を食べるのに、1食あたりの相場は1~2ドル

「美味しいカンボジア料理を食べ放題」ですから、カンボジア旅行はグルメ旅行の側面を持ちます。

しかし、ここで安さに飛びつくと後で痛い思いをすることになります。

衛生管理の雑なカンボジア食を、日本の感覚で手当たり次第に摂取すれば、体調を崩すことは明白。

治療費、養生費、時間などを総合して、結果的に赤字を被ることになるでしょう。

※カンボジアの基本的な衛生情報と対策については↓の記事を参照。「発症率40%ともいわれる旅行者下痢症」の解決方法まで記しています。
www.ossanns-oblige.com


水道水の汚染、食器洗浄の不十分さ、油の使い回し。
こうした衛生条件は、日本ならまず保健所から注意されるレベル。

都市を歩けば、熱帯の熱気の中、何時間も前に作った料理を店頭に並べ、ハエがたかる料理を再加熱もせずに顧客に出している光景があちこちに広がっています。

ずさんな衛生管理で体調を崩せば、せっかくの旅行プランが台無しです。

そこで頼りたいコンビニエンスストアも、食欲を満たすに及ばない菓子類は豊富ながらも、弁当類は見当たりません。(あっても高価なサンドイッチなど)

仕方なく、中〜高級レストランを使えば、安全性と一緒にコストも跳ね上がります。

したがって、「安いローカルレストランが欠かせない」という人が絶対にしなければならないのが、信用に足るレストランの選別なのです。


2. カンボジアの飲食店への信用は禁物

お店を紹介する前に注意したいことがあります。

それは、カンボジアのいかなるレストランも、信用しきってはいけないということです。

なぜなら、蛇口から出てくる水道水が汚染されているからです。

さすがに低級店でも、水道水をコップに入れて渡してくるようなことはありません。

しかし、汚染された水道水を、生野菜や食器の洗浄に充てるのは当たり前の行為です。

ローカル人には細菌耐性があるのか、微量の水道水は問題ない様子。

しかし、耐性のない旅行者は、水道水の一滴が口に入るだけで、細菌を取り込み、健康に異常をきたす原因になってしまうようです。

激しい下痢症状は「旅行者下痢症」と呼ばれ、先進国からの旅行者を苦しめています。

少々の汚染を厭わない耐性を持つ現地人は、耐性を持たない外国人を慮れない様子。

ときには中級店や高級店でも体調不良が報告されるほど。


これはカンボジアの水道水がダメなことに自覚が及ばず、野菜などの洗浄水として使ってしまうからです。

そのためカンボジアのレストランでは、以下2点が鉄則です。

生野菜の摂取を避ける
口に入れる食器は、使用前にテーブルに置かれているティッシュで拭う

これから紹介するレストランは、健康問題なく、連日に渡り利用することができました。

それも、生野菜の摂取は避けたという前提つきです

水道水がダメな以上、火を通さない、いかなる料理も口に運ぶべきではありません。


2. プノンペンのワットプノンから2kmの距離に位置するWhite Coffee

ワットプノンは、プノンペンを象徴するトンレザップ川のほとりにある、プノンペンで一番高い山の上に建てられた寺院です。(インドから伝わった山信仰を象徴)

付近には王宮やアメリカ大使館があります。

White Coffeeが立地するのは、こうした観光エリアから一歩外れた地区。

観光エリアとローカルエリアの境目に位置し、ワットプノンからフランス大使館の方向へ向かって通りすぎた場所にあるローカルエリアの入口というロケーション。

White Coffee(Cafe Brother)
・所在地: 70 St, Phnom Penh, カンボジア
・営業時間: 5:00 ~ 19:00

なおGoogleの表記はWhite Coffeeですが、現在ではCafe Brotherに改名されています。


3. White Coffeeが推薦に値する理由

評価点は以下2つです。

料理のお値段以上のクオリティ
オーダー後に調理してくれるので衛生的



メニューは、単品4,000R~10,000R(1ドル〜2.5ドル = 111円〜277円)というお手頃な価格。

お腹が膨れるだけのボリュームもあり、味付けもたいへん美味です。

カンボジア料理特有のシンプルさはありながらも、価格以上のクオリティに驚くでしょう。

実際に出てきた料理の写真を並べます。

Rice with Beef - 7,000R(1.75ドル= 194円)

衛生管理の雑なローカル店のように店頭で長時間放置された食品を盛るのではなく、オーダーを受けてから奥の厨房で調理してくれます。

完成までやや時間はかかります。

しかし、加熱を行った証なので衛生的。

逆に信頼感が持てます。

お店も日本のレストランに見劣りしないくらいお洒落で清潔です。

※野菜盛りですが、火を通さない食品は水道水の汚染の恐れがあるため除去してください。

3. White Coffeeの様子

通路から見える外装はCafeそのもの。
お店の前に掛けてある料理のメニューから、レストランを営んでいることが分かります。

店舗の前にあるカフェブースの中で、女性スタッフが暇そうにスマホをいじっているのがデフォルト。

入り口付近まで進むとブースから出てきて笑顔で対応してくれます。

オーナーの女性は気さくで愛想がよく、雰囲気からおそらく親日の人。

ホスピタリティに溢れ、客を心から大事にするタイプ。
信頼で集客する姿勢が前面に表れており、その点も日本人好みだと思います。

メニューの文字はクメール語ですが、女性スタッフは英語が流暢なので意思疎通には困りませんでした。


4. White Coffeeへのアクセス

トンレザップ川の上に掛かるカンボジア日本友好橋からほぼ直線距離でアクセスできる店舗。

日本カンボジア友好橋の末端
日本カンボジア友好橋を渡ってすぐの「キャノン」の看板が目印

カンボジア日本友好橋から市内方面へ真っ直ぐ進むと、ロータリーがあり、道が4,5方向に分岐しています。

大きなロータリー
日本カンボジア友好橋から正面の街道に進んでください。
”Bayon Barkery”というよく目立つパン屋があるので、右手に見ながら、真っ直ぐ進みます。


すると、黄色い中央分離帯のある二車線の道路にぶつかります。

この道を道路の右側から進み、3番目の街路時を曲がってください。
安宿街であることを示す看板が路地の右側に並んでいます。

(この安宿街のはじめにあるCHOL HENG GUEST HOUSEは、10ドルの価格で設備的にもgoodです。若干のマイナス点もある安宿ですが、詳しくは↓を参照してください。)
www.ossanns-oblige.com


この街路地を進んで奥、右手側にWhite Coffeeは立地しています。
一見カフェに見える外装で分かりにくいですが、奥に食堂があります。

客入りは、朝方は多いものの、昼〜夕方は空いています。

内装や雰囲気もおしゃれで落ち着ける雰囲気。

バイクの喧騒から離れたいときにも使えるお店です。


6. さいごに

カンボジア旅行最大の敵、劣悪な衛生環境を乗り切るには、食の選別が絶対です。

(コンビニ弁当が乏しいので、日本のセブンイレブンやファミリーマートには進出先として狙い目だと思う。)

安全な旅行のためには、中〜高級店を使うのがセオリーです。

グレードの低いローカル店の利用はなるべく避けましょう。

今回紹介したレストランは、あくまで低予算の旅に使う妥協策です。

ちなみに私は、格安店にこだわり続けた結果、2度旅行者下痢症を患い、カンボジア旅の約50%を養生に費やした経験の持ち主です。
(詳しくはこちら→【旅行者下痢症を2日で治す方法も】カンボジア旅行者への注意喚起と対策3つ - Ossan's Oblige ~オッサンズ・オブリージュ~

安い食品は目先の節約を実現してくれました。
しかし、食あたりのために12日間にかけて養生を要し、その間の時間、食費(治療のため多め)、ホテル代を私の財布から奪っていきました。

どう少なく見積もっても、安い食品で浮いた金の20倍は支払っています。

これはインドの南京虫との関わりと似ていて、改めてカンボジアとインドの類似性を感じた次第です。

つまり、「安かろう悪かろう」です。

そのような中、ローカル店に該当するはずのWhite Coffee(Cafe Brother)は、質・安全性ともに、ハイパフォーマンス(アンコールワット・クオリティー)を発揮してくれる例外的なお店です。

現地を訪れた際、推薦に値すると評価したため、紹介させていただいた次第です。

今回の投稿が皆様の安全なプノンペン旅に少しでも役立つのなら投稿主として幸いです。
一読くださり、ありがとうございました。

【日本の半額で焼肉?】ベトナム・ホーチミン3区にある日系焼肉店「ぶたさま」に行ってみた

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ベトナムの日系店もベトナム価格なの?

「ベトナム」と聞くと、まだまだ物価の安い国というイメージを持つ人が多いと思います。
実際、日本との経済格差は大きく、2017年のベトナムのGDPは日本の1/20に満たない規模でした。(ベトナム : 2237.8億ドル、日本 : 4.872兆ドル)

実際の物価は、日本の1/2から1/3ほどです。
(↓こちらの記事でも紹介しましたが、ホーチミンは日系コンビニ店の弁当が150円で食べられる都市です。)
www.ossanns-oblige.com


では、次のような疑問を持つ人もいるのではないでしょうか?


「ベトナムの日系店を利用すれば、日本食も安く食べられるの?」


こうした疑問に対し、今回は「焼肉」という観点から答えてみたいと思います。


ホーチミン3区の「ぶたさま」に行ってみた

ホーチミン1区と3区の隣接するエリアにかけて、日系焼肉店の数は約15件。

今回は、ホーチミン3区にある「ぶたさま」に足を運んでみました。

選択の理由は、名前がユニークだったからです。



大勢のバイクが道路を行き交う、ベトナムにありきたりな風景。
ホーチミン3区の道路に面するこのお店は、サイゴン駅から650mの距離にあります。

真っ黒な外装な上、店の前にはバイクが並べてあるので、パッと見で焼肉店ととは認識しづらいかもしれません。
私も、初見ではバイク屋のガレージと勘違いして、素通りしてしまいました。

店の入り口に足を進めると、奥から日本人のスタッフの方が現れて、対応してもらえます。



お店の様子

お店の内部は奥に広く、2階構造。

口コミでは、2階席が煙の関係でやや不評気味の様子。
自分は2階には足を踏み入れていませんが、おそらく空気の循環が悪いのでしょう。
自分が案内された1階席は入り口に面しており、外気の循環も良かったため、問題に感じることはありませんでした。

スタッフは、若い現地人の方が多く、人員の多さから賑わっている様子が伝わってきます
日本人のスタッフは、数名いらっしゃる様子。
自分が訪れた際は、気さくでイケメンなTさんというマネージャーの方に対応していただけました。



ぶたさまのメニューは安い?

2018年1月にオープンしたばかりの「ぶたさま」ホーチミン店。
日本では、東京の代々木と江古田で2店舗が営業しているとのこと。

公式ウェブサイトも運営されており、サイト内に掲示されているメニューで価格を参照することは難しくありません。

そこで実際に、日本の支店に比べて、何倍の倍率で安く食べられるのか検証してみました。

ぶたさま・ホーチミン店のメニュー

ホーチミン価格(円) 日本価格(円) 倍率(倍 : 下3桁切り捨て)
ホルモン各種 49,000ドン(234円) 280(円) 0.84(倍)
コリコリなんこつ 79,000ドン(378円) 580(円) 0.65(倍)
ハツ塩 89,000ドン(426円) 580(円) 0.73(倍)
柔らかカシラ 69,000ドン(330円) 680(円) 0.49(倍)
ハラミ 79,000ドン(378円) 680(円) 0.56(倍)
ぶたさま3点盛り 209,000ドン(1,000円) 1,780(円) 0.56(倍)
冷やしナムル 41,000ドン(196円) 400(円) 0.49(倍)
酢もつ 34,000ドン(163円) 500(円) 0.33(倍)
ライス(大) 22.000ドン(105円) 400(円) 0.26(倍)
やみつき塩サラダ 59,000ドン(282円) 680(円) 0.41(倍)
特性ポテトサラダ 49,000ドン(234円) 580(円) 0.40(倍)
わかめスープ 59,000ドン(282円) 480(円) 0.59(倍)
玉子スープ 65,000ドン(311円) 480(円) 0.65(倍)
地獄の激辛スープ 81,000ドン(387円) 980(円) 0.39(倍)
ぶたさま特製冷麺 115,000ドン(550円) 980(円) 0.56(倍)
バニラアイス 38,000ドン(182円) 250(円) 0.73(倍)
ハイボール 75,000ドン(359円) 390(円) 0.92(倍)
カシスオレンジ 70,000ドン(335円) 580(円) 0.58(倍)
ウーロンハイ 68,000ドン(325円) 490(円) 0.66(倍)
黒霧島(ボトル) 855,000ドン(4,090円) 2,090(円) 1.41(倍)
黒霧島(グラス) 77,000ドン(368円) 560(円) 0.66(倍)

同じメニューに関する限り、ぶたさまホーチミン店では、ほぼ全てのメニューが日本価格よりも安く注文できることが分かりました。

例外は、いも焼酎の黒霧島(ボトル)のみです。(ホーチミンで呑むと1.41倍高い)

安さの背景にあるのは、現地での調達難易度が関係しているのでしょう。

これは、ベトナムに豊富な野菜(サラダ)や米(ライス)の顕著な安さ(日本価格に対して26%~41%ほど)からも伺うことができます。

肉は、およそ20~50%OFFの価格で、たいへんリーズナブルです。

ライス大も、日本の1/4(105円)で注文できるので、お腹いっぱい食べることができます。


実際に出てきた肉

価格が安くとも「安かろう悪かろう」では意味がありません。

そこで、実際に出てきたお肉をアップすることで、品質検証に換えたいと思います。

結論から言うと、日本で口にする焼肉とほぼ変わらない味わいでした。

肉質の悪さ、固さなどは感じません。

Googleの口コミを読んでも、概ね私と似たような評価のようです。

ホルモン。49,000ドン(234円)

豚ロース。69,000ドン(330円)

七輪に乗せて焼きます。

ホルモン盛り3種(149,000ドン : 714円)+ライス中(18,000ドン : 86円)


タレの調子も日本クオリティ。肉の動物性に複雑性が加わって、最高においしい。

久しぶりの肉にがっつく僕に、Tさんは遠慮して、会話の速度を緩めてくれていましたw


日本クオリティの焼肉を食べて大満足。

色々と情報をくれたTさんにもお礼をして、お会計へ進みます。

ホルモン(49,000ドン)+豚ロース(69,000ドン)+ホルモン3点盛り(149,000ドン)+ライス中(18,000ドン) = 285,000ドン

28万5000ドンは日本円で1,365円です。

これだけ食べて1,365円・・日本ならあり得ない価格ですね。



ぶたさまを利用しての感想

先進国民らしからぬ貧乏旅行なんてやってると、現地民から冷ややかな目で見られるもの。

しかし、ぶたさまを出た後は違います。

現地の中流以上のレストランにお金を落とし、先進国民としての義務を果たしたとなると、現地民の見る目も変わります。

大きく膨れたお腹をやや見せびらかすように、ゆっくりと帰路につく途上、栄養面が改善されたせいか、いつもよりスムーズで大きな足の運び。

宿に着きひと段落すると、グルメ的な満足感に促され、徐々にまぶたが重くなってきました。

その日の眠りは深く、翌日の目覚めもスッキリ。

活力的なエネルギーは、日を跨いでも翌日に持ち越されていました。

これらは全て、ぶたさまあっての満足感です。(豚肉様への敬意。そういうコンセプトらしい。)


日本人の店員も気さく

普段は駐在員や現地人で賑わっているこのお店。

夕刻前に私が訪れた際は、偶然人入りも少なく、日本人マネージャーの方とお話しする機会に恵まれました。

気さくなお兄さんで、少し会話して打ち解けると、ホーチミンの現地情報なども教えてくれます。
入国直後の旅慣れしていない状態だと、きっと役に立つアドバイスを貰えるでしょう。(正直、スタッフの給料はどれくらい払ってるんですか?とか野暮ったい話も聞いておけばよかったw)

ホーチミンネタから人生相談まで、幅広い話題に対応していただけたことも、焼肉の席を楽しめた大きな要因でした。

安くておいしい肉だけでなく、情報収拾にも役立ってくれるお店です。(普段は客入りが多く、忙しいようですが。)

ホーチミンを訪れた際は、ぜひ利用してみてください。

ぶたさま
所在地 : 19D Kỳ Đồng, Phường 9, Quận 3, Hồ Chí Minh, ベトナム(サイゴン駅から徒歩650m)
電話 : +84 28 3931 1696
営業時間 11時00分~23時00分


8世紀の中国・雲南地方に存在した南詔とは?【タイ族、ラオ族、ビルマ族の故郷】

今日、自国の多数派を占めるタイ族、ビルマ族は、ともに雲南地方から東南アジアへ移住してきた部族です。
この「南詔」とは、どのような歴史を歩んだ王朝だったのでしょうか?

南詔(737~902)とは?

南詔とは、8世紀に、中国南部の雲南地方(中国本土とインドシナ半島の境目に位置する地域)に成立した国です。
2つの地域に隣接するこの地域は、多民族、多言語の非常に「カオス」な環境でした。

文明の交接点に位置する地域。複数の民族による部族連合だったと考えられている。

この国の内情については、他国の史書を通して知る他ありません。
そのため、多分にナショナリズムが介入し、議論は錯綜しがちです。

南詔の民族系統については、学者によって見方が異なります。
中華系の歴史家は、3~4世紀に中国本土の騒乱から逃れてきたペー族を支配民族と見なしがちです。
一方、非中華系の歴史家は、のちに東南アジアへ南下するビルマ族やタイ族を支配階級と見なす傾向があります。

食習慣は農耕、牧畜が基本。
のちにタイ族やビルマ族がインドシナ半島で発揮する優れた農耕技術も、雲南で培った技術でした。

南詔の宗教は、タントラ仏教(後期密教)との関わりが強く、観音菩薩やマハーカーラ(シヴァの化身。仏教における大黒天のルーツ)の信仰は、中国仏教とは特色を異にしています。

南詔の成立

南詔が成立した雲南地方は、古くからインドと中国を結ぶ重要な地域でした。
両大国間の貿易ルートが通過する雲南へは、中国皇帝の命令によって、古くから道路が整備されていました。
しかし、漢人が勢力を定着させるには至りません。
なぜなら、南詔はインドへ至る貿易ルートのみならず、山岳地帯特有の険阻さ、そして紅河、長江、メコン川の水系が集まる肥沃さを備えていたからです。
さらに中国本土から離れた地の利も加わり、雲南を直接統治に置くのは、至難の技だったのです。

中国の史書によると、紀元前3世紀、楚王朝の支配が及んだことで雲南の中国化が開始されました。
それまで、雲南の地には、滇(Dian)と呼ばれる非中華系の民族(タイ族との関連性に言及する人類学者もいる)が居住していました。楚王朝が秦の始皇帝によって脅かされると、前279年に楚王朝のZhuang Qiaoという武将が滇王国として独立し、中国移民を呼び込み、雲南の中国化に先鞭を付けます。

その後、秦の始皇帝の統一(紀元前221年)、前漢の武帝による統一(前109年)といった契機ごとに、道路の整備、行政区の設置などを通して中国化が進展していきます。

前漢の武帝は益州を設置し、中国雲南省最大の湖・滇池に司令部を設けました。
それ以外の区を「雲南」と呼んだことを以って、初めて「雲南」の名称が歴史に登場したと考えられています。
また、始皇帝が築いた道路も、貿易のためにインド方面へ拡張され、「西南夷道(東南部の野蛮国へ至る道)」に改名されました。

漢帝国の分裂後は、雲南も独立を掲げますが、225年に蜀の諸葛亮孔明の攻撃を受けて降伏しています。
この頃から、爨族(Cuan)の移住が開始したと考えられており、4世紀、中国本土が遊牧民によって荒廃すると移住が加速し、320年代には雲南の支配権を握ります。

その後7世紀までおよそ4世紀の間、独立勢力としての爨族(Cuan)の支配が続きます。

ところが、爨族が隋王朝に対して反乱を起こしたため、602年に報復を受けて滅亡。
爨族は2つの部族に分割され、そのうち白族は、肥沃な洱海周辺に居住し、6つの王国を築きました。
これが南詔の前身である「六詔」です。(蒙舍、蒙嶲、浪穹、邆賧、施浪、越析)


この雲南に割拠した6つの王国(詔)は、雲南の統一を巡り、互いに争います。

そんな中、雲南を手に入れたい唐王朝は、この騒乱を利用することを画策。
蒙舍(六詔のうち最南部)の王・皮羅閣を支援し、衛星国の創出を企てます。

皮羅閣は、唐の後押しを受けながら六詔を平定し、雲南統一を達成します。
738年には、唐王朝から「雲南王」に封じられ、今日の大理から近いTaiheに都を築きます。
こうして創始された王朝が「南詔」です。

唐、吐蕃との関係

当初は、六詔の統一を快く認めていた唐。
しかし、予想外の展開が起こります。
南詔が、六詔統一の勢いのまま、北西地方に版図を広げ始めたのです。
この南詔の勢力拡大は、唐と領土紛争を巻き起こし、両国の関係は悪化。

唐は、雲南に県(姚州)を設置し、間接統治することで、南詔の自治力縮減を企図しました。
750年、これを受けた南詔王・閣羅鳳は、唐が設置した県(姚州)を攻撃し、唐から派遣されていた長官を処刑します。

さらに唐との国境付近にまで軍を差し向け、唐との君臣関係の終了(独立)を宣言。
同時に、唐の報復に備えるため、唐と争っていたチベットの吐蕃と同盟を締結します。(吐蕃が兄、南詔が弟)

南詔の予想通り、751年に唐から8万の漢軍が雲南に押し寄せます。
しかし、南詔・吐蕃連合軍は、撃退に成功。
754年には、再び10万の漢軍が送られるも、再び返り討ちにします。

折しもこの頃、唐で安史の乱(755~763年)が発生します。
内乱鎮圧に苦しむ唐は、南方の雲南地方に手が回りません。
おまけに唐の軍隊は中国北東部に派遣され、地方の防備に弱体が生じます。
これに乗じて、南詔は更なる勢力拡大を決行。
中国北部に軍を進め、現代の四川省と貴州省の地域をえぐり取ります。

赤 : 雲南、青上 : 四川、青下 : 貴州

しかし、安史の乱は763年に鎮圧され、787年には、唐が勢力を持ち直します。
すると混乱から回復した唐は、南詔に奪われた地域に攻撃を加えます。

そして、南詔も反撃として・・・という展開を予想するところですが、南詔は唐と手を結ぶ道を選択しました。
794年には、唐との国交回復に転じ、今度は吐蕃との同盟を破棄に持ち込みます。

この急激な外交政策の転換には、次のような背景が考えられます。

・吐蕃から下される従軍命令(対ウイグル戦)は、南詔の軍力を疲弊させ、反感を買っていた。
・唐が主敵である吐蕃を破るために南詔を味方に引きれようとしていた。

国交を回復した唐から改めて「南詔王」の称号が与えられると、801年には、唐・南詔連合軍で吐蕃を撃破。

しかし、南詔と唐の友好もつかの間でした。

安史の乱による唐の弱体を見抜くと、南詔はすぐさま攻勢に転じ、唐に攻撃を仕掛けます。
829年には、商業都市・成都を略奪。
その勢いのまま、830年代に近隣の国々を攻撃し、東部で崑崙、南部でNuwangを征服。

さらに東部では、当時まだ中国領だったベトナム地域に攻撃を加え、846年に安南都護府を襲撃。
859年に唐の宣宗が死亡すると、侮辱を含んだ追悼文を送り、トンキン(北ベトナム)に攻撃を加えます。
これにより唐との同盟関係も終了。
863年には、安南都護府を陥落させ、3年間統治しています。


滅亡と雲南のその後

9世紀中頃から、アジアの勢力図が大きく入れ替わります。(日本は平安時代中期。竹取物語や伊勢物語が成立し、菅原道真が遣唐使を廃止するなどしていた時期)

唐(中国本土)
黄巣の乱の鎮圧で活躍した朱全忠に帝位を奪われ907年に滅亡。五代十国時代へ。
吐蕃(中国南部〜中央アジア)
弱体した唐(751年のタラス河畔の戦いの敗北、763年まで続く安禄山の乱)に入れ替わる形で中央アジア最大の勢力となっていたが、後継者争いで分裂。842年に滅亡。
ウイグル(シルクロード)
王朝内の分裂がキルギスの侵略を招き、840年に滅亡

南詔もまた、滅亡を免れることはできませんでした。

9世紀後半には、唐王朝の弱体に乗じて占領した四川と貴州の放棄を余儀なくされます。(それぞれ873年と877年)

さらに、宮廷内での華人官僚の台頭が顕著となり、南詔の王族を脅かします。
897年に南詔王が漢人によって暗殺される事件が起きると、902年には漢人権臣・鄭買嗣がクーデターを起こし、王を含む南詔王室800人を虐殺。
これにより、南詔王室は断絶を迎えます。

南詔を引き継いだ鄭買嗣は、国名を中国式の大長和に改名しますが、この鄭家も短命で終焉。937年まで短命の王朝が2つ続きます。

結局、937年にチベット・ビルマ系(今日のペー族)の段思平が大理を創始したことで、ようやく雲南の安定が実現しました。
当然ながら大理朝もクーデターに直面しましたが、鎮圧に成功し、段氏政権の維持に成功しています。
唐の後を継いだ宋王朝とも主君の関係を結び、ビルマやベトナムとも通商関係を結んで万全に備えます。

ところが13世紀、中国支配を目指すモンゴル勢力が押し寄せると、1253年にはこれに服従。
段氏政権は、土司(中国王朝が異民族に与える行政資格)としての存続を目指しますが、元朝のフゲチが統治者に据えられ、大理王朝の断絶を余儀なくされます。

こうして成立した元朝も明の成立(1368年)によって中国を追われ、1390年に明王朝が雲南を解放すると、雲南は中国王朝に併合されました。
以降、独立王朝としての雲南の歴史は幕を閉じ、中華帝国の地方に組み込まれることになります。

東南アジア地域への拡大


南詔の領土拡大の矛先は、唐へ向かう北部地方だけでなく、南部へも向かいました。

唐への対抗のために対チベット同盟を確立した2代目の王・閣羅鳳は、さらに西方の地域から支持を得るため、途上のビルマを抑えることを画策します。
これにはインドへ至る貿易ルート確保の目論見もあり、754年頃から南方のビルマへ進軍を開始。
南詔の尖兵には、傘下のビルマ族があてがわれ、763年にはイラワディー川上流部の征服に成功します。
その後、800-802年、808-809年に遠征が実施され、遠征が行われる度に、ビルマ族のコロニーが拡大していきます。
832年には、ビルマを支配していたピュー族の中心都市ハリンを侵略し、捕虜3,000名を連れ去りました。


雲南を出発した民族

タイ系民族のタイ族、ラオ族、シャン族、およびビルマ族は、全て雲南に発祥を持つ民族です。
今日インドシナ半島の多数派を占める民族(タイ族、ラオ族、ビルマ族およびその系譜)は、東南アジア先住の民族(ピュー族、モン族、ラワ族、クメール族など)に対して優位を勝ち取り現地に根付きました。
同時に、インド化した先住民族との同化を通して、今日まで続く文化概念が形成されます。

南下ルートには、雲南からインドシナへ抜けるメコン川が用いられました。
南詔時代の農耕を継承したため、水の豊かなメコン川の水系付近に、小規模の都市国家(ムアン)が築かれることになります。
南詔で培った優れた農耕技術は、先住民族を上回る速度で、ムアンの人口を倍増させます。
やがて小規模のムアンを統一する勢力が現れ、先住の支配民族を駆逐(同時に同化)することで、現地の支配権を掌握していったのです。

東南アジア進出の年代は、タイ族とビルマ族で若干異なります。

タイ族の進出は、7世紀まで遡ります。一方、ビルマ族は8世紀です。

638年、タイ北部のチェーンセーン(今日のチェンマイ)にて、タイ族のムアン・ヒランが、クメール族のラヴォ王国(クメール帝国の衛星国。当時のインドシナ西部の支配王朝)から地方領主を任された形跡が確認できます。
これは南詔成立のほぼ100年前であり、タイ族のインドシナ進出は、南詔成立以前から開始されていたことを示唆しています。
長大なメコン川を渡り、水流付近の小都市(ムアン)で数を増やしたタイ族は、ラヴォ王国の軍事傭兵として役目を果たしつつ、徐々に台頭していきました。
このムアン・ヒランはやがてグンヤーン王国としてラヴォ王国から独立し、今日のチェンマイの土台を形成するラーンナー王朝へと発展していきます。

タイ族の移住は、南詔の滅亡、モンゴルの征服といった契機ごとに加速し、13世紀のスコータイ朝、ラーンナー王国、そして14世紀のアユタヤ朝の成立に至ります。
1453年には、アユタヤ朝がクメール朝の首都アンコールを陥落させ、インドシナ最大の勢力に座に登りつめることになります。
またタイ地方だけでなく、ラオス、ビルマやベトナムへも移住を進め、シャン族(ビルマ東部シャン州)、ラオ族(タイ族から自立)、ベトナム(少数派の黒・白・赤タイ族)を形成しました。

一方、ビルマ族は、8世紀の南詔のビルマ攻撃以降に移住を開始したものと見られています。

それまで、ビルマの地は、中心都市ハリンを中心にピュー族が支配していました。

ビルマ王統史では、832年のビルマ族の攻撃によってハリンは壊滅し、無人地帯となったピュー族の都市国家に置き代わる形で、849年に城壁都市パガンが成立したという見解がなされています。
しかし、現代の放射性炭素年代測定の結果、パガンで発掘された最古の遺構(城壁)は980年という年代を示しました。
これはパガン朝の創始者アノーヤターの即位から64年前の年代です。
同様に、放射性炭素年代測定は、870年代までハリンに人々が居住していた形跡を示唆しています。

これらの証拠は、ビルマ族の台頭がそれほど急激ではなかったことを示しています。
おそらくは、イラワディー川上流を中心に、3世紀に渡って徐々に勢力を広げ、1044年の統一勢力(パガン朝)の成立に至ったのでしょう。

その後、ビルマ族のパガン朝は、モンゴルと通じたタイ族系のシャン族によってビルマ統一を破られるも、16世紀に再びポルトガルの援助を受けながら、ビルマ族の力によってビルマ分裂期を収拾することに成功しています。(タウングー朝)


その後、同じ雲南からインドシナ半島へ辿り着いたタイ族とビルマ族は、インドシナの覇権を巡って互いに衝突を重ねることになります。
16世紀以降、約20度の泰緬戦争が行われており、英仏の帝国主義が訪れる19世紀まで、この「戦国時代」が止むことがありませんでした。


タイ・ビルマ族が、先住民族(ピュー、モン、クメール)に置き換わる過程で進んだ同化は、中国南部と先住民のインド的要素を融合させ、東南アジア独自の文化を誕生させました。
本土では中国に同化された雲南の民族と文化は、インドシナへ渡り、独自の変容を遂げながら今日に存続しています。

【価格に基づくカースト制度】バンコクで宿泊したホテルの評価9つ

神の国タイランド。
宿泊施設にもインフレの波が押し寄せつつあります。
しかし都市そのものの高級感、あるいは物価の安さなどから、気になりません。

チェックアウト12時という利便性も旅の充実度を高めてくれます。

タイの電源は変圧器不要。
日本製機器の電源プラグをそのまま差し込んで利用できます。

カオサンロード付近

7 Holder Guest House

エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地 : 216 Khaosan Rd, Khwaeng Talat Yot, Khet Phra Nakhon, Krung Thep Maha Nakhon 10200
電話 : 記載なし
価格 : 1泊250TBH(ファン : 875円)


設備

2~3畳ほどの狭い部屋にベットと物たてがあるだけの部屋。
エアコン、冷蔵庫無し。
共用のバススペースは温水が、衛星管理はインド水準。
壁は薄く、隣の人の咳込みが聞こえてくる。

Wifi

Wifi IDが3つほど用意されていたが、全て安定しない。
接続成功と表示されるが、ほとんど途切れたまま。

清潔度

狭い空間の奥に段があり、その上にトイレが乗っている。
隅に、蛇口と水を貯める溝があり、桶で水をすくって洗浄を行う。
石鹸、シャンプーなどのアメニティは、バスタオルを除き皆無。(必需品はあらかじめ用意しておく必要がある。)
トイレットペーパーもないので、インド式の水洗ルールが適用される。
ゴミ箱に使用後のトイレットペーパーや生理用品が残っていたりすると、悪臭もする。
またトイレを流すタブもないので、桶ですくって手動で流す。これをサボる客が少なからずいる。
大勢の旅行者たちの汚物が地面を流れたまま、定期清掃もないと思うと普通に気持ち悪い。
衛生的的に酷い。

立地

カオサンロードに立地するゲストハウス。
バンコク図書館がある方面からカオサンロードに入り、50mほど歩いた先にある。
付近にセブンイレブンが2つあるので、物資調達に便利。
ただし、賑やかなエリアなので、夜になると大音量のEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)が室内に響き渡る。
深夜3時ごろに出歩くと結構ヤバい感じの外国人が集まっていて、スラム感がある。

スタッフ

安宿とは思えない丁寧かつ礼儀正しい振る舞い。信頼できる。


良いところ
最安価クラスの1泊250B。(ファンルーム)
宿にいるだけでカオサン・ロードの熱気が伝わってくる。
客層が多国籍で刺激的。


悪いところ
水洗式かつ公共の汚いバススペース。
EDMがうるさく、ベッドに響く
通気性が悪いため、ファンルームだと部屋の中が暑い


注意点

5~10Bほどで、トイレだけの使用が可能。
しかし、石鹸もトイレットペーパーも用意されていない。
水洗式な上に、事後に汚れた手を綺麗にすることもできない。
もしかすると石鹸を購入できるのかもしれないが、トイレ自体汚いのでオススメできない。
(参考 : バンコクでトイレに行きたくなった時はどうしたらいい?)




PALACE HOTEL 慢谷 仙宮大旅社




エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地 : 149 TROK SAKE TANAO RD. BKK. 10200(グーグルに記載なし)
(58 Soi Damnoen Klang Tai ”Khwaeng Wat Bowon Niwet, Khet Phra Nakhon Krung Thep Maha Nakhon 10200”にあるセブンイレブンの隣)
電話 : 0-2221-7215、0-2224-1876、0-2224-1879
価格 : 1泊500TBH(1,750円)


設備

エアコン、温水利用可能。冷蔵庫不明。
部屋の老朽化がひどく、エアコンも旧式の手動式。
トイレ、バス個室。
部屋は広めだが、電源が3つしかない。

Wifi

接続できない。

清潔度

ゴージャス感はないものの、室内は清潔な方。

立地

カオサンロード付近、民主記念碑からRatchadamnoen Klang Rdを川沿いに進み、58 Soi Damnoen Klang Tai にあるホテル。
駐車場側から出た隣に7イレブンがあり便利。外の路地ではローカル屋台が飲食物の販売を行なっているので、食の供給に困らない。
冷蔵庫がなくとも、問題なし。
カオサンロードから外れたエリアにあるので、大音量のEDMでベットが揺れることもない。

スタッフ

丁寧かつ親切。


良いところ
同じ価格帯で利用できる個室の中では、音漏れが少ない
カオサンから外れたEDMの響かない静かな立地
近くに屋台やセブンイレブンがあり、食の供給に便利


悪いところ
wifiが繋がらない
音漏れが少ない代わりに、建物や設備が古く貧相


注意点

夜遅くなると、駐車場側の扉が閉まります。
反対側の出口から出ましょう。



NAT2 GUEST HOUSE

設備○。ただし室外の音がほぼダイレクトに伝わる。

エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地 : 190 Khaosan Rd, Talat Yot, Khet Phra Nakhon, Krung Thep Maha Nakhon 10200 タイ
91-95 Soi Post Office Ratchadamnon Rd. Banglumpoo Bangkok 10200 Thailand nead Khao san Rd.
電話 : 02-282-0211, 02-629-4324
価格 : 1泊250TBH(ファン : 875円), 450バーツ(エアコン : 1575円)


設備

冷蔵庫なし。
エアコン、温水利用可能。
ファンルーム(250バーツ)の場合、トイレ・バスルーム共用。

Wifi

問題なく利用できる。

清潔度

及第点。共用バスルームは不明。

立地

バーガーキングのある通りを境に、カオサンロードの向かい側の通りにあるゲストハウス。
民主記念碑のロータリーから、マクドナルドのすぐ横の角に進むと、ローカルの雰囲気佇む一本道に入る。
その道中にこのゲストハウスはある。目印は、Ratchadamnon郵便局と日本人経営の宿。
1階はバーになっている。

スタッフ

日本人観光客が多いらしく、親日的で丁寧な対応。


良いところ
最安価1泊250バーツの安さ
価格の割には設備面が良好(個室)


悪いところ
隣室のトイレを流す音まで聞こえる激しい音漏れ


注意点

客層は、欧米人よりも日本人が多い印象を受けた。



スクムビッド


Sun City Hotel(非推奨)

インド系イスラム教徒の方がオーナーが経営するホテル。
正直、マイナス要素ばかり。非推奨なホテルの筆頭。

設備と衛生的に、1泊850バーツの質を満たせていない

昼間の熱気に負けてしまう冷気。温度調節もできない。繰り返すが1泊850バーツ。

エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地 :Soi Sukhumvit 11 Khlong Tan Nuea, Khet Watthana, Krung Thep Maha Nakhon 10110 タイ
価格 : 1泊850TBH(2,975円)


設備

エアコン、冷蔵庫、温水付き。
ただし、昼間はエアコンの冷気が外の熱気に負けてしまうので、つけていても熱い。
冷気が優位になる夜になると、涼しくなる。
また、温度調節もできない。

Wifi

接続できない。

清潔度

部屋は狭く、かすかな悪臭すら感じる。南京虫の出現報告も。

立地

(要改正)インディアン・レストランの外観だが奥に階段があり2階以降がホテルになっている。

スタッフ

日本に3度訪れたことがあるというイスラムの白装束を着たオーナー、教育が行き届いたスタッフともに、接客は丁寧。


良いところ
冷蔵庫がある(外部からの食の持ち込みは禁止)
冷蔵庫の中に瓶ボトルの水が2本用意されている。


悪いところ
壁紙に書かれた独自ルールの厳しさ
エアコンが昼間まともに機能せず、温度調節もできない
1泊850Bに対してコスパ崩壊


注意点

リモコンがないので、温度調節や停止ができない。
睡眠中に風邪を引かないようにカードキーを抜いて強引に停止させると、今度は暑い。


南京虫の出現を警告するホテルレビューが寄せられていた。
自分が泊まった302号室はセーフだったが、部屋のクオリティも高くないので、利用は避けたほうが賢明。



ナナ通り


ORCHID HOUSE


エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地 : 77 Soi Sukhumvit 4, Khwaeng Khlong Toei, Khlong Toei, Krung Thep Maha Nakhon 10110 タイ
電話 : +66 2 280 2691
価格 : 600TBH(ファン : 2,100円)、700TBH(エアコン : 2,450円)


設備

エアコン、冷蔵庫、温水あり。
上階からの振動がやや気になるものの、エリア最安価の料金を思えば可もなく不可もなく。

Wifi

問題なく接続できる。

清潔度

やや清潔感に欠けるが、サンシティホテルに比べると遥かにマシ。

立地

ナナプラザのある通りを真っ直ぐ進んだ場所にあるホテル。
目と鼻の先にセブンイレブンがある。
歓楽街があるエリアの末端。このホテルをさらに先に進んでも、行き止まりにぶつかるので注意。

スタッフ

親切で丁寧。


良いところ
ナナ・プラザから近い立地
エリア最安価の個室宿


悪いところ
上の階の物音が響く
部屋のクオリティがやや低め


注意点

特になし



サートーン区


P. S. Guest House(ルンピニー駅から400mのお勧めホテル)

ウィークリーマンションのようなハイクオリティ宿。本項の宿ではコスパ的にベスト。

設備的も良し

エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地: Thung Maha Mek, Sathon, バンコク 10120 タイ("P. S. Guest House Thung Maha Mek, Sathon, 10120" で検索)
電話: +66 2 679 8822
価格 : 1泊550TBH(1,925円)


設備

ローカル大学生風の利用者も散見される、ウィークリーマンションのようなホテル。
冷蔵庫はないが、それ以外は完璧。
エアコン、温水利用可能。部屋の広さは6畳ほど。
ベットにもクッション性があり、防音も十分。(外の工事の音は響く)
客室があるフロアの下の階はロビーになっており、電気ポットと水が用意されている。

Wifi

途切れることなくWifiが使える。タイの安宿では貴重。

清潔度

部屋、トイレ、バスルームなど、全体的に清潔。

立地

ルンピニー駅まで400m、ルンピニー公園まで800m、在タイ王国日本大使館まで徒歩1.1kmの距離。
付近はローカルの佇まい。コンビニ、飲食店などが多く、便利。

スタッフ

シャッター式のフロント。顔だけが覗く幅。
カードキーで扉を開け閉めする。
ホテルの出入りに挨拶が必要ないのが気楽でいい。
スタッフの態度も親切で真面目。


良いところ
550バーツ(1,940円)に対するコスパの良さ
ロビーにあるポットで気になる現地のカップ麺鑑賞ができる


悪いところ
冷蔵庫がない。保存料がないため腐りやすいローカル飯を保管できない。


注意点

冷蔵庫がないので、ローカル飯が安いからといって、買いすぎないようにしたいところ。カップ麺の食べ過ぎにも注意。



フワイクワーン


Ratch66

デザイン性も優秀

価格以上の神ホテル

機能性に溢れた内装

窓の外には驚きのベランダ付き


エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地 :  Pracha Rat Bamphen 6 Alley, Lane 8-3, Huai Khwang, Bangkok 10310
電話 : +66 98 461 7651
価格 : 1泊750TBH(2,625円)


設備

設備は完璧。
エアコン、冷蔵庫、温水、トイレの清潔性はもちろん、デザインや構造の近代性は、芸術性の領域にまで肉薄している。
ベットは今までにないほど幅広で、大げさなほどのクッション性を備えていた。自然に瞼が重たくなってくる。
石鹸類、トイレットペーパーなどのアメ二ティも充実。電気ポットがあるので、現地カップ麺も楽しめる。
カーテンを開けるとベランダがあり、最上階で5階と高くはないが、街を見渡せる。
落下防止の柵が低いので、転落の恐怖はよぎるが、洗った衣服を外干しできるのは嬉しい。タイの太陽に照らされた衣服はすぐに水気を失う。
ホテル入り口から部屋のドアまでロック式。セキュリティー的にも完璧。

Wifi

高速のWifiを利用できる。大変快適。

清潔度

十分な清潔感あり。
不快な思いをすることはまずない。

立地

フライクワーン駅から700mの距離。
Pracha Rat Bamphen Rd通りの外れの静かなエリアにある。
このエリア一帯は、ローカル人が圧倒的多数派。
ホテル付近は住宅街だが、夕方まで開いている屋台、技術力の高いマッサージ店などがある。
Pracha Rat Bamphen Rdを出て大通りを渡った先には、ローカルのナイトマーケットに続いており、質の高いローカルフードやマッサージを楽しむことが可能。若者が多く、活気がある。
手の届く距離にコンビニはないが、そう遠くないのと、冷蔵庫があるため買いだめが効く。

スタッフ

親切かつ丁寧。システムの説明をしっかりしてくれる。


良いところ
先進国なら8,000円は出さないとお目にかかれないクオリティの設備。
芸術性にまで踏み込んだ設計。高級感に心が満たされる。
Mybedを900Bを凌ぐ圧倒的コスパの良さ
室内にポット常備。「日清カップヌードル・トムヤンクン味」など、魅力的な現地カップ麺を鑑賞する上で大変役に立つ。


悪いところ
ベッド上部にあるエアコンの冷気がベットに直撃して寒い
400mほど歩かなければコンビニにたどり着けない(冷蔵庫があるので問題なし)


注意点

完璧な機能性、芸術性、コスパ、BTSまで近い立地など、長期滞在用としても十分推薦できるホテル。


ただし、ホテルがあるエリアは、外部に通り抜けできない閉鎖された区画に位置しているので、真夜中の女性の1人歩きは避けたほうがよさそう。



チャトゥチャック区


My Bed Ratchada(マイベッド ラチャダー)

900B相応の機能性だが、やや狭苦しい


エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地 : 67 Ratchadaphisek Rd, Chatuchak, Jatujak, Krung Thep Maha Nakhon 10900
電話 : +66 2 975 9975
価格 : 1泊900THB(3,150円)


設備

エアコン、冷蔵庫、温水、クッション性のあるベッド。
部屋はやや狭し。
ドアのロックは、カードキー式。セキュリティも万全。

Wifi

十分な速度の出る安定したWIfiを利用できる。

清潔度

室内、ロビー、老化とも清掃が行き届いており、清潔。

立地

MRTラットプラーオ駅まで240mの距離。
450m先にセブンイレブンがある。

スタッフ

よく教育された美しい女性が受付を務めていた。


良いところ
何も困ることがない機能面の充実性


悪いところ
750BのRatch66に比べると、900Bの価格はやや割高。
ベットだけで部屋の半分程度が埋まる部屋の狭さ
エレベーターがなく、階段の登り降りが大変
中心街から外れており、付近に魅力な観光地がない


注意点

1泊900TBH(3,170円)の日本なら安宿に分類されるホテルも、タイなら中級の部類。
それにしては満足度がイマイチという感想。
推薦できるかというと、できない。



プラナコーン区


NEW VUANG THONG HOTEL 新金屋大旅社(Googleに記載なし)


一面ガラス張り

嬉しいバス付き。湯が沸かせるが、汚い。


エアコン 冷蔵庫 温水 ベッド
評価 よく涼む 問題なく動く 問題なし 及第点

所在地 : Samran Rat, プラナコーン バンコク 10200 タイのバスターミナルから徒歩27m
電話 : 02-2220604, 02-2216700
価格 : 1泊550TBH(1,925円)


設備

冷蔵庫なし。エアコン、温水利用可能。
エアコンは、旧式のタイプで、3段階のスイッチ式。よく冷える。
浴室には、浴槽があり、栓をして湯を沸かすことも可能。
お湯も連続出力に耐えられるようで、異国では珍しい、暑い湯に入ることができた。
老朽化の進んだ部屋は一面ガラス張りになっており、自分の姿がこれでもか、というほど目に入ってくる。
8畳ほどの広さがあるが、外から音がほぼダイレクトで伝わり、煩わしい。

Wifi

Wifiは繋がらない。

清潔度

部屋や水回りの清潔感にはやや欠ける印象。トイレットペーパーが予備まで用意してあるのは嬉しい。

立地

ワットサケート、スントンプー博物館のエリアからロッマニーナート公園の方向に向かう途中にあるホテル。
Maha Chai RdのKASIKORNTHAI銀行の隣に目立つ看板が出ている。路地を入ってすぐ右に立地。
コンビニまでの距離が1km以上あり、冷蔵庫もないため、やや不便。

スタッフ

オーナーのおじさんは、笑顔が絶えず親切。
ただ料金未払いには厳しく、激しくノックしてくる面もある。


良いところ
プラナコーン区に少ない宿泊施設。夜中にはライトアップされた壮大なモニュメントが見物できる。
風呂を沸かし、湯に浸かることができる。水場は清潔とはいえない。


悪いところ
朝8~9時ごろになると始まる、ルームクリーンのボーイ(ガール)たちの声が防音の弱さも助けてうるさい
虫がよく侵入してくる。
水場の清潔感のなさ、蛇口の故障などが若干気になる。


注意点

滞在を延長する場合、翌日12時までに支払わないと、オーナーが目覚ましの騒音を起こした後、激しくノックしてくるので注意。


さいごに

バンコクの機能性を十分に楽しむには、宿の充実性が欠かせません。
といっても、750B(2,625円)から利用できる価格です。
この価格で、日本の同価格では出会えないクオリティの宿を利用できるので、滞在をお勧めします。

詳しくは↓の記事に書きました。
www.ossanns-oblige.com

東南アジアの覇者・タイ王国の物価はこれからも伸び続けるでしょう。
日本との物価差が感じられる今のうちに一度は訪れておくべき都市だと思います。

【アジア最強の都市?】タイ-バンコク旅の総評【神の国はここにあり】


入国まで

観光目的で滞在する場合、30日までのノービザ滞在が可能です。

入国経路は2つ、スワンナプーム国際空港とドンムアン空港です。

2006年に設置されたばかりのスワンナプーム国際空港の空港職員は、やや旅客の国籍によって対応を変える傾向が。
しかし、難なく入国審査を通過。(日本人は優遇気味)

ドイツ人建築科の設計した空港は、広く、いたるところにコンセントがあるなど機能性も充実。
地下1階には、バンコク・スカイトレインの駅が設置されており、市内各所へのアクセスに使うことができます。

旅行客が集結するカオサン・ロードへは、最寄りのファランポーンまで45バーツ(158円)しない程度。
AM6:00~PM12;00の時間帯で利用できます。

年中暑いタイですが、空港内は空調がよく効いており、地下一階にはセブンイレブンをはじめとする飲食店が設置されています。

24時間営業の為替交換所、1日2時間制限の無料Wifiも2つ提供されています(計4時間)。

到着後、朝まで時間を潰すことになっても、困ることはないでしょう。


バンコクの物価

大都市の佇まいを備えるバンコク。
近年はインフレ傾向にあるものの、物価は中流以下の人たちの賃金水準にフォーカスされており、まだまだ日本から見れば安いです。
だいたい1/2程度ではないでしょうか。

(1バーツ = 3.5円 : 2019年4月26日)

商品名 価格(バーツ:B) 日本円換算
安宿(シングル) 250~500(B/泊) 875円~1,750(円)
SIM(TrueMove : 15日10G) 49(B) 172(円)
缶ジュース(250ml) 15(B) 53(円)
緑茶(600ml) 25(B) 88(円)
弁当(7イレブン) 37(B) 130(円)
ハンバーガー 27(B) 95(円)
カップ麺(小) 13(B) 46(円)
カップ麺(大) 55(B) 193(円)
焼きイカ(カオサン) 60(B) 210(円)
ホテルのトイレ利用(カオサン) 5(B) 18(円)
トムヤンクン(中級レストラン、米なし) 180(B) 630(円)
カルボナーラ(中級レストラン) 180(B) 630(円)
ローカル弁当 25~40(B) 88~140(円)
焼き鳥(1本) 10(B) 35(円)

どれでも1本10バーツ(35円)


超肉厚のヘビー級。これで50バーツ(175円)

安ホテルのクオリティ

タイ王国の成長に伴い、宿泊施設の価格帯も激しいインフレに見舞われています。
安宿密集地帯であるカオサン・ストリート周辺には、まだまだ安いホテルが集まっています。
これら最安価のホテルは、ベトナム・カンボジアの同価格帯と比べると、コスパには劣る印象。

しかし、料金を一定水準以上に上げると、部屋の質が格段に高まるのが、タイの安宿の特徴。

・最安価250B(880円) → 狭い部屋にベット、ファン。トイレ・シャワー共用。
・450B(1,584円) → エアコン・バスルーム利用が可能。(防音弱)
・550B(1,936円) → 設備面の向上、防音も改善。
・750B(2,640円) → 部屋のデザイン、セキュリティ面まで向上

というイメージです。

750バーツ(2,640円)の宿は、正直いって、日本のラ×ホテルを凌ぐ快適性。

コスパ感覚では自分が歴代に宿泊したホテルの中でベストでした。

詳しくは↓の記事に記しました
【価格に基づくカースト制度】バンコクで宿泊したホテルの評価9つ - Ossan's Oblige ~オッサンズ・オブリージュ~


街の風景

都市的機能性、宗教的独自性の両立するバンコクは、アジア最高の都市かもしれません。

高層ビルが立ち並ぶ大都市の光景は、日本の大都市も同じです。

しかし、バンコクが東京と違うのは、都市が整然と設計されていることです。

東京のように都市の構成要素が独自に動いて全体が構成されるのではなく(カオス)、統一的な計画の下に各要素が割り当てられるという、都市設計の入念性を感じました。

歴史が浅いゆえの新奇性、既存の都市の問題点を克服した高い機能性。

中心都市単位としての比較では、日本の大都市に匹敵するか、すでに凌駕したものとみて間違い無いでしょう。

さらに、壮大な宗教的美意識が都市に融合していることも特徴の1つです。

街の至る所に掲示されているタイ国王ラーマ10世。

タイの王朝は、国内の統一にインドシナ随一の努力を払ってきました。
契機は様々です。

✔︎ 先住クメール族との同化のため
✔︎ 傘下の都市の支持を維持するため
✔︎ 領土拡大に伴い多民族化していく国土をまとめるため


インド化した東南アジアの国にとって、王は神(シヴァ、ヴィシュヌ)の化身であり、現世神と同等の存在です。
そのため、王は王として認められるために神格化を必要とし、文化・宗教の下支えを求めます。
インドシナの覇者として民族的多様性を免れなかった背景から、タイの宗教は大きく発展しました。
単一民族で神(統一性)を必要としなかった日本人からすれば、その壮大さに圧倒されるほど。

都市のあちこちに神仏や王を祀る壮麗・壮大な宗教建築・記念碑があり、それは中心地やタイ証券取引所でさえ例外ではありません。
(親仏の画像)


また、こうした壮麗な都市の足場は、コンクリートで平坦に整えられており、その上を多くの車が走ります。
特に日本車の多さは、非常に顕著です。
これは、トヨタ自動車が1962年からタイに製造拠点を設置し、現地製造した安い日本車を提供しているためです。
日本と同じように膨大な車が街を通過しますが、交通渋滞に陥ることも少なそうでした。
幅の広い道路が遠く長く一本道に引かれ、かつ架橋された道路で多面に分岐されています。
(道路の画像)


バンコクの人

人々は、丁寧、かつ礼儀を重んじ、礼節をわきまえた行動をとる傾向にあります。
外国人に対してもほとんどの人は丁寧です。
しかし、格好が汚い、態度が横柄、タイ人の権利を侵害するといった人には、排斥を行うようなので注意が必要です。

また白人至上主義的な行動をとる人が一定数います。
これは、「同じ空間の中で自分が一番下にならないために」行なっているタイ人が多い印象を受けました。
これは西洋人の支配を、巧妙にかわしてきたタイ人ならではの処世術なのではないでしょうか?

一方、インド系、中東系の人種に対する差別も見られますが、空港などのパブリックな場所以外では、ほとんどお目にかかれません。
この系統の人は、タイ人にとって自身のルーツに根ざす存在です。
時には同族嫌悪の対象にもなるのでしょう。
しかし基本的には、外交的配慮、歴史的な自我の感覚から行われ、大げさなものはパブリックな場面に制限されがちなのではないか?という(偏見的?な)印象を受けました。

そして、タイ人が最も大事にする価値観の1つが「独立」です。

いくら西洋人でも、タイ人の権利を侵害した際は、情け容赦ない迫害(ムエタイすら駆使した)の対象となります。
ローカルタイ人同士であっても、喧嘩は1対多が基本なので、タイでの横柄な態度、タイ人との摩擦は厳禁です。

いっぽう親日の度合いは、トヨタ自動車をはじめとする、日系企業の進出による現地への裨益もあり、「非常に高い」レベルです。
日本人(と認識されない場合は例外)が差別を浴びせかけられるようなことは、ほぼ起こらないと思います。

自分の目に入る範囲では、接客態度も良好で、礼儀・丁寧さの面で非常に優れていました。
こうした性格は、よくマッサージの接客態度に表れますが、手抜かりなくかつ徹底的。
あまりもの気持ち良さにマッサージ中(後)に熟睡してしまうこと間違い無しのハイクオリティでした。(缶コーヒー3杯飲んでも寝てしまうレベル。ただし路上の個人マッサージ師はテキトー)


とはいえ、ボッタクリを試みてくる店員が一定数いたことも事実です。
コンビニの店員でさえ、レジ会計だからバレないと思ったのか、不当に価格を上乗せしてくることがあります。

いくら親日の大都市とはいえ、ノーガードは禁物。

薬物依存者の存在も知られているため、用心に越したことはありません。


インドとの類似点・相違点

タイランド湾に面するタイの地は、最もインド化の波及した土地です。

おまけにクメール王朝の影響力が波及した後、ヒンドゥー様式の寺院、都市などが築かれました。
この先住モン・クメール系の民族を追い出すことで、タイの王朝の歴史は始まっています。

そのような王朝成立の背景から、タイ人にとってのインド的なるものは「服従させるもの、下に置くべきもの」なのかもしれません。

タイにおけるインドとは、差別することはあっても、尊敬、模倣する対象とは見なされていないように伺えました。

タイの寺院も西洋建築的な幾何学的モデルに傾く傾向にあり、巻き×んこ型の黄金の仏塔もタイのオリジナルです。



食習慣も、どちらかというと、欧米式の肉食、中国式の麺類に傾斜しており、衣服も欧米化の傾向にあります。

しかしながら、タイの伝統文化の根底にインド・クメール時代の様式が息づいていることも間違いありません。

これは、スープ式カレーのトムヤンクン(辛いというか、しょっぱい)、王の神格化、寺院のベースに残るヒンドゥー様式などに見ることができます。


改善してほしい点、注意点

暑すぎる気候、東南アジアおなじみの熱々のスープをビニールに入れて渡してくる慣習。

それ以外に文句を言いたくなるような点はありませんでした。

これは、自分に降りかかった白人至上主義を含めてです。

日本の感覚では、人種や国籍によって対応を変えること(差別)はあり得ないことです。

なぜなら、日本は欧米列強に虐げられていた時期が短く、ほぼ対等に戦うか、一面において凌いできたからです。

欧米の国にへりくだる必要もなく、欧米植民地からのアジア解放を大義に戦った日本では、差別は自らのアイデンティティに反する冒涜行為です。

一方タイ王国は、19世紀に東西から押し寄せた英仏の勢力に対し、片方(イギリス)に味方することでもう片方(フランス)の浸透を防ぐことで状況の打開を図りました。
また、西洋文明に基づく強力な軍事品なしでは、王国の独立を守り抜くことは不可能でした。

「圧倒的な産業文明を備える欧米諸国と敗北を重ねたアジア(日本例外)」という歴史的教訓を踏まえ、外交相手の優先順位をつけることは、彼らの処世術なのだと思います。
(伝統的な友好国の中国も、アヘン戦争の敗北で衰退を見抜かれた後、20世紀にはタイ国王により「アジアのユダヤ人」として公式に批判された)

彼らの第一原則は、国家と民族の独立です。

1569年と1767年のアユタヤ陥落(ともにビルマの攻撃)では、都市は壊滅し、大勢のシャム人(タイ人)が捕虜(奴隷)としてビルマに連行されました。

そうした屈辱を2度と喫しないと誓うことで、タイ人はムエタイなどの洗練された防護術を生み出し、民族意識を強化してきたのです。

「白人至上主義」もそれと同じ処世術の一種でしょうから、容易にタイ人から取り上げることはできません。

これを防ぐ方法があるとすれば、「白色人種に負けない」実力と格好を身につけることでしょう。

「郷に入れば郷に従え」と言われるように、タイのバックグラウンドを理解しつつ、適切なポジショニングをすることが大事だと考えます。

もちろん、実害が発生しそうな時は、適切に抵抗する必要があります。

タイ人の差別には、「実害が発生するもの」と「実害が発生しないもの」があります。

例えば、とあるゲートを通過するのに、そばにいた女性スタッフが、白人客や日本人客にはゲートを素通りさせる一方、中東系の客へは、パスポート提示を求めて厳重なチェックを求めていました。

また飛行機の座席に向かう列の中、添乗員の女性が私の前にいた白人客へは、肩を掴んで丁寧に誘導するのに、私の時は素通りするという差別にも遭遇したこともあります。

これらは、屈辱的ではあるものの、実害が発生しない差別です。

一方、カオサンロードのコンビニのレジカウンターにて、背後にコワモテの白人、その前に私という状況の時、コンビニのレジカウンターは露骨に価格を操作して私に提示しました。(100バーツほど上乗せ)

そうすることで、その空間で、私より上に自分を位置付けたかったのでしょう。

しかし、私はそうした状況にただ興味がなく、急いでいたので、さっさと商品を回収し、隣のレジに並び直しました。

事後、多少イラっとしましたが、実害を避けることには成功しました。

これは、適切に対応しないと実害が発生していた例でしょう。

「タイには、白人至上主義の伝統がある」という事実を理解しつつ、備えることが大事です。

あらかじめ身なりを整える、実害が生じそうな時は対処するといった心構えを用意しておきましょう。


トイレに困った時の対処法

物価の安いバンコクでは、「ついつい食べ過ぎてしまう」ものです。

そのため、旅行中に前日の食事の影響が現れるのはよくあること。

そうした時、コンビニにトイレが設置されていないバンコクでは、独自にトイレを探さないとゲームオーバーとなります。

私が1週間ほどの滞在の間に見つけたトイレを利用できる場所を報告しておきます。

美術館(The BMA Local Museum Bangna District, National Discovery Museum Institute)
カオサンロードのホテル(5バーツ程度でトイレを提供している7holder Hotelなど。ここは紙や石鹸がないので非推奨)

The BMA Local Museum Bangna Districtのトイレ。ローカルの美術館で人も少ないのでオススメ。ちゃんと美術品の観賞もしましょう。


バンコクに訪れる価値はあるか?

バンコクはアジア屈指の都市です。
年中暖かいリゾート地の気候、都市全体の統一感。
平坦で美しいインフラ、都市に立ち並ぶ高層ビル。

そして、タイの独立と伝統を象徴する壮大な宗教モニュメント。

まるで都市全体が壮大な芸術品であるかのように美しく、その壮観さを観察するだけでも訪れる価値はあります。

さらに、日系コンビニ店などで必要なものは一通り手に入り、物価も雑感では日本の1/2ほど。

日本での生活費1ヶ月分をそのまま持っていけば、日本よりも充実した日々を過ごせると見て間違い無いと思います。

おまけに、親日度もアジア屈指です。

日本人というだけで現地の人々は笑顔を向け、懇切丁寧に接してくれるでしょう。

トヨタ増し増しタクシー

これに関しては、以下のような背景が挙げられます。

✔︎ 歴史的友好関係(徳川幕府成立期の活発な貿易。仏からの領土回復を支援。)
✔︎ 工場設置などによる現地経済への裨益
✔︎ 進出邦人の多さ(在留邦人72,754人 : 2017)
✔︎ 文化輸出の進展

徳川幕府成立後〜鎖国体制の完成まで、日泰貿易の割合は、泰と日本以外の国との貿易額を凌いでいたそうです。

スクムビットという日本人街では、多くの日本人が居住・滞在しています。海外生活でありがちな孤独感に苛まれることも少ないでしょう。

もしかすると今後、芸術品にも匹敵するバンコクの都市を、今の低価格で楽しめる日々は、永遠に過ぎ去るかもしれません。

インドの発展が実現した時、中国とインドの境目にあるタイへ、膨大な投資需要が生じるからです。

そうなれば、タイに激しいインフレが生じ、物価は一気に高騰に向かうでしょう。

タイのインフレが本格化していない今のうちに、日本人にとってこの上ないバンコクへ、1度は訪れておくことを強くお勧めします。

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